第4話 ポートフォリオ

「あの!」

「ん?」

「あの、小学校の時、社会の教科書の絵、茶摘み娘の絵でした。先生が描いたんですか?」


 彼は「茶摘み?」と首を傾げ、すぐに「ああ、あれか」と笑った。


「そうだよ。あれはカラーインクを使って描いたんだ。原画、見るかい?」

「見たい!」 


 瑠璃が即答すると、彼は棚の中から薄くて黒い箱を引っ張り出してきた。背表紙に『color ink』と書いてある。他にも棚の中には『acrylic color』『water color』『air brush』『soft pastel』などいろいろ入っている。


 瑠璃が目を白黒させている間に、澤田は中から一枚取り出して見せた。

 画面の上に掛けられた半透明の紙をめくって「これ?」と見せてくれる彼に、瑠璃は「これです」と目を輝かせる。


 一面の緑。畝状に綺麗に並んだ茶の木の間に、ポツンポツンと光る目にも鮮やかな赤。そしてきりりと引き締まった藍色。瑠璃の発想に無い色の組み合わせだった。


「この薄い紙、なんですか?」


 絵が見たいと言いながら、絵の方ではなくて保護用の紙に興味を持つ。彼女の視点は目まぐるしく変わっていく。


「トレーシングペーパー。画面を保護するためにこうしてかけておく」

「他のも見ていいですか?」

「どうぞご自由に。これ使って」


 彼は棚の引き出しから白い綿手袋と使い捨てのマスクを出してきて、瑠璃に手渡した。


「一応、定着液は吹いてるけど、パステルや透明水彩もあるからね」


 彼女は何を言われているのか全く理解できなかったが、とにかくこの手袋とマスクをつけていれば大丈夫ということは理解できた。


「この絵はカラーインクで描いたって言いましたよね」

「そうだよ」

「カラーインクってどんなものですか?」


 ――あれ? 他の絵が見たいのではなかったのか?

 澤田は首を傾げる。彼女はもう興味の対象が変わっているらしい。


「こっちおいで」


 彼は大きな作業机のすぐ横にあったワゴンの引き出しをまるまる一つ抜いて、机の上に乗せた。


「これがカラーインクね」

「ウィンザー、アンド、ニュートンっていう色ですか?」

「これはメーカー名。ドクター・マーティンとホルベインとで迷ったんだけど、ウィンザー・アンド・ニュートンのは瓶が可愛くてね。ホルベインはキャップがスポイト状になってるから機能的なんだけど、この昔ながらの四角い瓶がカラーインクっぽくて好きなんだ」

「色の名前はどれ?」


 瓶の形には興味を示さない。あくまでも彼女の興味は『色』そのものらしい。澤田は一つ摘まみ上げると、ラベルに描かれた絵のすぐ下の文字を指した。


「このフクシャのすぐ下にあるのが色の名前。クリムゾンって書いてあるの、わかるかな?」

「クリムゾン……」


 彼女はもう一つ摘まみ上げた。


「このイチゴは?」

「スカーレット」


 彼女は更に一つ摘まみ上げた。


「こっちの人形は?」

「カーマイン」

「え、だって全部『赤』ですよ?」

「赤は一つじゃない」


 瑠璃は何か言いたげに澤田を見上げた。思いの外近くに顔があって、澤田の方が身を引いてしまう。

 この子のパーソナルスペースはどうなっているんだろうか。ほぼほぼ初対面の見知らぬおじさんの家に行って、この無防備! それほどまでに彼女を夢中にさせる色の世界。


「それから、このインクはみんな自分の住所を持ってる。出したところに正確に片づけてくれるかな」


 この澤田の一言が、彼女を動かした。それまで無表情だった瑠璃の顔が、たったの一言で輝きだしたのだ。

 彼女は色たちの居場所を作ってやることに喜びを感じている。「そこが君のいるべき場所なんだよ」と。図書館での色鉛筆のときもそうだったように。


 もしかすると、彼女自身、自分の居場所を探しているのではないだろうか――と澤田は彼女の様子を見ながら考える。十五歳と言えば高校一年生だろうか。だが、昨日図書館で会ったのは午前中だった。今日は午後一番。高校生なら学校にいる時間帯だ。

 学校には行っていないのか、それとも不登校になったのか。

 しのぶに聞けば何か知っているかもしれない。「瑠璃をちょっと注意して見ていて欲しい」と図書館に呼び出したのは、他ならぬ忍なのだから。


「さっき言ってたパステルってなんですか」


 澤田の思考は、瑠璃によって唐突に断ち切られた。


「パステルはこっち」


 澤田は几帳面にカラーインクを片付けると、ハンモックの隣の画材棚から大きな木のケースをいくつか出してきて机の上に置いた。


「これがオイルパステル。君も使ったことがあると思うけど、クレヨンなんかはこの仲間。で、こっちはソフトパステル。柔らかくてよく伸びる。粉っぽいから柔らかい表現に向く。こいつはハードパステル。チョークはこの仲間。シャープな表現もしやすい」

「ノウベル、カレ――」

「ヌーベルカレーパステル九十六色。ハードパステルね。オイルはカランダッシュの九十六色。ソフトはゴンドラ二百四十二色、パステルは混色しにくいから、どうしても色数が増えてしまう」

「二百四十二! 凄い凄い凄い!」


 今にも噛みつきそうな勢いでパステルに顔を寄せたかと思うと、突然澤田の方をくるりと振り返った。


「パステルの絵が見たい」


 ――今度はパステル画か――澤田は苦笑いとともに頷いた。


「じゃあ、この『茶摘み』を元の棚に片付けて、ソフトパステルって書いてあるポートフォリオを持って来て。僕はパステルを片付けておくから」

「ポートフォリオってなんですか?」

「作品が収納してあるファイルのこと。この箱がポートフォリオボックスね。これは『カラーインク』の作品群だから、『ソフトパステル』を持って来てくれるかな?」


 瑠璃は元気よく返事をすると、『茶摘み』に丁寧にトレーシングペーパーで蓋をしてポートフォリオを片付けた。

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