第3話 ちゃん
翌日、瑠璃は澤田永遠のアトリエへ行ってみた。
母の仕事場は、パッと見た感じアトリエという雰囲気ではない。パソコンで描いているので画材を一切必要としないのだ。
昔使っていた画材は捨ててはいないものの、物置代わりの部屋に置いたままになっている。
そんなパソコンしかないアトリエを普段から見ている瑠璃は、普通の画家のアトリエというものが気になって仕方なかった。
澤田のアトリエはすぐにわかった。名刺の地図の中にあった公園は、瑠璃が何度も行ったことのある公園だったのだ。
呼び鈴を押すと、澤田が外についている階段から降りて来た。
「やあ、早速来たね。アトリエは二階なんだ、ついてきて」
どうやら一階部分は住居スペースのようだ。二階部分がアトリエになっており、屋外に付いた階段から出入りするらしい。
「どうぞ」
澤田に促されてアトリエに入ると、油絵具だろうか、美術室と同じ匂いが瑠璃を包みこんだ。
入り口のすぐそばに一階から二階に抜ける吹き抜けがあり、下を覗くと一階の玄関部分が見えている。一階の住居スペースと同じ面積を、そのままぶち抜きの一部屋にしてしまったようで、部屋の仕切りなどは見当たらない。
しかも普通吹き抜けと言えば空気を攪拌するためにシーリングファンなどがついているものだが、この家の吹き抜けの天井部分には何故か滑車がついている。一体何に使うのか瑠璃には見当もつかないが、あるからには何かに利用するのだろう。
室内に視線を戻すと、目の前にはキャンバスを立てる
反対側の壁には画材が入っているのか、引き出し式の大きな棚があり、その奥には……ベッド? 二段ベッドのような造りの上の段にはキャンバスがたくさん積まれており、下の段は上の段から吊るしているハンモックにクッションが一つ無造作に乗っている。恐らく上の段は本来ベッドなのだろう、だが、完全にキャンバスに占拠されている。
ハンモックの前にはディレクターズチェアがあり、このどちらかで休憩するのだろうということが窺えた。
その奥にはシンクがあり、電気ケトルが横に鎮座している。どうやら画材を洗うのもお茶を淹れるのもここらしい。
その奥に見える一畳分くらいの小部屋はトイレだろうか、このアトリエだけでもそれなりに生活できてしまいそうである。
澤田はディレクターズチェアを瑠璃の方に向けると「座って」と促しながら、自分はイーゼルの前にあった丸椅子を引っ張ってきた。
「僕の名前は
「
「瑠璃ちゃんね、よろしく。絵を描くかどうかはゆっくり考えたらいい。まずは絵描きがどんなものか、自分の目で確かめて――」
「あの……」
「ん?」
「あたし、もう十五歳なんで、瑠璃『ちゃん』って言うのはやめてください」
キョトンとした澤田は、一瞬遅れて笑い出した。
「ごめんごめん。瑠璃さんがいいかな、雨宮さんがいい?」
「ええと、瑠璃さん……なんか気持ち悪いな。雨宮さん……うーん、年上の人にさん付けて呼ばれるのも変かな。いっそ瑠璃って呼び捨て。なんか違う。だけど、もう子供じゃないし。『ちゃん』って幼稚園児みたいだし」
苦笑いしながらしばらく様子を見守っていた澤田だが、このままでは本人にも解決できないだろうと察知し、いくらかの遠慮を以て「瑠璃ちゃんで良くない?」と割り込んだ。
「じゃあ、それでいいです」
釈然としない様子で頷く彼女を見て、「面白い子だな」と澤田は思う。
図書館での落ち着きのない態度、色鉛筆をアドレス通りに戻していく緻密さ、呼び方に対するこだわり。
一見どうでもいいようなことにこだわる割に、変なところで無頓着。花柄のブラウスにボーダーのパーカーを重ねてくることには疑問を持たないらしい。
だが、こういう一風変わった人が面白い作品を描くのだ。軽度の知的障害と共にサヴァン症候群を疑われた山下清、注意欠陥・多動性障害ではないかと言われたパブロ・ピカソ、アスペルガーの疑いが持たれているフィンセント・ファン・ゴッホ。みんな『ちょっと変わった人』だ。
「関係ないけど、今日のその服装はどうやって選んだの?」
「青系で統一しました」
色か! 青地に水色の小花が散った薄手の清楚なブラウスに、紺と白の大胆な幅広ボーダー、しかもこちらはパイル地だ。柄も素材もありえないほどミスマッチだが、彼女の視点は色彩の系統一に向いていた。
やはり彼女は生活の中で、優先度の高い位置に『色』を据えている。裏を返すと『色を基準に物事を考えている』と言っても過言ではないだろう。
これは案外期待できるかもしれない。大化けの可能性は否定できないぞ――澤田はますます彼女に興味を持った。
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