第2話 エイエン

「お母さん、サワダエイエンて人知ってる?」

「知らないけど。どうしたの突然、なんの人?」

「わかんない。図書館で会った人」


 今日のハンバーグは今までの中ではかなり上手にできた方だ。箸でほろっと崩れる絶妙な堅さに仕上がっている。

 母に褒められて有頂天になっていた時に、ふと瑠璃るりは昼間図書館で会った謎の男のことを思い出したのだ。


 瑠璃は思い立ったことをすぐに行動に移してしまう。やりかけのことがあっても、何かが気になるとそれまでやっていたことを放り出してまで気になることを優先する。そしてそのままやりかけのことを忘れてしまう。


 それは行動に限らず、会話でも起こり得る。今までの話題と無関係に、思いついたことをそのまま喋ってしまうのだ。それが人間関係悪化の原因となっていたことも自分で理解しているのだが、どうにも自制が利かない。言いたいと思ったら言わずにいられない、『我慢』ができないのだ。


 母は瑠璃の特性に慣れているので、急に話題が代わっても気にしない。それが瑠璃には心地良い。

 学校ではいつも「今その話してないから」「ちょっと空気読みなよ」と冷たく突き放され、次第に誰にも相手にして貰えなくなった。

 学校でどれだけ孤立していても、家に帰れば全てをおおらかに受け入れてくれる母がいた。そのお陰で瑠璃は学校へ行くことができていた。二年前までは。


「知らない人に声を掛けられたの?」

「うん、色鉛筆ばら撒いちゃったら、そのおじさんが一緒に拾ってくれた。それであたしの絵が見たいって言うから、恥ずかしかったけど描きかけの絵を見せたんだ。そうしたら名刺くれたの。そこにサワダエイエンって書いてあった」


 ふーん、と訝しむようなニュアンスを乗せた返事が母から返って来る。


「それでなんて?」

「本気で絵描きになる気があるなら連絡してくれって」


 サワダエイエンなんて絵画教室がこの近くにあっただろうか、と母は首を捻る。


「瑠璃はどうしたいの?」

「どうって?」

「サワダエイエンさんのところに行きたいの?」

「そんなわけないじゃん。絵が描きたいならお母さんに教えて貰えばいいんだから。うちにプロのイラストレーターがいるのに、別の知らない人のところに習いに行く意味ないし」


 ご尤もです、と母は納得する。それでも娘が外に習いに行きたいのなら、そうさせてやるという選択肢は残しておいてやりたかった。


「名刺、見せてくれる? ご飯が終わってからでいいから」


 最後まで言い終わらないうちに瑠璃は席を立っていた。

 食事中は落ち着いて座っていて欲しいから「終わってからでいい」と付け加えたのだが、彼女にその行動をとらせるためにはあとから付け加えるのでは遅いのだ。自分で覚えておいて、食事が終わったタイミングで「見せてくれ」と声を掛ける他ない。そのことを十分知っている母は、自分の失敗を素直に認めて反省するしかない。


 階段をパタパタとスリッパの音が駆け下りて来て、「これ」という声と共にテーブルの上に小さなカードが置かれる。


 名刺サイズにカットされたアイボリーのマーメイド紙に、バーントアンバーのインクでアトリエの地図。どう考えても裏面である。

 表に返すと電話番号の上に『澤田永遠』の名前が印刷されている。


澤田さわだ永遠とわ! エイエンじゃなくてトワだよ、瑠璃」

「へー、トワさんかぁ」

「へーじゃないよ、あんたがお気に入りだった小学校の社会の教科書の表紙絵描いた人だよ」

「ええっ! そうなの?」


 再び瑠璃が階段に向かうのを、母が「待って!」と止める。


「小学校の教科書、残してないから探しても出てこないよ」

「あ、そっか。でも覚えてるよ、教科書の絵、大好きだったから。茶摘みをしてるお姉さんたちの絵だった」


 母もその絵は鮮明に覚えている。

 一面の茶畑のそこかしこで、茶摘み娘が仕事に精を出している。緑色の茶の木に赤い前掛けが補色ならではの強烈な対比を生んでおり、絣の着物の藍色が画面を引き締めていた。

 あの絵を描いた澤田永遠がこの家の近所に住んでいるということを、同業者である母も知らなかったのだ。


「どうしよう、茶摘みの絵の人なら行ってみたいなぁ」

「せっかく向こうから声を掛けてくださったんだから、絵を習うかどうか決める前に一度アトリエを訪ねてみたらどうかしら。それから考えてもいいんじゃない?」


 話している傍から瑠璃はもう電話に走っている。どこまでも『思い立つ日が吉日』な子だ。


「こんな時間に失礼でしょ、明日にしなさい」


 とはいうものの、まだ七時。許される時間か……と考える間もなく瑠璃の声が響いた。


「あの、昼間図書館で名刺貰ったんですけど。……はい、妖精の絵を描いてた……そうです。えっと、まだ決めたわけじゃないんですけど、一度アトリエに行ってもいいですか?」

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