群青のアトリエ

如月芳美

第1話 色鉛筆

 ガシャン。


 静寂に包まれた図書館に、大きな音が響いた。同じ空間にいた全員の視線が、部屋の隅の机にいた女の子に一斉に注がれる。

 床に散らばったたくさんの鉛筆を拾い集める彼女にすぐに興味を失ったのか、彼らは再びそれまで読んでいた書物に視線を戻す。


 きちんと鉛筆をケースに戻していた彼女が、不意に首を伸ばした。数が足りないのか、辺りをきょろきょろと窺っている。

 その背後で、細長い二本のブルージーンズが停止した。


「これ、探してる?」


 頭上から唐突に降ってきた柔らかいテノールに彼女が顔を上げると、逆光になった長身の男性が群青色の鉛筆を目の前に差し出している。


「はい、そうです。ありがとうございます」


 彼女は慌てて立ち上がると、彼に頭を下げ……そのはずみで派手な効果音と共に、再び色鉛筆をケースごと床にばら撒いた。

 「チッ」という舌打ちが、どこからか二人の耳に届く。彼女は申し訳なさそうにチラリとそちらに視線を移すと、誰にともなく小さく頭を下げた。


「大丈夫、慌てないで。ケース、床に置いて」


 三十代半ばくらいだろうか、その男が彼女のそばに腰を屈め、一本ずつ丁寧に鉛筆を拾っていく。


「すいません。ありがとうございます」


 だが彼女はケースを机の上に置いた。床に直接置くのが嫌だったのかもしれない。拾った鉛筆を一本ずつ、端からではなくランダムに収納していく。いや、これはランダムではない、手が迷っている。『決められた鉛筆の住所』に戻しているのか。


 彼は興味を持って、彼女がそれを片付ける様子を眺めた。

 どうやら彼の見立ては間違っていないようだ。彼女は明らかに鉛筆を片付ける場所を決めている。決してランダムに入れているわけではない。


 しかし、どこにも色名は書いていないようだ。せいぜい一本ずつの鉛筆の方に刻印してある程度であり、ケースの方にはそのアドレスとなるような表記は全くと言っていいほど見当たらない。

 彼女は一体どうやってこの鉛筆たちの収まるべき場所を見分けているのだろうか。


 彼が注意深く観察しているうちに、鉛筆は全て綺麗に色相環を基準とした基本配置に収納されてしまった。三十六色の色鉛筆を、何も見ずにこの子は片付けてしまったのだ。


 彼は俄然、彼女に興味を持った。そばにはF6サイズのスケッチブックと、ここで借りたのだろうかハードカバーの分厚い本が置いてある。


「君、何か絵を描いていたのかな?」

「え?」


 彼女がビクッと顔を上げた。

 随分と幼い印象ではあるが、ひょっとすると高校生くらいかもしれない。オドオドと落ち着かない様子で見上げる目に、彼は精一杯優しい笑顔を作った。


「いや……ほら、こんなにたくさんの色が入った色鉛筆とスケッチブックを持っていたから。どんな絵を描いているんだろうなって思ったんだよ。僕も絵を描くから」


 図書館で絵を描いていることを咎められると思ってビクビクしていたのだろうか、彼が理由を話すと少しだけ表情が和らいだ。


「本を読んでて、頭に浮かんだ景色を描いてます」


 彼はそばにあった冒険ファンタジーの本を手に取った。なるほど今はこの本の絵を描いているのだろう。


「絵、見せて貰ってもいいかな?」


 彼女は黙って頷くと、スケッチブックを開いて、彼の方に差し出した。


 森の中。木々の隙間から光が差し込み、ところどころ下草に付いた露が輝いている。よく見ないと見落としてしまいそうなほどに小さな生き物たちが、あちこちに配置されている。

 きのこの上にカタツムリ。花の上にはテントウムシ。シダの裏側にはシャクトリムシ。木の枝からはクモがぶら下がっている。だが、この絵の主人公は虫たちではない。

 短いドレスから伸びる細い脚。透き通る翅、ピンと立った耳、豊かに波打つ金髪と緑色に澄んだ瞳。

 何を受け止めようとしているのか、天に向かって伸ばした両手、つま先立ちになった白い足。


 彼はスケッチブックの中央にいる妖精にしばし見入った。


 何の反応も示さない彼に不安を感じたのか、彼女は「あの……」と遠慮がちに声を掛ける。彼は思い出したようにスッと彼女に視線を戻すと、ポケットから名刺を取り出して彼女に手渡した。


「君、本気で絵描きになる気があるなら、ここに連絡して」


 彼女が訊き返す間もなく、彼はさっさと図書館を出て行ってしまった。

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