高潔な裏切り

 何もかもが、見慣れた光景だった。クリーム色の天井に、文庫本だけが並ぶ本棚、あまり可愛くないぬいぐるみ。香蓮の部屋だ。紅代香蓮の寝室だ。片頭痛がする。動悸が荒い。収まらない興奮を噛み締めながら、香蓮はあの世界のことを思い出す。「夢?」などと呟き、全神経が否定する。あれが夢であったはずがない。あんなにも苦しくて、涙して、絶望して、怨嗟に震え、大望に突き動かされた世界が偽物だったなんてあり得ない。

「戻ったんだな、香蓮」

 声に振り向き、そこには懐かしい顔、愛しい人の顔があった。

「とう……じろう?」

 苦しくなるくらいの感情が溢れ出す。

(あぁ、そっか。私は藤次郎にもう一度会いたかったんだ)

 あの世界で途絶えることのなかった希望は彼にこそ集約されていた。感動に嗚咽が零れそうになる。けれど、それ以上に彼の言葉が脳裏で反芻していた。藤次郎の腕に縋る。

「戻った、ということは私は確かに入れ替わっていたのね? あなたはレンのことを知ってるのね?」

「あぁ、すべて話す。だからまずは落ち着け」

 不思議と、彼に落ち着けと言われると、鳴りやまなかった鼓動がスーッと引いていく。

「香蓮のお母さんから、様子がおかしいと電話があった」

 朝になり、登校時間を越えても部屋から出て来なかったらしい。物音がするので起きているようだったが、何度呼びかけても返事がない。具合が悪いのかと訝しみ、部屋を開けてみれば不気味な視線を向けられた。何かに戸惑っているようで、何もかもに驚いているようで、縮こまり、毛布にくるまったままで香蓮は胡乱な目付きをしていた。

「話しかけても返事がない。ひどく怯えているようで、そう、あれは錯乱していた。気が触れたのではないかと思わずにはいられないほどに、彼女は自己を喪失していた。平静じゃなかった。香蓮らしくなかった。正直、俺も戸惑ったよ」

 両親は仕事を休み、藤次郎も学校を休んだ。あの藤次郎が学業をあっさりと放棄してしまうほどに、彼女の様子は尋常ではなかった。初めは代わるがわるに声をかけ、どうにかして心を宥め、何があったのか問い質そうとしたがすべて無駄だった。病院に連れていこうともしたが、膝を抱えて蹲ったままで動こうともしない。家から連れ出すことなどできなかった。

「こう言っては何だが、あんなに憔悴した様子は初めて視たせいか、あの香蓮がこんなにもおとなしいなんて、と却って笑いたくなるほどだった」

 夜になっても様子は変わらず、そろそろ帰った方がいいと藤次郎は勧められた。

「最後に、もう一度だけ話しかけてみるつもりで部屋に入った。けれど変わらずでな、今日は諦めた方がいいと判断したときだった。ただ一言、彼女は言ったよ」

『ここはどこ?』と。

 耳を疑った。真っ先に記憶喪失なのかと思い、けれど、眼前の少女をよくよく見つめると、彼女の瞳に映っているものがここではないどこかであることに気付いた。

「君の名前は、紅代香蓮か?」

 少女は首を振って否定した。それから、私はレンだと、レン・スフラールだと続けた。

 夜を通して藤次郎と香蓮にしか見えない少女、レンとの会話は続いた。

 私はアガレシアという世界に生きていた。人間ではなく精霊種で、奴隷だった。親しい人の名前はマルタといい、血は繋がっていないけれどお姉ちゃんのような人だった。ガロンゾという村で計画的に出産され、両親とはすぐに引き離されたために顔も名前も知らない。奴隷として人間に貢献するために必要な知識と技術を叩き込まれ、愛情など知らず、悦楽も、感動も、尊厳も、生きることへの執着さえも持ち合わせなかった。空っぽだと、魂の入っていない肉人形だと、彼女は自身を定義した。最後の記憶は商品として出荷され、馬車で搬送されているものだ。今後の生活について不安を募らせるだけの覇気もなく、無感情のままに目を閉じて、気付けばこの部屋にいた。これが、藤次郎の知り得た『レン』の全てだった。

 藤次郎の口から語られた香蓮の人生は、レンのものとは真逆だった。こんなにも心を抉る皮肉があったものかと、藤次郎は口を閉ざしてしまいたかった。幸せを知らない人間に、その躰は幸せな人生を歩んできたのだと告げるなど、悪辣の極みだ。

「それから、レンの面倒をみていてくれたのね」

「御両親には言い訳紛いのことを告げ、心配はいらないと言い含めた。しばらくは御両親も不安そうだったが、レンの様子が落ち着くにつれてそれもなくなった」

「……レンは幸せそうだった?」

「あぁ。朗らかに笑うようになったよ。美味しいものを食べて、音楽を聴いて、本を読んで、映画を見て、彼女はそれまで知り得なかった人生の楽しさを味わった。人生はこんなにも素晴らしく、晴れやかで、世界はこんなにも美しく、心を躍らせてくれるものだと感動しているようだった。――……けれど、俺がそうだったように、彼女もまた、自分の肉体の持ち主だったヒトのことを、香蓮のことを気にかけていた」

 幸福を噛み締めるほど、自身の半生が掃き溜めでしかなかったと知るほど、苦しくなる。自分の代わりに不幸の坩堝へと叩き落されてしまったヒトのことが思われ、居ても立っても居られなくなる。戻らなければならないと、全てを元の状態に戻さなければならないと強迫観念が胸に上ってくる。借り物の幸福をのうのうと享受していられるほど、彼女は矮小な人間ではなかった。レンもまた、香蓮に似て高潔な心の持ち主だった。

「そして、これを見つけた」

 藤次郎が持ってきたものは、あの日、香蓮が買い求めた書物だった。

「……創世の記憶クロニクル

「俺にはちっとも読めなかったが、彼女には読むことができた。それで、この一文だ」

 示されたのはクロニクルの最後のページ。クロニクルを締めくくる最後の一文。

「『この版に血を流せば、アガレシアへの扉が開かれる』」

「読めるのか?」

「向こうの文字なら、随分と読み漁ったから」

 これで得心がいった。香蓮がアガレシアへと飛ばされたとき、彼女はクロニクルに血を垂らしていた。あれが引き鉄だったのだ。クロニクルそのものが魔術の媒体、術式そのもの、血液が魔術を発動させるための触媒ということだ。

「これを読んで、レンはアガレシアに戻ったのね」

「彼女から伝言を預かっている。『あなたの世界はとても楽しかった。ずっとこの幸せを感じていたいほどに――。でも、私の世界は残酷で、あなたにそれを背負わせるわけにはいきません。ごめんなさい。それと、ありがとう。よい夢が視れました』と」

「高潔な裏切りね……」

 そっと呟き、クロニクルを閉じる。彼女は、愛しいほどに優しすぎた。

 レンは彼女の世界に戻った。香蓮も自分の世界に戻って来た。異なる世界を跨いだ逆転劇は是正され、巻き込まれた少女達は、元居た鞘へと収まった。香蓮の躰には傷なんてない。魔術刻印も、精霊回廊も、血を流した跡もなく綺麗なままだ。記憶だけを引き下げて、あの日々を忘れるまで、あの記憶が泡沫へと変わるまで、この世界で生きていけばいいの?

(これで、本当に終わり?)

「香蓮……?」

「ねぇ、藤次郎。またアガレシアに行くって言ったら、怒る?」

 そんなはずがない。これで終わりなんて認めてはいけない。

「あの子、このままだと幸せになんてなれない。不幸なまま……ううん、それだけじゃなくてこのままだと殺される。人間の身勝手のために殺されちゃう。私が蒔いた種なの! せっかくレンだけでも自由になれたのに、私がレンを追い詰める選択をしちゃったの!」

「待て、待ってくれ香蓮! いったい向こうで何があったんだ」

 頽れた香蓮の肩を支え、藤次郎は香蓮を宥めようとする。けれど、この心は収まりそうにない。途切れ途切れの言葉でアガレシアでのことを伝える。藤次郎は耳を傾けてくれていた。香蓮が負った悲惨、彼女がレンに負わせた悲惨の一切合切を、辛抱強く受け止めてくれていた。

「だから、戻るのか? お前がそんな地獄に行くことを、俺に容認しろというのか?」

 藤次郎の心情は痛いほどに分かる。香蓮が彼を愛しく思っているように、彼も彼女を思っている。だからこそ、分からずにはいられない。もしも立場が逆だったなら、香蓮だって止めただろう。愛しい人が自分から地獄へ向かうことを、どうして見過ごせたものか。

「俺が行くのではダメか?」

「私とレンは経路パスが繋がっているけれど、藤次郎は誰と入れ替わるのか分からない」

「他に策はないのか? サレマナウ。彼ならどうにかしてくれるんじゃないか?」

「かもしれない。けど! 黙って後を任せるなんてできない!」

「勝手な感情だ! 香蓮の人生は香蓮のものだ。レンの人生もレンのものだ。偶然入れ替わったのだとしても、関わったとしても、他人の人生を背負うなんて傲慢が過ぎるだろう!」

「そんなの分かってるわよ!」

 激昂して藤次郎の胸を掴んだ。彼に怒りをぶつけるなんて筋違いだと分かっている。

 けれど、これだけは譲れない。なぜなら――

「あの子、何も知らないの。……何も知らずに、あの子は地獄に戻っちゃったのよ……」

 その間の記憶など持ち合わせず、ただ、戻ってみれば、その躰には呪いが刻まれていた。その躰は蟲に犯され、澱んだ欲望の標的にされ、妄想の儀式への触媒として仕立て上げられ、あずかり知らないところで『救世』などという大望を背負わされていた。あなたの人生なのだから受け入れろなんて、辛かろうが、理不尽だろうが背負っていけなどと言えない。

「私は――レンに幸せになって欲しいの」

 香蓮は揺るがない。レンを信じていないのではなく、それが正しいと信じているから。

「……分かった」

 沈黙の末、藤次郎は言葉を絞り出す。そうだ、知っていただろう? 痛いほどに理解していただろう? 香蓮という人間の在り様を。彼女の心の強さを。

「必ず戻って来い」

「うん、約束する」


「レンをお願いね」と言い残し、香蓮はアガレシアに旅立った。それを止められなかったことを悔やむ藤次郎の胸中には、もうひとつの感情が燻っていた。彼は、レンが心の底から笑い、人生の喜びを噛み締めていた姿を認めていた唯一のヒトだ。彼女の笑顔が曇ってしまうなど、魂が汚されてしまうなど看過できるはずもない。彼もレンの幸福を望んでいた。

 だから、香蓮に託す。自分では変えられないというなら彼女に変えて欲しいと願う。情けないと哄笑わらわれるだろうか。ならば訊こう、愛したヒトも信じられず、誰を信じるというのか。

 歯車は狂っていく。運命は歪められていく。全て、神が望む方向へと。

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