エピグラムの呪い

 ケルビムが与えられた命令は『赤髪の精霊種を捕えること』の一点だけだった。逃亡者は一人。魔法が使えた古代の精霊種ならいざ知らず、少なくとも彼女は無力で、隷従させられる他にない塵芥のような存在だ。誰が警戒心など抱けたものか。たとえ武器を手にしたところで、片や人間の言いなりに生きるしかない傀儡、片や武術と魔術に精通した狂戦士。アガレシア最強だと囁かれる戦場の英傑。慢心に溺れることは必然であろう。

(……と、思われたりするんだろうな)

 荒原の中央で、巨大な岩の影で胡坐をかきながらケルビムは思う。手元の水晶球には、精霊種の少女に刻まれたという首輪を通して、彼女の居場所が映し出されていた。森の中に留まること七日、その後、魔術を行使したとしか思えない速度で辺境の地に移り、またこちらに戻ってきている。逃げるだけの存在ではない。反抗の意志を秘めていると、彼女の行動が語る。

(護衛でも付けたか? 精霊種の生き残りが森に潜んでいたとも思えるが、それにしちゃ腑に落ちねえ。なるほど、奴等の憎悪は計り知れねえが、今さら人間に抗おうともしないだろ)

 そうしている間にも、少女はこちらに近付いてくる。そろそろ視認できる距離だ。

 遠見の魔術を両目にかけ、森と荒原の境界に目を走らせる。そして、土が巻き上げられる光景とともに少女を認めた。ひるがえる外套は絢爛を誇示するような深紅。革の鎧で矮躯を絞め付け、腰には細身の劔が提げられている。冬の陽を受け、燐光を纏った髪の色は赤。赤髪の精霊種。彼女こそが、ケルビムの師が求めている人物だった。その光景の異様なことといえば、筆舌に尽くし難い。少女が跨る獣は馬にあらず、優駿な竜であり、一人きりの逃亡者であったはずの彼女の背後には一人の人間が付き従っていた。何よりも少女は背中を見せていない。逃げる意思、隠れる意思が見えず、迫り来る彼女が掲げるものは敵対する意思だった。

(クク、これはなかなか楽しめそうじゃねえか)

 ケルビムは立ち上がり、竜を相手取るならばと獲物を両手剣から長槍に持ち変える。ファメリドから言い渡されていた期限はちょうど今日で切れる。見逃すことなど論外だが、ようやく狩りを楽しめそうだと彼は舌なめずりをした。

(先生、見つけたぜ。これから捕まえる)とファメリドに連絡を取ろうとした間際のことだった。少女の背後に控えていた老人の唇が動く。

朋友ともよ、恩恵を」

 世界が変質した。大地に秘められていた外界魔力が一気呵成に地上へと溢れ、膨れ上がり、爆発する。平静であった荒原は、外界魔力が吹き荒れる嵐へと歪められた。発動を試みた通信魔術は掻き消え、遠見の魔術さえ、痛みとともにケルビムの両目から失われた。

 全身が粟立ち、ケルビムは舌打ちとともに背後の老人の正体を悟った。

(野郎ッ、裁定者を手駒にしやがったのか)

 アガレシアは魔術によって支配されている。洗練された魔術は、人間に他種族を淘汰するほどの武力をもたらし、文明の根幹にさえ根付き、かの国を反映させた。だが、それは完璧ではない。扱い切れないほどの魔力の奔流に曝されれば、魔術は掻き消されてしまう。

 誰よりも多くの術式を扱え、誰よりも魔術に精通しているから。サレマナウ・エリはそのような敬意と崇拝によって『アガレシアの裁定者』に任じられたわけではない。それは表面上の理由に過ぎない。真実は、一切の魔術を封じる術を持つからこそ、国家を転覆させるだけの力を秘めているからこそ、その脅威を抑えるために『中立者』を命じられたのだ。

 ケルビムがレンを認めているように、彼女もケルビムを認めていた。

「まさかとは思ったけど、本当に追っ手が一人なんて」

「油断するでないぞ。奴の噂は耳にしておる。アガレシア最強と称される英傑だ」

「奴隷を捕まえるためだけに『最強』を引っ張り出すなんて、私も罪な女だね」

「そなたの策略通り、これで奴は魔術を使うことができない。奴に残されたものは原始的な武器と肉体のみ。戦力は半分以上に下ったが、これで諦めてくれはしないかね」

「……ダメそうね。見て、サレマナウさん。あの人、笑ってるわ」

「さすが、一騎当千を体現するだけの男なだけはあるか。……挑むのかね?」

「当然。私は自分が一騎当千の兵士であると驕るつもりはないけれど、ソメリアと交渉するためには帝国最強の兵士でも私を破れないという『箔』くらいは手に入れないと」

 高望みが過ぎるとは言わない。無謀だとも思えない。魔術を凌駕した魔法を操り、帝国が怖れた男を味方につけ、かつての神から至宝を託された。そこまでお膳立てされておきながら軍門に下るようでは話にならない。彼女に望まれているものはひとつ、必然の勝利だけだ。

 僅かにちらついた不安の影を捨て去り、レンは彼方の男と相対する。

「分かっておろうが、儂は戦いには参加できない。そなたのバックアップで精一杯だ」

「充分よ!」

 華美な振る舞いも、士気を鼓舞するための演説も不要だった。竜の背に唇を寄せ、

「駆けて。ただ真っ直ぐに。全ては私が薙ぎ払うわ」

 魔剣エピグラムを抜き払う。それが合図だった。鬨の声を上げる者などいない。竜の前肢が持ち上がり、ケルビムが長槍を構える。静謐とともに、両者は激突する。

 初めに動いたのはケルビムだった。しかしてそれは騎兵戦のセオリーには従わず、長槍を肩に担ぎ、その場で一歩踏み出す。それは大地を踏み躙るようであり、直後、寄せ返される波のように大地が隆起する。大地は『土塊の剣山』へと姿を変え、竜の前肢をよろめかす。

 レンは竜の背中から放り出され、器用に空中で姿勢を整えると着地する。動揺は畏怖となって瞳に宿り、ケルビムを見つめる眼差しは「あり得ない」と訴えていた。

「魔力の奔流か。裁定者を手駒にしたんだ。戦術としちゃあ、悪くない」

 男は飄々と語り、魔術を放ったばかりの右足を引いた。

「それがどうした。そんなもの、戦場の災禍の方が混沌を極めているだろ?」

 目論見ははなから崩された。レンとサレマナウと同じように、敵対する男も魔力の嵐を苦としない。アドバンテージを埋めるための策は空振りに終わり、残されたものは明確な実力差だけだ。埋められようのない、実戦と経験によって磨かれた武力のみだ。

「サレマナウさん、強化を」

「承知した」

 だが、それで怖気付くような彼女ではない。無謀などはなから承知だ。

 常人ならば目を剥くほどの速度と質を兼ね備え、強化の術式がレンに施されていく。その時間は一秒にも満たなかったが、逆に言えば、一秒という膨大な隙をケルビムは突かなかった。

「……どうして、いま襲わなかったの」

「お前さんの美貌に見惚れていた」

「………………」

「嘘じゃないさ。覚悟を固めた戦士の貌ほど美しいものはねえからな。だが、まあ、真意を語るのであれば、死闘をまじわすなら万全の状態でやるのが信念でね」

「優しいのね。それとも甘いのかしら」

「いや、そしたら言い訳できないだろ、負けたときに」

「まるで、勝利が当たり前だと思っている風な口ぶりね」

「いいや。勝てなかったら死ぬだけだろ。どうせ死ぬなら、高揚とともに死にたいだけだ」

(狂戦士ね)

 レンは舌を鳴らし、魔剣を構える。サレマナウによって施された魔術は、彼女を一端の戦士へと至らせていた。動き出す。『駆ける』と表すには相応しくない。両足が接地する時間は極めて刹那的であり、それはもはや飛翔と変わりなかった。劔と長槍、懐に潜り込めればいざ知らず、武器の理はケルビムにある。音に迫る速度で、槍の穂先は少女の心臓に突き出された。

 魔剣が打ち上げられる。槍の軌道と劔が重なり、赤橙の火花が散った。両者共に胴が開く。レンは空いていた左手で腰のアゾット剣を抜き払い、投擲する。真っ直ぐに、ケルビムの眉間めがけて。避けることは容易かっただろう。だが、彼は回避には転じず、魔術を発動させた。紅蓮の炎が口唇から噴き出し、常識外れの熱量はアゾット剣を蒸発させ、少女を襲う。

 最大の防御とは攻撃なり。ケルビムの戦い方、強さの源流はそこにあった。回避などと無駄な挙動はしない。どのような剣戟も、魔術も、それを上回る武力によって薙ぎ払う。

 アゾット剣を溶かし尽くした炎は、そのままレンを呑み込んだ。

(いけねえ、殺すなって言われてなかったか)

 焦ったのも束の間、炎の海を割り、赤髪の少女は飛び出してきた。

(裁定者の防御魔術か。あれがある限り、傷ひとつ付けられねえな)

「ヤアアアアッ!」

 気合一閃、咆哮とともに突き出された劔を半身を捻らせるだけで避け、ケルビムは下肢を大きく回転させる。すれ違いざま、剥き出しの胴体に蹴りが叩き込まれる。内臓が破裂する感覚とともにレンは二十メートルも飛ばされ、軌道を描くように口唇から血糊が噴き零される。

「裁定者の楯があるのに何故どうしてって顔だな」

 即座に治癒術式がかけられ、痛みの波は引いていくが心は搔き乱されたままだ。

「……手の内を明かしてくれるなんて優しいのね」

「まあ聞いとけ。それほど高尚な話じゃない、一般常識レベルの戦術史の話だ。まだ魔術が花開かず、人間が剣と弓で戦っていたときのことだ。半球状の傾斜の付いた楯と短剣を武器に戦う部族がいた。剣も弓も槍も、緻密に計算された楯の構造を前に切先を逸らされ、奴等は巨大な楯の影に隠れて悠々と近付き、短剣を突き立てていった。そうさな、あれはある種の完成された戦術だった。それでも戦死者は出た。さて、何故どうしてだ?」

「……潰されたのね」

「そうだ。切先は逸らせても叩き込まれた威力までは発散できないからな」

 軽く言ってくれるものだとサレマナウは舌打ちする。レンに施した防御術式に隙間などない。あれは一部の継ぎ目もなく、それでいて動きを妨げない鎧そのものだ。それをたかだか蹴り付けるだけのことで破るなど、人間の芸当ではない。

「それから、分かったことがひとつある」とケルビムはサレマナウを振り返った。

「いくら無駄話を咲かせているとはいえ、俺とお嬢ちゃんは相対している。襲いかかって来なかったことには一片の理がある。だが、アンタには背中を向けていたぞ?」

 それにもかかわらずサレマナウからの攻撃はなかった。そもそも、この二人組の戦い方は初めからおかしい。純粋な戦力を考えれば、サレマナウが上だろう。

「ギャサの盟約だな。アンタは俺を傷付けることができないと見た」

 瞬時に、ケルビムは身をひるがえす。見据える先は、裁定者の面貌。

「守ることしかできねえ腑抜けが、戦士の戦いに首を突っ込んでるんじゃねえ!」

 魔術が展開した。重ねられた術式は六つ。燃焼、雷鳴、必中、貫通、加速、凝縮。それをさらに二重に展開させ、放たれたものはあらゆる防御を刺し穿つ嚆矢。『天災』そのものだった。

 大気どころか、世界そのものを嚆矢は切断する。

 応じて展開された防御術式シールドは七層、裁定者の実力を以てしても、嚆矢の尋常ならざる速度を前にしてはそれが限界だった。その程度の楯を破れぬほど、ケルビムの攻撃は甘くない。

 拮抗などしなかった。一方的に破られ、サレマナウの右腕が飛んだ。

 血潮を螺旋状に撒き散らしていく『ちぎられた右腕』を前に、絶叫する者がいた。

 彼女だ。

 僅かに理性を残していた瞳は怨嗟に塗りたくられ、親しい人が傷付けられたことに焼けるような怒りを宿し、『殺意』を顕して彼女は『魔法』を発動させた。ファメリド・エリによって構築された疑似魔術回路、サレマナウ・エリの結界に触発されて構築された精霊回廊が唸り上がり、魔力を練り上げ、魔剣エピグラムへと注がれていく。煌びやかな、美しい白皙の劔は変質した。真っ黒な靄が劔を覆う。それはまさに魔剣と呼ばれるに相応しい見目をしていた。

(ようやく本気になりやがったか)

 待ちわびたとばかりに哄笑し、ケルビムは槍を捨てると腰から長剣を抜き放つ。

(仕組みは分からねえが、あの靄に触れるのは危険だな)

 ならば、防戦は避けて主導権を握るべきだ。ケルビムの両足が淡緑の光に覆われる。加速する。視界は急激に背後へと流れ、景色は線の連なりへと姿を変え、その中心に少女を捉える。

 殺すなと言い含められていた。あの少女は恩義ある『先生』が求めているのだ。『先生』が高みへと到達するための、悲願を成就するための生贄なのだ。価値を損なうことは許されない。だが、生かしてさえおけば。手足を捥いだところで、肺の片方を潰したところで、眼球を抉り取ったところで、骨を少しばかり複雑に砕いたところで死にはしない。本人が否定したところで、ケルビムは殺戮に特化した魔術師だ。殺し方に精通しているということは、はたまた死に切らない程度に生かす方法にも特化していることを表す。長剣の切先を僅かにずらす。大丈夫、うまく内臓の隙間を縫うようにすれば、腹を貫かれたところで死にはしない。

(だいたい、奴も避けるだろう)

 そう思っていたからこそ、彼女レンが如何に破綻しているのか知らなかったからこそ、彼女の行動を理解することなど彼にはできなかった。避けない、などと想像もできなかった。

 研ぎ澄まされた刃を前に、人間の躰などあまりにも脆く、柔い。刃は深々と突き刺さり、少女の腹部に穴を開けた。銀鏡のような刃に艶やかな血が伝い、柄まで流れ、ケルビムの手を濡らす。驚愕と困惑。自分から死にに来る人間など、相手取ったことはなかった。

 死にたくはないだろう。傷を負いたくはないだろう。防ぐだろう。避けるだろう。殺される前に、殺しに来るだろう。そういった、当然ともいえるいくつもの予測の上にケルビムは戦術を組み立てている。そこから逸脱した人間を前にどうすればいいのか、彼は考えられない。

 避けることを前提としていたために、うまく内臓の隙間を狙えず胃を傷付けたようだった。少女はか細く息を漏らし、微かな咳とともに喀血する。逆流する血だまり。草木の芽生えない荒野に、赤黒い池が形成されていく。ある意味で『自殺』した精霊種は苦痛から逃れるように左腕を持ち上げ、震える指先で、自分を貫いた人間の手首を掴んだ。それは頽れないための行為にも、朦朧とする意識の中、末期に縋っているようにも見えた。

「お前……」

 死ぬ気だったのか。続けようとした言葉は止められた。事切れる寸前の精霊種の瞳に、確たる意志が宿っていたことに。そして悟る。彼女がわざと刺されたことを。有り余るほどの彼我の実力を埋めるため、ケルビムを捕まえるために命を危険に晒したことを。

 まずい!

 反射的に距離を取ろうとして、彼は自分が地獄にいることを知覚した。

 精霊種の躰から剣を抜こうとしてできなかった。鉛で溶接されたかのように、剣は肉から抜けない。何故と訝しみ、自分の手元を見遣り、我が目を疑う。剣に蟲が絡み付いていた。一対の触覚と口器を有する頭部に、歩肢が並んだ胴部が続く。腕ほどもあり、それ以上にも見える蟲はムカデだった。ムカデとしか形容できない外見をしていた。絶えず動かされる肢が、異様な擦過音を立てている。戦慄と恐怖を誘う蟲がゆっくりと鎌首をもたげ、跳ね上がった。

 顔面にムカデが纏わり付く。首を絞められ、悲鳴を上げることも許されず、ムカデの原初的な口器が眼球に嚙り付いた。世界が暗闇に蔽われる。眼窩へと侵入したムカデは骨を喰い破り、鉤爪を肉に沈めながらのたうち回り、脳に達した。

『脳をムカデに喰い破られた』と知覚して、ケルビムは倒れ伏した。

 何が起こったのか理解できなかった。少なくとも彼自身の肉体は傷など負っていなかったし、心臓の拍動も正常だ。ただ、意識だけが搔き乱され、空っぽの眼が天を仰いでいた。

 悲壮な叫びが大音声で上がり、彼は悶える。『ムカデ』の次に知覚したものは、炎で全身を炙られることだった。さらには鉄串で股座から頭蓋までを貫かれ、突如として生じた大地の裂け目に呑み込まれる。いくつもの『死に様』を迎え、一滴の血も混じらせずに失命する。

 少女が手にした劔の名はエピグラム。神獣イスメルから賜った、天地開闢に等しい可能性を秘めた魔剣。其が劔の特質を、少女はこうあれと命じた。

『あなたは――……心を殺す劔であれ』

 エピグラムが刻むものは肉に非ず。如何なる殺傷も破壊も引き起こすことなく、ただ心だけを壊死させる。心だけを犯し尽くす。不殺ころさずを体現したまま、勝利を得る。

 戦意を挫かせるとはすなわち心を壊死させることで、それには単純な恐怖と虚無が最も有効であることを少女は知っていた。他ならぬ敵対者により理解させられた。蟲蔵に放り込まれ、蟲に舐られ続ける日々の中で彼女は全ての感情を失ったのだ。故にその恐ろしさを、その絶大なる威力を知っている。あれに抗うことは生半の精神ではできない。

 エピグラムの靄に触れた者は、幻惑の渦に落とされる。己が最も忌避する終焉を味わい、知覚した全てのことを『事実』として脳に刻まれる。脳が【幻惑の死】を事実として認識する。生存に必要な僅かばかりのことを残して脳は閉塞する。心は沈黙する。

 そこには闘争心も敵愾心も存在を許されない。何も感じることはなく、何もできることはない。エピグラムの呪いが解かれない限り、彼等は息をするだけの人形に成り果てる。

 それでもなお彼女のように、心を壊死させてなお叛逆のために立ち上がれる益荒男のみ、彼女の前に立ち塞がることを許される。どれほど殺戮の手腕を磨いたところで、戦場を駆け抜けたところで、死ねば終わりと捉えているケルビムにとって、それは不可能なことだった。

 抜け殻となったケルビムを一瞥し、腹に剣を突き立てたままで少女は歩く。

「サレマナウさん、大丈夫?」

「それはそなたもだろう?」

「うん。ちょっと……死にそうかも」

 衰弱した様子でレンは応え、「治癒なおしてもらえる?」と訊ねる。

「無論だ」

 サレマナウの右腕をくっつけ、レンの傷を塞ぐ。裁定者といえどそこまで大規模な魔術を行使することは負担となり、傷の継ぎ目を失くしただけで、万全の回復とはいえない。

「少し、休むかね?」

「いいえ。このまま進みましょう」

 竜の背に跨り、カロニアのある方角を睨む。ケルビムが定時連絡を入れていたとすれば、連絡が途絶えた瞬間にファメリドが動き出しかねない。何もかも、見積もりが甘い。ケルビム一人でここまでの打撃を与えられたのだ。数万の軍勢を相手取ることは避けるべきだ。

「……箔なら、もう充分よね」

 駆けること数十分、カロニアへの道のりを半分まで詰めたところでサレマナウが問うた。

「エピグラムの呪いは、どうしたのかね」

「もう解いたわ。あのままにしておけば、あの人、きっと戻れなくなる」

 死を刻まれた時間が長ければ長いほど後遺症は跳ね上がる。それは避けたかった。

「意識が戻ったところで、あれをただの幻覚だったと認めるには時間がかかるだろう。随分と距離も取った。追い付かれはしないだろうが、注意しておきなさい」

 サレマナウの言葉通り、以降の接敵はなく、日が暮れる頃にはカロニアの外壁が見えた。

「見えた」と安堵した瞬間、視界が揺らいだ。手綱を握る手が緩み、レンはぐったりと倒れ込むと竜の背から放り出された。サレマナウの声が遠くから聞こえる。手首を掴まれる感覚があったから、落下は免れたようだ。だが、外界の全てが知覚外に押しやられていく。

(血を流しすぎた? 違う。この感覚は、アガレシアで目覚めたときのものだ――……)

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