神に見初められた少女

カロニアへの道

 その裏切りは唐突にもたらされた。果たしてそれは血腥いものではなく、決して悪意という名の腫瘍を孕まず、純粋な善意によるものだった。同時に、紅代香蓮がアガレシアに於いて何を為そうとしているのか知らないばかりに引き起こされてしまった、無知による裏切りだった。

 自分の境遇を鑑みれば容易に想像できてしまう苦境を味わっているのではないか、彼女は苦しんでいるのではないかと心痛するあまり、彼女もまた、高潔な心によって全てが元の状態に戻ることを望んだ。奇しくも、彼女の手元にはそれを叶えるための書物が残されていたのだから。


 時は、裏切りが引き起こされる半日前へと遡る。

 イスメルの洞穴を後にしたレンとサレマナウは、駿馬の如き竜の背に跨り、荒野を駆けていた。もうもうと立ち込める砂塵を雲のように背後に延ばしながら、一行はカロニアへの道を辿る。荒野を駆け抜け、サレマナウの森に到達した彼等は泉のほとりで休息をとる。

 木々の間をすり抜けてきた風に吹かれながら、レンは目を細めた。これより死の息吹が吹き荒れる戦場に身を投じるのだとは思えないほど、彼女には些細な変化さえも認められない。

 手の震えはなく、表情は精悍。視界は曇りなく、良好。

 一人の戦士として彼女に不足しているものなど、経験以外にない。ただ一点の曇りさえも、これより挑む戦場にて、たちどころに拭われてしまうだろう。

「ありがとう、付いてきてくれて」

 傍らの竜に話しかける。

『気にすることはない。我等は母から命じられたことに従っているだけだ』

「うん、そうだとしても、とっても心強い」

 ふっと咲かせられた笑顔に戸惑い、聞こえなかったふりを決め込むつもりなのか、竜は泉に首を突っ込む。そのまま少女の方を見ようとはしなかった。

 レンは立ち上がり、泉から離れたところで遠見の術を行使するサレマナウへと駆け寄る。

「どう、サレマナウさん?」

「カロニアの周囲一帯に、軍隊と思しき者はいない。そなたならば、これをどう見る?」

「追手がいない?」

 レンは眉を顰め、不信感を露わにする。

 追手がいないことを幸運だと楽観視することはできない。むしろ、彼女が想定していたことは、カロニアの兵士を総動員するような大規模な索敵だった。

 彼女はファメリドの手引きにより、人知れずカロニアから姿を消したわけではない。ソメリアと接触し、彼に魔術をかけるという荒業、換言すれば分かりやすい叛逆によって逃走した。ファメリドが言葉の端々に滲ませていたソメリアの性格、名将からの下落を思えば、血気に逸って迂闊な手に甘んじるものとばかり思っていたのだ。数の暴力を迂闊な手と呼べるかは知らないが、少なくとも、少女はそれを前提としていた。だからこその、魔剣エピグラムに与えた異能なのだ。

 軍を動かせなかったのか。いいや、違う。

「ファメリドが、軍を動かすことを阻止したのね」

 彼には時間が必要だった。自分レンに代わり、マルタを『肉袋』へと仕立てるための時間が。

「自分では統率することのできない軍を動かされては、マルタを処理する前に私が捕えられてしまうかもしれない。けれど、みすみす逃しておくなんてことをソメリアが許すはずもないから、考えられるのはファメリドの息のかかった人間が私を追っているってところかな」

 そういう人間に心当たりはあるかと訊ねられ、サレマナウは首を傾いだ。

「さて。厭世気味の儂が知らないだけかもしれんが、奴が弟子をとったという話も聞かない」

「弟子ならいるわ。ウミという女の子」

「手練れなのかね?」

「…………分からないけど、私ならともかく、サレマナウさんの敵じゃないわ」

「ならば違うだろう。奴が真に信を置くのは、儂に匹敵する人物のみだからな」

 歪んだ愛情だと、サレマナウは嫌気が射したのか吐き捨てた。

「ともかく」と少女は言う。

「軍勢がいないなら、敵は少数精鋭ね。ファメリドの立場からすれば、私がソメリアの軍に捕らえられること、カロニア以外の都市に捕らえられること、そして、私がカロニアに戻って来ることは何としても避けたいはず。野放しにはしておかないでしょうね」

 レンは首筋の刻印を指先でなぞる。首輪だと、飼い犬の証だとファメリドは言った。

(私の居場所は筒抜け。それなのに襲ってこないとなれば、彼にはまだ時間が必要ということ)

 そして顔を上げ、森の向こう、老師の工房の先、カロニアへと続く荒野を脳裏に描く。

「森を出て、カロニアに進路を取った途端に襲って来るわね」

 奇襲か、正面からか。

 それは分からないが、魔術によって姿を消せる世界ならば、前者である可能性が高い。

「……サレマナウさん。あなたなら、見えない敵にも気付ける?」

「無論」

「認識できる距離は?」

「すでに、カロニアの内部まで把握しておる」

「ホント、規格外ね、サレマナウさんは」

 だが、これしきのことでは驚くこともない。

 彼は『裁定者』の称号を恣にする、アガレシアを統べる魔術師なのだから。

「それなら進路はひとつ、最短距離を行きましょう」

 少女の指先は、真っ直ぐにカロニアへの道を指し示す。

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