魔剣の守護者

 サレマナウの工房から西方へと二百キロは進んだ先、人間を寄せ付けない秘境へと二人は姿を現す。その光景を見て、何と寂しい土地だろうと、レンは思う。

 かつて大河が流れていた土地には、平坦な大地から窪んだ形で大峡谷が広がっている。黄土色の岩肌には、組成岩石が所々で異なるために赤褐色の斑紋が見て取れ、それはあたかも大地に刻まれた痣のように見える。季節は冬だが、照り付ける陽射しによって地表は暖かい。けれど、水が存在しない大地に根を下ろす草木はない。獣の姿もない。枯れ果てた草木の残骸らしきものが、辛うじて見いだせるだけといった有り様だ。

 サレマナウの先導に従い、レンは大峡谷の底に降りる。陽射しが遮られたことでようやく季節らしい気温になったが、依然として無味乾燥な荒野が広がっている。生命の存在が一縷にも感じられない光景は、まるで何物かが土地を食い散らかしたよう。

「さて、ここが入口だ」

 示された先には洞穴が大口を開けている。一瞥すれば、それが自然に依るものではないことが分かる。水流によって造られたものが、ここまで乱杭歯のような構造になるはずもない。

「それじゃ、行ってきます」

 脈絡もなく、躊躇いは抱かず、たった一人で洞穴に踏み入ろうとしたレンを吃驚の眼差しで捕え、サレマナウは慌てて追い縋る。腕を掴まれ、訳が分からないといった風情でレンは首を傾いだが、その感情はサレマナウこそが抱くべきものだ。咎める気力も消え失せ、それでも眉目を押さえることで胸の内を揶揄しながら彼は言う。

「そなたの無謀な振る舞いは嫌いではないが、それを勇猛果敢と履き違えてはならない」

「そうはいっても、これは試練でしょう? それなら私一人で挑まないと意味がないでしょ」

「武器の一つも携えぬままでか?」

 ようやく彼女はばつが悪そうに顔をしかめた。

「魔法の発現そのものは抑えられるようになったが、御することは未だに能わず、ギャサの盟約についても、そなたは結んでおらん。そんなものは武器とは呼べぬ。そうさな、それは切り札として、最後に縋るべきものとして秘匿しておくべきだろう」

 少なくとも、今はその時ではないと彼は勧告する。

「守護者がいることは伝えただろう。図らずも、そなたは至宝を掠め取ろうとする盗人だ。彼等とて、ただ指を咥えて見ているだけということはあり得まい」

 懐からアゾット剣を取り出し、彼はレンに手渡す。

「抜かずに済むならばそれに越したことはないが、まず、無理であろう」

「ありがとう。持っていくね」

 いざとなればすぐにでも抜き払えるよう、腰のベルトにアゾット剣を吊り下げる。

「今度こそ、行ってくるね」

 レンは洞穴に身を投じた。入口から進んですぐに急勾配の坂となったが、幸いにも足場には事欠かない。半ば飛び降りるように坂を下りながら、ふと進んできた方向に首をもたげる。外の明かりは遠ざかり、サレマナウの姿も既に見えなかった。視線を戻し、レンはさらに進む。下るほどに周囲は暗闇に呑み込まれていくのに、不思議と、彼女の双眸は周囲の光景を仔細に認めていた。馬車の中と同じだ。マルタは特別なこととは見做していなかったようだが、精霊種の夜目の効きは、随分と有用に働く。

 精霊種は元より森に棲まう一族だった。この目のことを思えば、彼等は日が暮れようとも燈火を焚くこととは無縁だったに違いない。夜の闇を切り開こうと、人間は躍起になって叡智を募らせ、ガス灯や電球を発明してきたというのに、彼等はなんと恵まれていたことか。

(隣の芝生は青いってことなのかな)

 かつては人間として生き、知恵を絞る他になかった人間の不自由さを知っているだけに、レンはこの身を素晴らしいと思う。同時に、隷属と搾取のみに供されることがどれだけ愚かしいことなのか殊更に意識して、彼女は決意を新たにする。

 サレマナウに語った言葉に、偽りはなかったと証明してみせる。

 洞穴の底に辿り着く。周囲を見渡せば、どこまでも続き、どこまでも静謐な空間が広がっていた。零下ではないかと疑うほどに空気は冷え切り、吐息は端々から凍り付く。外套の前を閉めようとして、それではアゾット剣が隠れてしまうことに気付き、寒さを噛み締めることを是とする。皮被りに留まらず、真性に至るまで戦士として磨かれていく己を意識するにつれ、彼女は眩暈にも似た揺らめきを覚える。

 かつて、夢想したことだ。色めき立つ異世界に於いて、ファンタズムの煌めきを一身に浴びながら、勇猛果敢な冒険譚へと挑んでいく姿を。同時に打ち捨てもした。香蓮じぶんが生きる世界は、退屈の坩堝に過ぎないと気付いてしまったから。故に人々は理想の世界を築き上げ、理想の体現としてカタチを与えられたものをこよなく愛した。決して理想に干渉することは許されず、それはあくまで偽物、境界線の彼方に到達することなど適わないと知りながら追い求めた。

 香蓮も数多あるうちの一人でしかなかったはずだ。このような世界に招かれ、数多のユメの容として生きるような存在ではなかったはずだ。だが、事実として彼女は体現している。そんな自分のことを恐ろしく思うことはあれど、頼もしく感じることはない。このままでは身を焦がす衝動に食い荒らされ、取り返しのつかないことに踏み出してしまいそうで――

(そう、私は怖いんだ)

 進むことは、抗うことは、意志を貫くことは、痛みを背負うことは恐ろしい。

 それでも、何かに突き動かされることで彼女の魂と肉体は歩み続けている。

 それは怒りか。怨嗟か。責務か。はたまた、無垢なる憧憬か。仔細を解き明かすことはできないけれど、レンとして生きる他にない以上、仕方のないことなのかもしれない。

 レン――香蓮――は雑念を振り払うように頭を振ると前を睨み、足を踏み出す。どうせなら華々しい役を演じてみるのも悪くはないと思えた。例えそれが、どれだけ残酷だとしても。

 奥へ進むにつれて洞穴は荒れ果てていく。直立したままで進むことができたのは初めのうちだけで、途中からは這い蹲るようにして背丈以上の岩を越えていく羽目になった。反響する足音から窺うに、サレマナウは付いてきていないようだった。もっとも、気配遮断に留まらず、魔力さえも遮断されたなら、彼を認識する手段など彼女は持たないのだが。

 一人きりの行軍を寂しいと思うことはない。私は最初から一人だったなどと斜に構えるつもりはない。ただ、不安を感じる要素がどこにもなかっただけだ。

 どこまでも続いていく一本道。道に迷う心配がないことはありがたくとも、代わり映えのしない景色が延々と続く様子に空間把握が麻痺していく。自分はどれだけ進んだのか、どれだけ大地の底へと下ってきたのだろうか。或いは登っていたりするのだろうか、見失う。

 生物の気配はない。聞いていた守護者の気配すらも。乱杭歯の岩窟と、一帯を満たす冷気が生じさせる張り詰めた静謐だけが感じられるものであり、自身の鼓動さえも、この中ではちっぽけだ。魔法を通してアガレシアの脈動に繋がったつもりでいても、結局は星の神秘を前にしては些少な存在でしかないことを諭されているようで、レンはどこか安堵した。

 そう、小さいのだ。魔法を発現したところで、崇高な意志を宿したところで、その心を苛烈なまでに燃やしたところで彼女は変わらない。等身大の人間のままだ。全知全能の神とは、全知全能に近付いた賢者とは程遠い。だからこそ彼女は進むことができる。

 愚かな人間だから、自分の限界を越えた先にある宝物にさえ、手が届くと夢を視られる。

 諦めることを先送りにできる。まだやれることはあると、自分を騙していられる。

 荒唐無稽な嘘を、愛していられる。

 ふと、些細な変化を感じ取り、彼女は貌を上げる。見渡す限りの光景の中には何も認められないが、この道を進んでいった先に何かが潜んでいる。アゾット剣の位置を指先で確かめ、表情を引き締めると滑るように走り出した。その先に待ち受けるものこそが魔剣の守護者、自分に牙を剥くものだと確信しながら。

 果たして、駆け抜けた先に彼等はいた。その様相は駿馬のように凛々しく、野を這いずる獣とは格別された神々しさを宿す。彼等こそがかつて神であった獣達、根源に座する神の象徴として創造された生命。白皙を極めるあまり透き通るように見える鱗に覆われた――竜だった。

 唾を呑み下し、近場の岩陰に身を潜める。頭だけを覗かせて竜の様子を探り、改めて、彼女はその美しさに見惚れる。その竜は、俗世からは乖離した美しさを秘めていた。

 大きさはそれほどでもなく、騎兵が跨る馬と同等でしかない。だが、その躰から放たれる存在感を前にしては、人間など、己が生物であると語ることさえもおこがましい。明らかな上位互換種、存在を許された領域が次元を隔している。立ち向かうことなど適わないと本能が警鐘を鳴らす。彼等と比べれば、レンなど地べたを這いずる蟲と変わりないだろう。

 驚愕に戦慄きながら、レンは数多の竜を通り越し、洞穴のさらなる奥を凝視していた。疑うまでもない、彼等をさらに凌駕する存在が、敢えて表すならば『神そのもの』がそこにいる。

 これが守護者。魔剣を胎に収めることを許された生き物。立ち向かうことはあまりにも愚かしく、尻尾を巻いて逃げ帰ったところで誰が彼女を責められただろう。無謀な道へと身を投じることは、勇敢であることとは別物だ。それを充分に弁えた上でレンは前を向く。

 進まなくてはならないと、強迫観念に似た衝動に突き動かされる。

 ここに来て、彼女を試すように洞穴は三叉路になっていた。奥へと続く道は二通り。充分な道幅と高さを備え、十数頭の竜が犇めきあう道と、彼女のような小柄な人間でなければ通ることのできない小さな通路。後者を選択すれば竜に追われることも泣く、労せずして最奥へと辿り着けることだろう。宝物を掠め取る盗人ならば、選ぶべき道は一つ、けれど。

 瞑目して考え込んでいたのも束の間、レンは堂々と岩陰から身を曝すと、竜が犇めく道へとつま先を向けた。迷いは見えず、アゾット剣に指をかけることもなく、無防備なままで。

 レンに気付いた一頭の竜が猛然と駆け出す。その膂力の感嘆たるや、竜が轟かせた咆哮が鼓膜を揺らすよりも先に、レンと竜の間隙は零に帰していた。巨大な口が開かれる。レンの全身を呑み込むように迫り来る。強靭なあぎとに砕かれる未来が、瞬時のうちに彼女の中枢神経を支配した。息が詰まるほどに濃密な死の予感。危機を回避しようと、全身が反射的に奮い立つ。

 だが、レンは身動ぎひとつしない。動けなかったのではなく、恐怖を殺し、竜の瞳を真っ直ぐに睥睨しながらその場に踏みとどまる。全存在を誇示するように胸を張り、彼女は対峙する。その矮躯が無残なまでに噛み砕かれる未来は――果たして訪れなかった。

 全身を呑み込もうとする寸前で、竜は一切の動きを止めた。剥き出しの口腔から漂ってくる腐臭が、彼等が神ではなく獣であることを意識させる。竜の目はレンを視ていなかった。彼女の背後に広がる虚空へと注がれていた。竜の喉が鳴り、吐き出された息がレンの髪を背後へと流す。竜が見ているものを確かめることはせず、彼女は静かに切り出す。

「あなた達の親に会わせてください」

 竜は躊躇うように首を引き、改めてレンの姿を眺める。その肢体の小ささを認め、少女の腰に提げられたアゾット剣を認めて理解できないと訴えるように首を傾いだ。

『精霊種の子よ。なぜ、この洞穴に訪れた』

 それは音声として発されたものではなく、知覚領域へと直接的に叩き込まれた言葉だった。

「あなた達が守護する至宝を、手に入れるために」

『ならばなぜ、あちらの道を行かなかった。無防備にも我等の前に姿を現したのだ』

『腰に提げた剣、なぜ抜き放つことをしなかった』

 同調するように別の声が割って入る。

『なぜ私に詰め寄られたとき、その背を向けて逃げようとしなかった』

『そうだ、精霊種の子よ。お前は彼が向かって来ることを仔細に認めていた』

『避けられたはずだ』『逃げられたはずだ』『抗えたはずだ』

『なぜ、愚行に甘んじることを是とした?』

 全ての竜がレンを見つめた上で言葉を重ねる。それは、彼女を品定めするように。

「ただの盗人に成り下がるつもりはなかった。それだけでは不充分ですか?」

 衒いもなく放たれた言葉が理解し難いのか竜は互いの貌を見合わせ、呆れ果てたように白々とした眼差しを浮かべた。

『もしも私が留まらず、お前の矮躯を噛み砕いていたならばどうするつもりだったのだ』

「本当にそうなりそうだったなら、その時はちゃんと逃げるつもりでした」

 試してみますかと嘯き、下肢に重心を預けるとレンは竜を見据えた。十数頭の竜に攻め立てられて逃げ遂せることが不可能であることなど分かり切っているはずなのに、彼女は蒙昧にもそれが可能だと信じている。いや、果たしてみせると息巻いている。単に呆れ果てただけなのか、それとも多少なりはレンの言い分を聞いてみる気になったのか竜は道を開けた。

『度胸に免じて、我等が母への拝謁を許してやろう』

『と、いうよりも、お前を通さなければ我等の方が母に縊り殺されるだろうからな』

 そこでまた、竜はレンの背後に目をやる。

『あなた様もお越しください。久方の来訪、母もさぞ喜ぶことでしょう』

「らしいけど、そろそろ姿を現してもいいんじゃない?」

 ようやくレンは背後を振り返った。沈黙を僅かに挟み、何もかもが存在していなかったはずの空間が旋転し、無が有へと切り替わり、一人の老人が姿を現した。

「いつから気付いておった?」

「初めのうちは気付いてなかったけど、私が襲われそうになったときに。あんなに殺気を剥き出しにして、気付かない方がおかしいよ。でも、ありがとう、助けようとしてくれて」

「手は貸さないつもりだったのだがな」

「ホント、ごめんなさい。お節介を焼かないといけないくらいお転婆で」

「自覚しているなら自重してくれ」

 斯くして、当初の思惑とは乖離した結果としてレンは洞穴の最奥に辿り着く。そこに座していたのは、決して美しいとはいえない竜だった。かつては白皙だったのだろう鱗は濁り、子の竜達とは比べるべくもない巨体は所々が苔生していた。開かれた瞳も黄緑色に濁り、どこまで仔細に世界を認められているか分からない。そう、彼女は死にかけていた。彼女の肉体は崩壊の只中にあり、されど、肉体に秘められた魂はその限りではない。死を間近に控えたために荒ぶることはないが、却ってその沈着が、彼女を神に等しい存在へと至らせていた。

 崇高であり、崇拝を寄せるに足るだけの器を備えていた。

『あぁ、坊やか。懐かしいねぇ、ふふ、随分と老けたね』

 女竜は僅かに首をもたげ、しみじみとした口調でサレマナウに語りかける。

「存命で何よりだ、イスメル」

『醜く生きさらばえているだけさね。もう躰は半分以上が死んでいる。ほら、見えるだろう。苔に覆われた躰が。鱗の下はもっと酷いものだよ。肢もね、もう星と癒着してしまって、昔みたいに空を翔けるどころか、立ち上がることもできない』

 いっそのこと死んだ方が救いがあるとでも言いたげな様子に、レンは既視感を覚えた。

『そっちの子は、おや、精霊種か。坊やに娘ができたんじゃないかとちょっとばかり期待しちまったけど、どうやら違うみたいだね。さしずめ、坊やの弟子ってところかな』

「レン・スフラールです。サレマナウさんの弟子とは、少し違いますが」

『まあ、構わないよ、その辺りのことは。あたしら神獣に比べて、坊や達の世界は複雑だからね。拗れているというか、こんがらがっているというか。けど、どういう理由であれ、因果であれ、そこに打算や謀を孕んでいようとも、同じ道を歩めているのなら大した問題じゃない』

 女竜は目を眇め、喘ぐように息を吐き出す。

『さて、今日はどんな用件かな。世間話をしにきただけというなら、子供達があんなに騒ぐはずもないしね。またぞろ厄介事でも持ち込んできたのかな』

「お願いがあり、参りました」

 傅き、レンは言葉を紡ぐ。

「イスメル様が管理する魔剣を、どうか私に譲り渡して頂きたいのです」

『…………どうやら、事情があるみたいだね』

 女竜は気色を張り詰めさせ、レンの言葉に耳を傾ける。些少な精霊種が語り、巻き込まれ、宿した決意と、その果てに為そうとしていることを見定めるために。



『レンと言ったね。あぁ、いい名前だ。お父さんとお母さんが、何も与えられないけれど、幸福は約束できないけれど、せめて名前だけは祝福してあげようと思って付けてくれたのだろうね。異界の人間であるお嬢ちゃんからすれば、あまり関係のないことかもしれないけれど』

「いいえ。レンのことは、私にとっても大事なことですから」

『それにしても災難だったね。せめて人間としてアガレシアに招かれていたなら、多少なりは救いがあっただろうに。神の奴も底意地が悪いというか、いや、あれは性悪そのものか。坊やも坊やだよ? そういう事情があるなら、初めから坊やが先導したうえでお嬢ちゃんを連れて来るべきだったんだ。そうすればお嬢ちゃんに危機が及ぶこともなかっただろうに。あぁ、いいさ、分かってるよ。試したくなっちまったんだろう? 坊やの悪い癖だよ』

「……返す言葉もないとは、このことか」

『そんな風に他人を試すことしかしなかったから、そんなことでしか信頼を懐けなかったから大事な人にまで逃げられたんじゃないか。全く、成長しないね、図体ばかりでかくなってさ』

 女竜の辛辣な批判に、サレマナウは居心地が悪そうに表情を暗くした。一方で、不出来な子供に対するように女竜は目を眇め、母親が抱くような飾り気のない愛情を垣間見せる。

『さておき、坊やの頼みだからというわけでもないけれど、お嬢ちゃんにあたしの宝を渡すことはやぶさかではない。お嬢ちゃんの言葉を信じるなら、お友達を助けるためだけでなく、その先に、あたしらの子供達、竜人種が救われる未来までもが望めるんだからね』

 そう断ったうえで、安堵を見せたレンに向けて、厳しい眼差しを女竜は浮かべる。

『だが、譲り渡す前にお嬢ちゃんと話がしたい。悪いが坊やは席を外しておくれ』

 サレマナウが立ち去ったことを確かめ、女竜はレンに語りかける。

『さて、お嬢ちゃん。もう少し近くにおいで。そう、そのまま、あたしの躰を覗いてごらん』

 言われた通りにレンは近寄り、膝を屈めさせ、女竜の躰に触れる。そのまま躰の下を覗き込み、星と癒着していると表した言葉の意味を理解した。女竜の四肢と洞穴の岩盤が、継ぎ目もなくなめらかにひとつとなっていた。どこまでが本来の躰であり、どこからが星であるのか、それさえも判別することはできない。いっそのこと、それは星という巨大な母体から、竜が産み落とされているようでもあった。

『星に還るんだよ』

 レンは揺れる目付きで女竜を見上げ、困った風に貌をしかめた。それは張り裂けそうな笑顔、涙が零れ落ちる一歩手前で、必死に踏みとどまろうとする笑顔。

『あぁ、やっぱり、お嬢ちゃんは優しいんだね。出会ったばかりのあたしの死を悲しんでくれるなんて。けどね、お嬢ちゃん、勘違いしたらいけないよ。死というものはね、決して恐ろしいばかりのものではないんだ。生命に科せられた呪詛ではないんだよ』

 そのように言葉をかけられ、レンの脳裏に真っ先に浮かんだ、真っ黒な感情があった。

 死こそが救いだと蒙昧してしまった。生きていることこそが苦難だと誤認してしまった。あの地獄の釜の中での出来事。死にたいと願い、死にきれず、せめて心を壊死させることで、空っぽの形骸になることで『生』という懊悩から解き放たれようとした。あの地獄に於いて、死は天上の神より降される祝福と同義であった。同義となり得てしまった。

 青褪めたレンの貌を見つめながら、女竜は言葉を継ぐこともなく、少女の様子を静かに見つめていた。少女の胸中に渦巻く感情が見当違いのものであることを知りながら、それでも自分から干渉して導くことはせず、少女が自分で答えに辿り着くことができるように。

 レンも分かっていた。女竜の真意が違うものであることは理解していた。

 故に、深呼吸をひとつ、思い出す。アガレシアに迷い込んでから我が身に降りかかった地獄の中で見いだしたものとは異なり、真っ白で、白無垢で、白々しいまでの生命観を。

「私達は……自由です。この世に生まれた瞬間から、どんな運命の頚木を負わされていようとも、私達は自由です。理不尽に押し潰されそうになっても、絶望的な脅威に嬲られても、私達は、自分という生命いのちを自由に謳歌することが許されています」

『あぁ、そうだね』

「でも、生命は決して独りよがりな存在じゃなくて、私達は繋がっています。物質的にも、精神的にも。私が死んだら、私の体は朽ち果てて、その上に草木が育つかもしれません。草木を起点として生命の輪廻は広がっていきます。ちっぽけな私では想像もできないほどに大きな流れが世界には渦巻いていて、生も死も、流れの中の小さな関所でしかない」

『けれど、関所がなければ世界は循環しない。あたしらが生まれるのと同じくらいにね、死ぬことにも意味というものはあるんだよ。だから、死は痛ましいだけのものではないんだ』

 宥めるように語り、女竜は続ける。レンに諫言する。

『それでも、死は勇んで引き起こしてよいものじゃない。忌避することが、当然だ』

 レンの瞳を見つめる。彼女の奥底で揺らめく焔、揺るぎない意志。不殺ころさずを貫いてマルタを救ってみせると息巻いた。血を流すことは望まないと告げた。けれど、そんなことは到底叶わない夢物語でしかない。先延ばしにしたところで、必死にもがいてみせたところで、殺意を向けてくる相手に挑む以上、殺意を露わにしなければならない瞬間は訪れる。必ず。それだけは逃れようがない。殺したくないという願望はなるほど清廉だろう。崇高なことであろう。

 だが、その感情がレンを危機に追いやり、彼女を追い詰める。

 太古の神獣イスメルは諫言する。レンに『殺すな』と。『自分を殺すな』と。

『覚悟を固めな、お嬢ちゃん。他人を殺さない覚悟じゃない。自分を殺さない覚悟だ』

 その手を血に染めなければ自分が殺されるというなら、迷わず相手の首を掻き切れ。

『あたしの宝を譲り受けるとは、そういうことだよ。殺したくないなんて甘ったれた考えを持ったままなら渡すことはできない。あたしの宝は『殺戮のための至宝』なんだからね』

 レンは何も言えない。返すことのできる言葉を持たない。イスメルの言葉が正しいと、完膚なきまでに正鵠を射ていると理解しているために。サレマナウが敢えて目を逸らし、追求することのなかった部分を女竜は貫く。何よりも、レンの身を案じているために。

『それでもまだ。誰も傷付けたくないと綺麗事を並べ立てるつもりかい』

 重ねられた言葉に、張り裂けそうな微笑で以って、レンは応える。

「私は、甘っちょろかったんですね。…………目を、逸らしていたんだ」

 そう、忘れていた。思い出さないようにしていた。既に一度、彼女はヒトを殺そうとしている。ファメリドに刃を向けた。心身に猛り狂う呪詛に突き動かされるまま、彼女は殺意を迸らせた。復讐心よりもさらに苛烈な、野の獣が抱くのと大差ない殺意へと魂をなげうった。

 それが恐ろしかったから。他人を殺めそうになったことではなく、他人を殺めようとした自分が堪らなく恐ろしかったから。理性を保ったまま、殺めずにいたいと思うようになった。

 されど、それは背中合わせの選択肢。決して交わることのない境界線上の命題。

 他人を殺めないことを選ぶか、自分を殺めないことを選ぶか。他人を殺めず、自分を生かすような安穏な選択肢が存在しないことへの自覚を避けた。現実を直視せず、逃げたのだ。

「そうあれたらいいと思ったのは、間違いだったのかな」

『間違いではないさ。進んで殺戮に明け暮れるよりは、随分と真っ当な決意だったろうさ。それでもお嬢ちゃんの場合は適当じゃなかったってだけだよ』

 慰めをかけられていることが、レンをなおのこと惨めにさせる。綺麗事にばかり縋り付き、夢を視続け、疑わず、目を晦ませていた姿が浮き彫りにされる。首を傾げさせ、天蓋を仰ぎ、狂おしいほどの熱にうなされる喉を震わせ、それでも彼女は訴える。

「それでも、殺したくないと願うのはいけないのですか。私が地獄の中で死にたいと願い、それでも生きたいと願ったように、誰しもが生に執着する理由があります。それを奪うことは、ヒトを殺すことは、私にはできない。そんな悍ましい存在に、私はなりたくない」

 途切れ途切れに、変えられようのない思いを吐露する。

「私が求めて、それなのに断るなんて勝手だと分かっています。それでも、殺すことでしか道がないというなら、イスメル様の宝は受け取れません」

『英雄譚には、殺戮が付き物なんだよ。一人を殺せば卑しい殺人者だとしても、百人を殺せば修羅に堕ちた殺人鬼だとしても、百万人を殺せば英雄だ』

「英雄なんかじゃありません。私は英雄になんてなりません」

 首を激しく振り回し、レンは女竜の言葉を拒絶する。

「ちっぽけな人間として、無力な少女として、私は泥臭く足掻くだけです。決して、英雄になりたいわけじゃない。そんなものを望んではいません」

『お友達を助けるためだろう? 悪いのは人間じゃないか。亜人を虐げ、凌辱し、命さえも路傍の石のように蹴り捨てる。それが人間だ。いいかい、あいつらは悪だ。あいつらこそがアガレシアの膿だ。掻き出さなければいけない腫瘍なんだよ。だから、お嬢ちゃんは正しいんだ。世界が保証する。お嬢ちゃんこそが救世の英雄、秩序と安寧をもたらす聖女だと』

 レンは今にも頽れてしまいそうだった。過酷な選択を強いられ、殺人以外に道はないと突き付けられ、その貌はあまりにも苦悩で満たされ、絶望に支配されていた。

「それなら私が死ねばいい! そうすれば世界は変わらなくても、残酷で在り続けたとしてもマルタは救われる! マルタだけでも、たった一人だとしても、救える」

『…………これが最後の勧告だよ。本当に、殺す気はないのかい?』

 それ自体が明確な質量を有しているような言葉に、レンは震撼する。殺せると、殺してみせると宣言しろと、臓腑の奥から声が響く。それは赦される行為だと囁きが聞こえる。傾倒しても構わないことだと唆され、けれど、それでも彼女は拒絶する。どれだけ愚かなことだと嘲笑われようとも、彼女の意志は決して傅くことがない。

「それだけはできません」

 僅かな言葉に込められた重厚な意志。レンの決意は揺らがない。眦に涙を浮かべながら否定する姿がどれだけ滑稽であろうとも、彼女の不文律は如何なる誘惑にもなびかない。

 イスメルの目が眇められた。レンの瞳には、それは失望としか映らなかった。背を向けて立ち去ろうとする。女竜の望む道を歩むことができない以上、魔剣を求める資格はないと判断したために。だからこそ、苦い感情だけを抱えた自分に向け、

『合格だよ、お嬢ちゃん』

 女竜が引き留めの言葉を発したことに戸惑う。

『お嬢ちゃんになら、あたしの至宝を託せられる』

「…………でも、私はイスメル様の望む通りには生きられません」

 脈絡もなく返された手のひらに困惑する少女を愛おしそうに見つめ、イスメルは真意を告げる。彼女の選択こそが英断だったと、言祝ぐように。

『繰り返すけどね、あたしの至宝は殺すためのものなんだ。それを手にすれば、およそこの世界に殺せない者、破壊できない物はないと断言できるほどに英雄への花道を切り拓くものだ。だからこそ託す相手は吟味しなければならない。殺戮に抵抗のない人間が手にするほど恐ろしいことはない。そういう輩は無限の屍を積み上げた果てに、呑まれてしまう』

 サレマナウがイスメルの至宝を『魔剣』と称した理由。魔剣とは、元来、絶大な力と引き換えに使い手の魂を喰らい尽くすものに送られる呼称だった。刹那的な覇道の代償として人間らしさを剥奪し、人間であるならば越えてはならない一線へと容易く踏み入ることを、後押ししてしまうものに与えられるものだった。

『あたしの親も至宝を人間に託したことがあった。でも、彼女は託すべき相手を間違えてしまった。至宝を与えられた人間は殺して、殺して、殺し尽くした挙句に殺人こそが悦楽となってしまった。人身にあらざる力を手にしたことで、狂気へと堕ちてしまったんだよ。当初の目的など、使命など忘れて殺すことだけが唯一の価値となり、敵だけでなく護りたかった人さえも手にかけて、最後は自分の心臓を貫き、歴史に刻まれる異端者として世界から消えた』

 それは痛ましい記憶、黒々とした、決して修正することのできない過ちだった。託すべき相手を見誤ったばかりに、流されるはずのなかった血が流されてしまったのだから。

『だからこそ決めていた。あたしの至宝は、殺すために使おうとする者には決して渡さないと。殺戮を忌避し、それでもその力が必要な者にしか渡さないと。お嬢ちゃんになら託せられる。お嬢ちゃんの道を守護するものとして、どうか、あたしの至宝を受け取っておくれ』

 唇を噛み締め、レンは顔を上げる。女竜を真っ直ぐに見つめ、応える。

「イスメル様の思い、決して裏切らないことを誓います」

 斯くして魔剣はレンに託される。イスメルの顎の下に生えた一枚の鱗、逆鱗をアゾット剣で切除すると、白濁の鱗は瞬くうちに崩壊し、後には白皙の劔が残された。日本刀を想起させる片刃の劔には、刀身に沿ってアガレシアの文字が刻まれていた。

『エピグラム、その劒の呼び名だ』

「碑文、ですか」

『お嬢ちゃんの世界ではそういう意味になるのかな。それなら理解は早いだろう。その劒には、お嬢ちゃんの望む特異性を、どのようなものであれひとつだけ与えることができる。一薙ぎで星を切断する劔でも、空間を超越して心臓を刺し貫く劔でもいい。天地開闢に等しい可能性を、お嬢ちゃんの望むままに与えることができる』

 さて、お嬢ちゃんはどんな特異性を与えるのかな、と女竜は試すように続ける。

 レンは瞑目し、僅かに諮詢を挟み、劒に指を這わせた。

「あなたは、××××劔であれ」

 刀身の文字が燐光とともに明滅し、その瞬間、魔剣は作り変えられた。

 決して命を奪うことはなく、されど、無慈悲なまでに死を誘う劔へと、歪められる。

「終わったかね」

 サレマナウの声に振り返る。魔剣エピグラムを胸の前で抱き締め、レンは頷く。

「行こう、マルタを助けに」

 機は熟した。友を助けるために、世界を変革するためにレン・スフラールは向かう。

 サレマナウと共に立ち去った少女の背中を見送りながら、女竜は瞑目した。

『守ってあげな、坊や。そのお嬢ちゃんは何をしでかすか分からない』

 それにしてもと、女竜は臓腑の奥から忍び寄る悍ましさに身を震わせた。

『侮っていたようだね。頑なに殺したくないと喚くものだからどれだけ理想に憑りつかれているのかと思っていたけど、お嬢ちゃんは恐ろしいまでに残酷じゃないか』

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