ギャサの盟約

「そも魔術とはアガレシアに生きる人間であれば誰もが使うことができる。亜人も含め、人類種の核には魔術回路が組み込まれておるからな。魔術の善し悪し、それが真に迫った魔術となるか否か、岐路を分かつものは純粋な知識と魔術回路の質のみ。鍛錬などというものは才覚がないにもかかわらず高みを目指すからこそ苦難になるのであって、才覚があれば労苦など伴わない。息をするように、生きることと同義となって魔術は現れる。そう――」

 誰かを思い出すように、誰かの姿が脳裏を過ぎったかのようにサレマナウは言葉を切った。そこで渦巻くものは過ぎし日々への後悔なのかもしれない。気を取り直して彼は続ける。

「魔術回路の質であれば、曲がりなりにも愚息が手掛けたのだ。すべきことは――」

 レンは寝食を忘れて鍛錬に耽る。置き去りにしたマルタを想えば、すぐにでもカロニアへ引き返した方がいいと心は叫ぶ。一方で彼女の思考は怜悧な判断を下していた。

(今の私がカロニアに向かったところで何もできない。それは無謀なこと、自殺行為と何ら変わらない。本気で彼女を救いたいならば、優先すべきは感情じゃない)

 レンの魔術回路は、かつて精霊種が宿していた精霊回廊と比して遜色のない代物に拡張されている。故に発現する魔術は魔術の領域に収まらず、どれも魔法の縁に手をかけていた。過ぎた力は身を焼く。自身の内から生じた焔により、肌を喰い破られたように。彼女が初めに叩き込まれたことは、自分の意志で魔術の発現と収束を操ることだった。習得までの過程は苛烈を極める。元より魔術の概念が薄い彼女にとってサレマナウの指南を理解することは容易いものではなかった。だが、基礎から学んでいるような時間が与えられていないことも事実、結果として彼女は荒療治による習得を望んだ。

 ただでさえ自動的に外界魔力を賦活させる特異性を持ったサレマナウが、意図的に増幅させた結界に飛び込む。生じるものは森の中の出来事の再現だ。獰猛なばかりに荒れ狂うマナの奔流はレンの精霊回廊へと流れ込み、全身に持て余すほどの熱を迸らせる。

 抑え付けることができなければ、マナが変じた焔により喰い破られる。記憶も定かでなくなるほどに喰い破られることを繰り返し、その都度にサレマナウから治癒を受け、充分に傷が癒えないうちに再度飛び込む。狂気に彩られているとしか言い表せないレンの行動に、サレマナウは底なしの疑問を懐く。

(なぜ、彼女はそこまでできるのであろう)

 レン・スフラールの相貌の彼方に紅代香蓮の面影を視ながら首を捻る。

 元来より人間は自分のことだけで手一杯な生き物だ。そしてまた、尊大なまでの夢見がちな心が自分の限界を見誤らせ、己の力量を過信させる。自分に世界を変えられるだけの力が秘められていると思ってしまう。それは傲慢なことだとサレマナウは見做す。

(その手に触れた人間を救おうとするだけで、人間は限界なのだ。彼女は儂の手に偶然にも触れた。故に、儂は彼女を助けた。炎の中から掬い上げた)

 サレマナウがレンを助けたように、彼女はマルタを助けようとしている。その手に触れた人間を救おうとしている観点からすれば同一のように思えても、その内実は大きく異なる。サレマナウの場合は、現実として己が有する能力や素質を噛み砕いた末に、自分に一抹の危険も及ばないと判断したうえで救済に踏み切っている。だが、レンの場合は違う。

 マルタを救うために立ち向かわなければいけないものはカロニアという都市そのもの、ひいてはアガレシアを統治する人類社会そのものだ。無限とも思える軍勢の前に立たねばならず、剣と弓、魔術の嵐を踏破しなければならない。困難の度合いを斟酌する余地などない。それは明らかに不可能なこと。博打にすらならないことは火を見るよりも明らかで、立ち向かわない方が利口だ。常識的に考えて立ち向かってはならない。そこに突き進んでいこうとする人物を狂っていると評さずして、誰を狂人と言えたものか。

 だが、狂気に塗れてなお彼女は実直で、その姿は見る者の胸を好かせる。図らずも、サレマナウはすでにレンの生き様に魅せられていた。

 彼女の努力が結実する瞬間は遠からず訪れた。マナが吹き荒れる結界に足を踏み入れ、師の言葉を脳裏で反芻させると顔を上げ、あらん限りの声で叫んだ。

「私に従え!」

 傲岸不遜なまでの言葉。星の恩恵にあやかろうとする魔術師が、母星であるアガレシアを見下す行為。それこそが魔術への最初の門扉。無秩序に矮躯を蹂躙するだけだったマナの嵐は勢いを殺し、慈愛に満ちるほどの穏やかさで以ってレンの内に流れ込んだ。体感温度が急激に上がったが、炎が肌を喰い破ることはない。レンは囁くように微笑むと、右手をかざしてサレマナウから教えられていた呪いの言葉を述べる。

「其は天を喰らうもの。叛逆の嚆矢、明滅の竜。赤き巨体よ、舞い上がれ」

 レンの指先から炎の渦が立ち上がる。それはあたかも竜の如き様相の怪物であり、サレマナウの結界を喰い破ると天に駆け上がる。この日、空は今にも雨を降らしそうな曇天だった。天に到達した竜は、厖大な熱量によって周囲一帯の雲を根こそぎ霧消させる。空を仰ぐレンの額に陽光が落ちる。空に大きく開いた穴は、彼女の成長を言祝ぐように絶景を覗かせていた。

「おめでとう。第一の門は開かれた。そなたは星に祝福されているようだ」

 サレマナウの賛辞に振り返り、レンは満足したように破顔した。

「さて、次に進む前に、少しばかり老人の昔話に付き合ってもらえないかね」



「語りたいこととは他でもない。儂が世の魔術師に託した望みについて――だ」

 顔を突き合わせる二人の間に、打算や緊張と呼べるものは皆無だ。落ち着いた様子で椅子に腰かけ、間に置かれた机上ではティーカップから湯気が立ち昇る。けれど、午後のひと時を謳歌するような光景には似合わず、そこで交わされる言葉は精彩を欠いている。

「儂の望みを紐解く鍵は、アガレシアの歴史に隠されている。現在――この世界に存在する人類種は初めから五種族だったわけではない。初めは人間が存在するのみで、後に精霊と神獣の加護を受けたものとして精霊種と獣人種、竜人種が現れて四種族となった。その程度の種族の派生は、アガレシアの厖大な歴史を鑑みれば、とうの太古に済んだことだった。だが、死人族だけは違う。彼等は本来ならばアガレシアに存在しない種族だった」

「……彼等は、神の創造物ですらないのね」

「あぁ、死人族は人間の創造物だ。裁定者として儂が築き上げてきた魔術が陽の側面であるとするならば、その対極、陰の側面を司る魔術、言うなれば黒魔術の創始者が創造した生命。それこそが死人族の本質だ。――……少し、昔話をするとしよう」

 それは、彼がまだ魔術の最高学府に在籍していた頃の話だ。一介の学徒であった頃から多くの功績を成し遂げていた彼は、ある種の羨望と崇拝を寄せられていた。当代随一の学徒のみに与えられる『君主ロード』の称号は彼にこそ相応しいと、誰もが信じて疑わなかった。その裏、サレマナウの華々しい功績の陰に潜むように、学内にはもう一人の傑物が存在した。

「名をイシュタル。儂に劣らず、いや、儂以上に優秀な魔術師だった。君主の称号は彼にこそ相応しいと儂は見做していたし、たとえ儂に話が回ってきたとしても、彼がいる以上は辞退することを決めていた。それほどまでに彼は魔術の英傑を体現した人物だったのだ」

 だが、結果からすればイシュタルが称号を授けられることはなかった。それどころか彼は学府を追放されることとなる。すなわち魔術世界からの追放という処分が下されたのだ。

「彼の処分を決定付けた理由へと関わったのが、他ならぬ儂だった」

 それを語るサレマナウの面持ちには、あらん限りの寂寞が宿る。

「ファメリドは不老不死の解析にこそ根源へ通じる門扉が隠されていると踏んだようだったが、若かりし頃の儂も同様の考えを懐いていた。ハハ、そこばかりは親子といったところか。――話を戻そう。生命の探求こそ、儂が学府で最も重きを置いていた命題だった。儂の念頭には死人族の存在があった。骸骨のみの体を持ち、およそ生命とは言えない存在でありながら確たる生命として存在する姿は、人間の生命観からすれば異質極まりないものでしかなかった」

 食事は要らず、休息は要らず、およそ生命現象の全てから隔絶された生ける屍。果たしてそれは生き続けている死者なのか、死に続けている生者なのか。繁殖方法も闇に閉ざされていた死人族のことを探るにつれ、サレマナウは不可解な事実に気付いた。それの大小、質の程度は別として、死人族の全てに魔術刻印が刻まれていた。彼等は魔術による産物なのではないかと疑うまでに時間はかからなかった。

 それでは、一体誰が斯様な怪物を生み出したのか。その答えは憧れの人物に収束する。死人族に刻まれていた魔術刻印を解析、僅かに残留していた魔術の波長を分析するにつれ、サレマナウはそれがイシュタルのものであることを悟った。

「他人の空似だと信じたかった。だが、憧れの人物と見間違える道理もない。儂はイシュタルに事の真偽を迫った。――……彼は包み隠すことなく、いっそのこと、己の魔術の成果を言祝ぐように語ったよ。己が死人族を生み出した過去の一切合切を」

 それは認められるはずもない外道の魔術だったと、サレマナウは回顧する。

「彼は死んだ人間の魂を躰へと植え付けることで死人族を生み出していた。いや、そもそも彼こそが死人族だった。彼は自身の魂を他人に移植し続けることで幾千年にも及ぶ時を生き続けてきたのだ。到底許されることではなかった。彼自身の存在ではない。なるほど、彼そのものは彼の魔術の成果物として看過することもできた。だが、彼は無辜の民の亡骸にさえ無礼にも魔術を適用し、死後の魂を束縛した。己が意のままに使役し続けてきたのだ」

 その数、およそ種族を築き上げるに至るほど。

「儂は事の顛末を査問会に報せ、結果として彼は追放処分を受けた」

 民衆の魂を愚弄し続け、死後の安寧を不当にも奪い続けてきたことを糾弾した彼と、イシュタルの追放を決定した査問会の思惑は食い違っていたものの、結果としてはそれが全てだ。

「そして、追放処分を受けたイシュタルは人類に反旗を翻したのね」

「或いはそれこそが彼の狙いだったのかもしれない。デムウラテスは帝国全土に戦争を仕掛けてきた。兵站は要らず、休息も挟まず、常に攻め立ててくるデムウラテスの猛威は計り知れないものだった。今もなお戦乱は加速を続け、この国は戦火の只中にある」

「あなたが世の魔術師に託した願望とは、正しくそれね?」

 かつての朋友が引き起こした戦乱を鎮めるために、世の魔術師に力を与えようとした。

「だけど、それならあなたも戦士にならなくちゃいけないんじゃない? 自分は手段を与えて眺めているだけなんて、そんなの道理が通らないわ。あなたは既に、関係者よ」

「……裁定者として己を縛り付けた、と話したことは憶えているかね?」

「えぇ」

「それは決して精神的なもの、覚悟や信条ではない。それは――神との契約だ」

「どういうこと?」

「ギャサの盟約、外界魔力を扱うための儀式だ。盟約提唱者が批准者にとって『利益』となる条件を達成したときに成立し、批准者の魂に提唱者が『遵守させたい』と望む条件を刻み込む。遵守などと言い表されるが、内実は禁忌に近い。批准者は必ずそうしなければならない。さもなくば、ギャサの呪いが批准者の魂を喰らい、地獄へと誘う。この場合の提唱者は神、批准者は我々、利益とは『外界魔力の運用』、遵守すべきことは、まぁ……神と対話できる人間など一握りだからな、実際には魔術師本人が宣言した事項に過ぎない」

「サレマナウさんは、何を宣言したの?」

「その個人にとって、最も守り難き宣言ほど、もたらされる恩恵は大きくなる」

「つまり?」

「魔術によって他人を傷付けること。儂は戦わないのではない、戦えないのだよ。もしも魔術の行使によって他人に切り傷ひとつでも負わせたならば、儂の心臓は止まるだろう」

 穿った見方をすれば、或いはそれは、是が非でもこの手でイシュタルを殺めたいという思いの証明だ。彼が裁定者の称号を賜った理由は、根源への扉を開いたことでも、神の元から外界魔力の利用に関する知識を持ち帰ったことでも、神から賜った特異性によるものでもない。外界魔力の概念が存在しない時点に於いて、有限である体内魔力の使用のみによって根源に辿り着いた傑物は、他人を傷付けないという、他人を殺さないという至極当然のことを宣言しただけのことで誰よりも莫大な外界魔力の行使を可能としたのだ。ただ、それだけだ。誰よりも多く外界魔力を使える、誰よりも多くの術式を扱える。至極単純な理由によって彼は裁定者に任命された。魔術で他人を傷付けないことが、彼にそれだけの恩恵をもたらした。

「サレマナウさん、あなた、イシュタルと刺し違えるつもりなの?」

 全命を賭さなければ渡り合うことなどできないと、イシュタルを評価しているのか。

 サレマナウからの返答はない。沈黙が答え。アガレシア随一の魔術師、その決意。

 レンは深々と吐息を溢し、背もたれに沈み込むようにして天蓋を仰ぐ。舌の先でゆったりと唇を湿らせ、何か、抗い難い感情に見切りをつけるように瞑目する。

「私――……この世界を憎んだ」

 静かに吐露する。

「私にとって、この世界は、度し難いほどに醜悪で酷いものだった。私が置かれた境遇も、辿って来た変遷も、負わされてきた苦難も、アガレシアを呪う理由には足るものだった。その点では、私はイシュタルと立場を同じにするのかもしれない」

 彼女の憎悪を誰も否定できない。否定する権利などない。

「でも――……アガレシアに生きる人に関しては、その限りじゃない。えぇ、そうよね。私が出会ってきた人なんてあまりにも少なく、誰も彼もが冷酷だった。けれどマルタは私のために涙を流してくれた。穢れた体を、拭いてくれた。サレマナウさんもマルタと同じ。私を炎の海から救い出して、私に居場所を与えてくれた。あなた達に報いるためなら、私はあなた達の愛するアガレシアに、あなた達の祖国であるアガレシアのために尽くすことを厭わない。この世界はデムウラテスの侵攻の前に、灰燼に帰してよいものではないと、そう思えるわ」

 それはどれほど高潔な言葉だったか。俗世から乖離した聖人の言葉であったか。己の憎しみを、己を愛してくれた人のために彼女は打ち捨てる。その眩さに、サレマナウはただただ崇拝に似た愛おしさを覚える。

「アガレシアを救うために、デムウラテスの魔手を振り払うために、私は人間に勧告する。かつて魔法を駆使した精霊種。ヒトの手の届かない高みへと飛翔する竜人種、ヒトの似姿でありながら、ヒトを遥かに凌駕した肉体を持つ獣人種。彼等と交わらなければ、人間は死人族の前に必滅の大敗を喫するわ。人間と亜人は――和解しなければいけないの」

 そして、確たる意志を込めて、瞳を燃ゆらせて彼女は宣言する。

「マルタを救い出す行為を、和解への先駆けとしてみせるわ」

「よいのか? その言葉を果たすならば、そなたは誰一人の人間とて傷付けずに、友を救い出すことになる。困難な道をさらなる困難へと貶めることになるぞ」

「最初からそのつもりよ。私ね、人殺しだけはやりたくないの」

 サレマナウは目を眇める。己の保守のみを考える人間には、彼女の生き様は理解できない。荒唐無稽なユメとしか映らない。だが、胸の奥を僅かに滾らせる、この高揚は嘘ではない。

「ギャサの盟約としてそれを結ぶことは早計だが、そなたの思い、しかと受け止めよう」

 イシュタルを斃すためだけに魔術探求を続け、虎視眈々と機会を窺ってきた生涯の果てにレンが現れたことに、サレマナウは【彼】の意志を感じずにはいられなかった。彼はさぞや哄笑していることだろう。

『見たことか。オレが用意した手駒は、なるべくしてそれに足る器だろう』と。

「それでは、レン・スフラールよ」

 手始めに彼は具申する。

「そなたの道を守護するものとして『魔剣』を手中に収めてみる気はあるかね」

 英雄譚の一節を彩るであろう苦境の試練さえも、彼女ならば易々と踏破するであろうと、確信めいた思いが彼の胸中には渦巻いていた。

 いざ、魔剣の守護者たる、かつて神であった獣が息づく古巣へと。

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