この男に殺せぬものなど神以外にいない

「よもや儀式の一環などとは言うまいな、ファメリド」

 怒鳴り散らすわけでも、がなり立てるわけでもなく、冷静に怒りを吐露する主君ほど恐ろしいものはない。

 ファメリドは唾を呑み下し、動揺を悟られぬように不敵な笑みで貌を塗り固めた。

「そのまさかです。ボードウィン卿」

「ほう? 貴重な精霊種をみすみす逃すことが儀式の一環だというのか?」

「事前に詳細をお伝えしなかったことはお詫びします。ですが、万全を期すために、あの精霊種に気付かれてはならなかったのです。――卿は、生命にベクトルが存在することをご存知でしょうか? 生命が感情によって左右されることです」

 何の話だ、と言わんばかりにソメリアは眉を顰めた。

(やはり。ボードウィン卿は魔術に精通しておられない)

 主導権を握ったことを確信し、唇を舌でそっと拭うとファメリドは切り出した。

「極端に言えば、誕生した瞬間から死の間際に向けて、生命力は緩やかに下降していきます。肉体的な衰えと表せば理解しやすいことでしょう。そして、その瞬間に於けるベクトルの変位に関与するものが感情になります」

「…………何が言いたい?」

「希望を与えられた人間の生命力は向上し、反対に絶望を味わった人間の生命力は濁るのです。私が行おうとしているものは希望と絶望の相転移――絶望に犯され、曇り、濁ってしまった魂に『自由』という蜜を与えることで魂を研ぎ澄まそうとしているのです」

 ソメリアに理解しようとする隙など与えてはならない。ファメリドは矢継ぎ早に言葉を発す。

「どうせ食すならば、みずみずしく熟した果実の方がよいでしょう。あの精霊種、すでに器は完成しました。あとは魂の輝きが最大限になるまで蜜を吸わせ、そこで再度絶望の底に叩き落す。そもそも、あれは出自からして不幸の塊、自由という蜜の香しさを一度でも知ったなら、間違いなく執着が生まれます。生の素晴らしさに気付き、幸福の味を知ったところで捕らえられ、首を落とされたとしましょう。断絶の間際、奴は生に焦がれます。生きることに、生きたかったと――この世を呪うほどに切望するのです」

「…………つまり、貴様はあの娘をわざと逃がし、生に執着させてから殺すと?」

「はい。これこそが儀式の全容なのです」

「では、あの娘の行く先から何から掴んでいるのか⁉」

「失礼ながら、卿は魔術によって眠らされましたが、殺されなかったでしょう。本気であの精霊種が逃げようとしたならば卿の命は今頃失われていたはずです」

「そうか。そうだ!」

「あの精霊種には首輪を仕込んでおります。居場所は手に取るように分かります」

「うむ、うむ。疑ってすまなかった、ファメリド。ならばすぐに追っ手をかけよう」

「お待ちください。あの精霊種の外見は厄介です。貴重であることは一目瞭然、生半可な者を差し向けたところで掠め盗られないとも限りません」

「ならばどうする。領主である俺や副官のお前が気軽に領土を空にすることもできんだろう」

「信頼のおける傭兵に心当たりがあります。奴にはいろいろと貸がある上、私に恩義を抱いている男です。都合よく動いてくれることでしょう」

「では、委細は任せる。うまくやってくれ」

「御意に――」

 ファメリドは深々と頭を下げ、主君の部屋から退室した。扉を閉める間際、ふと主君の様子を窺い、隠れるように嘆息を吐いた。

「老いとは厄介だな。知略が損なわれるどころか、単純な嘘さえも見破れぬとは……」

「魔術とは論理――感情の入り込む余地などないことは明らかですのに」

 ファメリドの独言に、廊下の影が答えた。

「また盗み聞きか? 躾のなっていない弟子だ」

「申し訳ございません。ですが、場合によっては今後のことを左右しかねませんでした。つい、気になってしまい……」

 空間が旋転してウミが姿を現す。恥じ入るようなウミの様子に思わず失笑を漏らす。

「気を引き締めろ。ここから先は時間との勝負だ、万に一つの失敗も許されない」

「はい、お供します。差し当たって何から始めましょうか」

「例の傭兵に話を付けに行く」

「失礼ですが、その方はいったい……」

「名をケルビム――帝国最強と謳われる男だ」



 ウミと連れ立ち、ファメリドは場末の大衆酒場を訪れた。軍人から商人、傭兵、果ては帝国の下級役人までが集い、エールと呼ばれる小麦酒を手に騒いでいる。わざと照明が暗く落とされた店内では、精強な男共に混じって獣人種の女が忙しそうに働いていた。奴隷だ。その内の一人を捕まえ、店主に取り次いでもらうよう頼む。

「ファメリドの旦那! ご無沙汰しております!」

 溌溂とした態度で現れたのは、身の丈が二メートルを越えようかという大男だった。礼服を粋に着こなし、浮かべる笑顔には屈託がまるでない。

「繁盛しているようで何よりだ。今日は――」

「ケルビムの兄貴ですね。いらしてますよ。特等席です」

 店主の先導に従って店の奥に進む。

「この店は変わっているな。奴隷が生き生きとしている」

「接客業ですからね。しけた顔をされては敵いません。よそでの扱いは知りませんがうちはこうです。充分な待遇を与え、店に貢献してもらう。そうすれば俺の懐も潤います」

「そうだろうな。絶望から得られるものなど――多くはない」

 私欲のために一人の少女を貶めようとする彼にとって、その言葉はひどく自虐的だった。

 ウミは何も言わない。レンに同情する気持ちがないわけではなくとも、それはレンが足掻いた末に打破するべき問題であると痛いほどに自覚していたから。

 奥の個室に案内される。重厚な色合いのカーテンを捲り、店主は首を突っ込んだ。

「ケルビムの兄貴。お客様ですよ」

「客だと⁉ 誰だ⁉ 俺は遊んでるんだぞ!」

 間髪入れずに返ってきた声はかなり大きく、不機嫌そうだった。

「俺だ、ケルビム」

「先生! 先生なら別だ! 入ってください!」

 声の調子を一転させて男はファメリドを招き入れた。続いてウミが入る。室内には男が一人と獣人種の女が二人。男がケルビムだろう。

 内密の話がしたいとファメリドが切り出すと、男は女に詫びを入れて退室させた。

「随分と羽振りがいいな。また戦果を挙げたのか?」

「と、その前にそっちの女の子を紹介してくれませんかね」

「女好きは相変わらずか。それも節操のないことだ」

 ファメリドは皮肉を言い、反してそれを意に介する様子も見せずウミに目配せした。

「エリ様の弟子のウミと申します」

「弟子? はあ、先生が俺以外にも弟子を取るとは……」

「俺以外ということはあなた様もエリ様に師事していたのですか?」

「おう。そういうわけだから俺はお嬢さんの兄弟子に当たるってことだ」

「そうですか。……私以外にも、エリ様には弟子が……」

 どこか落ち着かないような、期待を裏切られたような眼差しを彼女は浮かべた。落胆する様子を不思議に思ったのか、ケルビムは声を潜めてファメリドに訊ねる。

「先生、俺のこと彼女になんて伝えてるんですか?」

「帝国最強と謳われていると、それだけだ」

「あらー。それじゃ、軽く自己紹介といきましょうか」

 膝を軽く手で叩き、ケルビムはウミに向き直った。

「改めてケルビム・トロイヤードだ。職業は傭兵。金を積まれればどの戦場にも赴き、殺して殺して殺しまくる、殺人以外には脳のない荒くれ者だ。俺からすれば願ったり叶ったりだが、あいにくと帝国はデムウラテスとの戦争で忙しい。俺は好き放題暴れられるということさ」

「だが、その働き鬼神の如しと帝国騎士までもが一目置く男だ」

 ファメリドが評した通り、ケルビムの躰は戦士として極限まで鍛え上げられていた。筋骨隆々の大男と表すだけでは相応しくない。そのは猛禽類のように鋭く、躰の至る所に武勲である傷跡が走る。一挙手一投足に隙は見られず、浮かべた笑顔は好意とは程遠く、伽藍洞の冷たさを宿していた。人間の皮を被った野獣、それこそがケルビムという男だった。

「そいつは過大評価だと言いたいが腰抜けの騎士どもからすればそう見えるだろうな」

「帝国の騎士が腰抜けですか?」

「お嬢さんは前線がどういう状態か知っているか? どう戦っているのか知っているか?」

 首を振ったウミに向け、ケルビムはにやりと歯牙を覗かせた。

「先陣切って突っ込ませるんだよ、亜人をな。人間様は安全な後方から砲弾を飛ばし、魔術で骸骨連中をいたぶるだけだ。銃を構えている軍人の仕事は敵前逃亡しようとした亜人を射殺すること。帝国とデムウラテスの戦争? 違うね。戦争してるのは亜人だけだ。人間様は亜人の戦果を我が物顔で横取りして、戦争した気になってるだけだよ」

「ですが、それではあなた様は退屈なのでは?」

「ハハッ! 分かってるじゃねえか、お嬢さん!」

 ケルビムは愉快そうに笑い、手にしたグラスから酒が零れた。

「後方から敵を突くだけなんて俺には退屈だ。そんなんじゃ戦場の美酒は味わえない。だから俺は、突っ込むのさ。誰よりも早く! 誰よりも前に! 信じられるのは己の肉体と技量のみ。死神がいつ微笑むとも知れないが、吹き荒ぶ銃弾の嵐、うず高い剣の山、魔術の雷鳴、鬨の声に勝利の雄叫び! そいつに酔えねえんじゃ、戦場に行く意味がねえ!」

 あまりにも意気揚々とした語り口に、ウミはしばしの間、聞き入った。伝え聞く戦場の悲惨さ、陰惨な地獄の様相は微塵たりとも浮かんでこない。おとぎ話を聞かされているような、不屈の闘志で塗り固められた英雄譚を聞かされているような、こころを鼓舞する言葉ばかり。

 この男は戦争を楽しんでいる。自分が死ぬ可能性など欠片にも憂いていない。たとえそうなったところで、最高の贈り物だと笑い飛ばすほどに戦争を愛している。

「狂っていますね、あなた様は」

「ああ。死にたがりの狂戦士バーサーク、そいつが俺だ」

 ケルビムは獰猛に笑い、酒を煽った。その目に退廃的な影はない。破滅願望など宿っていない。自分が戦場を愛する限り、戦場も自分を愛してくれると信じ切っていた。

「それでは、あなた様がエリ様に師事したのは、さしずめ殺人の手腕を磨くためでしょうか」

「一度死にかけてな。剣技と肉体さえあれば殺せない敵はいないと高を括っていたが、魔術はあれだな、たちが悪い。歯が立たなかった。殺されかけたことより殺せなかったことが癪でよ、先生に教えを請うたわけだ」

「よくエリ様が許しましたね」

 殺人のためだけの魔術。根源に至ることなど微塵も望まず、考えず、刹那的な欲求のためだけに魔術を利用するなど、ウミの知るファメリドの魔術とはあまりにもかけ離れていた。

「最初は相手にされなかったがな」

 そこでケルビムはファメリドの顔を窺った。

「俺が死ねと命じれば貴様は死ぬか? そう聞けばこの男は死ぬと誓った。それだけだ」

 ファメリドは過去を懐かしむかのように目を眇め、淡々と語った。

「それから三年余り、俺は魔術を教わった。どうにも俺のご先祖様は魔術師の端くれだったようでな、魔術回路の質はそれなりに高かったから、三流程度には成長したぜ?」

 よく言うものだとファメリドは辟易する。こと殺人に関してケルビムの感性は群を抜いていた。そんな男が殺人のためだけに魔術を昇華させたならば三流程度で収まるはずがない。

 傑物は怪物へと姿を変えた。この男に殺せぬものなど神以外にいないと言わしめるほどに。

「ばかみたいな自慢話はこのくらいでいいでしょう。それで、先生、俺を訊ねてきたということは殺しの依頼ですか?」

「精霊種を一匹、生かしたままで捕えてきて欲しい。居場所は割れている、手はかかるまい」

「それなら一日と言わず半日で果たしてみせましょう」

「いいや。お前は意外にも手こずり、十日かけてようやく捕らえてくる」

 含みのある物言いに眉を顰め、転じて愉快そうにケルビムは微笑んだ。

「先生、何か企んでますね?」

「さて、何のことだ?」


 ケルビムと別れ、ファメリドは城に戻る。

 工房アングラには、意識を惑わされて眠らされている精霊種が一人。

「うまくいくでしょうか」

「貴様は臆病だな。案ずるな、あの男に限って万に一つの失敗もない」

 だが、もしもという考えが胸を過ぎる。

 もしもあの娘がケルビムさえも打破したならば。

 そのようなことはあり得ないと意識を切り替える。そう、あり得ないことだ。

 あの娘が、世界に叛逆する牙を手に入れるなど――

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