アガレシアの裁定者
呪いさえもさらなる呪いを打ち破るための力に変え
サレマナウ・エリを至高の魔術師たらしめた、彼だけに許された特異性が存在する。
人間が魔術を行使する際に消費される魔力は【
オドの絶対量を競い合う魔術世界に光明を差し込んだものが、サレマナウの編み出した《外界魔力による魔術行使》だ。星の生命力そのものを魔力として見做したマナの誕生は、それまで魔術師が磨いてきた血統の価値を一夜にして否定するものでしかなかった。
だが、誰もサレマナウを誹りはしなかった。アガレシアが存在する限り、ほぼ無尽蔵に存在するマナを利用することで、それまではオドの制約によって実現されることのなかった魔術の行使が可能となった。すなわち【根源への到達】が近付いたのだ。血統を否定されたことに噛み付くより、根源に近付けたことに喜びを見いだすものが魔術師という生き物であった。付け加えて、魔術回路の質に於いて、血統の価値は残されていたのだから。
サレマナウの偉業はそれだけに留まらなかった。マナを利用することなど、彼の編み出した術式では初歩の初歩、児戯にも劣る瑣末なものでしかなかった。
サレマナウ・エリは、ただそこに存在するだけでマナの閾値を押し上げる。
彼が歩いた道は原初へと近付き、太古の森は神秘と崇高をより強め、人間が開発したことでマナがほとんど存在しない都市でさえ、潤沢なマナの回廊が築き上げられる。
サレマナウという個人そのものがマナの動力炉に他ならない。人智を超えた奇跡の体現者。誰もが彼には追い付けないと諦め、ファメリドが嫉妬と渇望を寄せた英傑。
そのような人物とレンが巡り合ったのは、それこそアガレシアの意思によるものだった。
荒野から始まった旅路は、森の中に入った時点で何かしらの不調を訴えていた。
身体の各部が熱く疼く。堪えがたいほどではなくとも、どこか落ち着かない感覚。レンはそれを儀式の反動だろうと見做していたが、内実は異なる。
サレマナウ・エリは、ただそこに存在するだけでマナの閾値を押し上げる。ただ一度通りかかっただけで環境を捻じ曲げてしまう人物が、もしも定住地を構えたなら、その土地はどのように変化するのか。レンが踏み込んだ森は、それそのものがマナの嵐に他ならなかった。
そこはサレマナウの領域、彼によって賦活された土地だった。
疑似魔術回路が軋み上がる。植え付けられた刻印を通して彼女の体内に構築された魔術への門扉が、暴走を始めた。
肌、口唇、髪のひと房に至るまでの全身を通して、厖大なマナがレンの中に流れ込む。まさしく彼女はマナによる奔流の只中に於いて、溺れ死にそうになっていた。息もつかせぬほどに怒涛の勢いで流れ込んできては、魔術回路を強引に拡張しながら全身へと循環していく。そこに痛みは伴わず、ただ狂おしいほどの熱だけが宿っていた。
常人であれば叫び声を上げて逃げ惑うであろう状況に於いて、これは慈愛に満ちた蹂躙に過ぎないと、レンはマナの奔流に身を委ねた。彼女はマナと共存することを選び、奇しくもそれは、かつての精霊種の在り方そのものだった。魔法を扱えた唯一の種族、アガレシアに愛された【星の継承者】の体現に他ならなかった。
刹那、疑似魔術回路が変貌する。荒れ狂うマナの嵐によって拡張され、性能を向上させられた魔術回路は、今や【精霊回廊】と比して遜色ない代物に互換された。
魔法の発現である。
全身を廻っていた熱は一気呵成に膨れ上がり、炎となってレンの肌を喰い破った。
「ぎいやあああああああああああああああああああああ!!」
炎に全身を焼かれては、さしものレンも絶叫を上げる他になかった。その場で崩れ落ち、悶え苦しみ、大地を転がって這いずり回る。夜の森に生じた炎の雷、その源である精霊種は悶絶躄地の様相を呈す。縋り付いた大樹に炎が移り、それは通常の現象を上回る速度で大樹を消し炭に変えた。だが、その程度で終わりは訪れない。レンを発端とする炎は次々に森に広がっていき、周囲一帯を炎の海に変えた。
意識が飛びそうになり、激痛によって目覚める。精霊種の治癒力が祟り、死に切ることもできない。破壊と再生、崩壊と復元を幾度となく繰り返すうち、レンは誰かの眼差しに気付いた。誰何を訊ねる余裕などなかった。ただ、助けて欲しくて、爛れた四肢を引きずりながら眼差しの元に這いずっていく。
「助けて! お願い!」
必死の叫びは炎に掻き消されて言葉の体裁をなしていなかったが、直後、荒れ狂う森の中に静かな言葉が響き渡った。ただ、誰かを宥めるように。言葉の意味するものをレンが知ることはなかったが、炎は幻のように消え去った。焦土と化した森だけが残り、その中心に倒れる少女の中では、すでに精霊回廊は眠りに就いていた。
沈みそうになる意識の中、白濁した眼を動かしてレンは声の主を探す。
自分からそう遠くはないところに彼はいた。
助けてくれたことへの礼を口にしようとして、もう言葉を紡ぐだけの気力も残されておらず、レンの意識は肉体から剥離した。
「目覚めたか」
その言葉は「目覚めろ」と急き立てられているようで、レンは重たい瞼を持ち上げた。けれど何も見えない。微かに周囲が明るいことだけが分かった。
「ああ、それでは見えなかろう。しばし待ちなさい」
途方に暮れたように首を動かすレンに声の主は語りかけ、直後、レンの後頭部に手が添えられた。スルスルと何かが取り外されていく感覚に、レンは自分が包帯を巻かれていたことに気付く。顔を覆っていた包帯が取り外されると、初めに自分の赤髪が見え、その向こうに霞むように人の貌があった。男の貌には知性的な皺が深々と刻まれており、真っ黒な双眸が柔和そうに細められ、レンを見つめていた。
「立てるか? いや、座ったままでいい。しばらくはゆっくりと休むのがよいだろう」
フランク・シナトラを彷彿とさせる、色香のある声。
「私は……?」
「憶えておるかな。そなたは炎の海で溺れていたのだ。他ならぬ我が身より生まれた炎の中でな……」
炎に躰を喰い破られた恐怖がまざまざと蘇り、レンは肩を抱えると身震いした。
「精霊が妙に騒いでおってな。何事かと思えば、そなたを見つけたのだ」
「あなたは……?」
「サレマナウと言う。世間ではアガレシアの裁定者などと呼ばれているが、少しばかり魔術に精通しているだけの老いぼれだよ」
「助けてくれて、ありがとうございます」
「愚息の後始末をしただけだ。礼には及ばない」
サレマナウは安楽椅子に背中を預け、ゆったりと虚空を見つめるとレンを指差した。
「可能な限りは再生させたが、その刻印だけは消すことができなかった」
彼に示されたことで、レンは自分の体に目を落とす。炎に喰い破られたことが幻だったのではないかと疑うほど、体に傷跡は見られなかった。だが、全身に巻かれた包帯の隙間からは、ファメリドに刻まれた魔術刻印が覗いていた。
「いいや、消すことそのものは可能だが、今やそれはそなたの精霊回廊と密接に絡みついておる。残すにせよ消すにせよ、そなたの意思を確かめなければできなかった」
「……さっきの、息子って?」
「ファメリド・エリ。魔術の波長を辿ればすぐに分かる。そなたに刻印を刻み、魂を蹂躙するなどという外道に甘んじた魔術師は儂の息子だ。親子の関係が途絶えたのは随分と昔のことだが、儂が最も期待して、儂から離反してしまった奴のことは今でも憶えておる」
そこで、サレマナウは頭を下げた。その両目は苦渋を噛み締めるばかりに瞑られ、ぶるぶると震えていた。
「愚息がそなたに行った非道に対し、愚息に代わって謝罪する。どうか赦して欲しい」
レンは面食らった。彼女の抱いた魔術師像とは、目的のためには如何なる手段も犠牲も問わない冷酷なものでしかなかった。善意と人間らしさに溢れた魔術師が存在することが信じられず、また、このような人物からファメリドが生まれたのかと思うと不思議でならない。
「許すとか……それはまだ決められないけど、少なくとも謝るのはあなたじゃないと思います。助けてくれた人にそんなことを言うのも悪いけど……」
「いいや、それでよい。そなたの心はそなたのものだ。他人の言葉で曲げる必要などない」
サレマナウは顔を上げ、それでも謝らせてくれと続けた。
レンは気恥ずかしさを覚え、部屋の中へと目を逸らした。
丸太を組み上げて造られたコテージ風の部屋。床には毛足の長い絨毯が敷かれ、部屋の隅にある暖炉には薪がくべられていた。暖炉には鉄の棒が水平に固定されており、薪の火がちょうど当たる位置に鍋がかけられていた。
サレマナウは椅子から立ち上がると暖炉まで行き、鍋の中身を椀に注ぐ。
「食べなさい。あたたかな食事は心を安らげてくれる」
差し出された椀を両手で受け取り、中身を覗き込む。鶏肉と香草を煮込み、塩で味付けしただけの質素な食事――されど、レンにとってはあまりにも贅沢なものだった。
スプーンを手に取り、掴み切れずに落としてしまう。
「貸しなさい。食べさせよう」
サレマナウはレンから椀を受け取り、スプーンで少量のスープを掬うとレンの口に運んだ。
衰弱した体ではうまく食べることができず、唇の端からスープが流れ落ちる。サレマナウはその様子を認め、上着を脱ぐとレンの胸に被せ、その袖で口の端を拭いた。
「あなたの服が汚れちゃう……」
「洗えば済むことだ。気にする必要はない」
ゆっくりとスプーンは運ばれていく。レンがどれだけ咀嚼に時間をかけようとも、サレマナウは急かすことなどしなかった。辛抱強く介抱を続けてくれた。
椀の中身が半分まで減ったところで、ふと、レンの視界が滲んだ。溢れ出した涙を抑えることなどできず、彼女は肩を繊細に震わせながらすすり泣く。
サレマナウはレンの肩を抱き寄せ、その背中をゆっくりと撫で下ろした。
「辛かっただろう。人間の身勝手な振る舞いがそなたを苦しめた。好きなだけ泣いてよいのだ。そなたが涙を流すことを誰も咎めない。ゆっくりと心を落ち着かせなさい。大丈夫、ここは安全だ。儂がそなたの安寧を保障する。そなたは苦しまなくてよいのだ」
自分は辛かったのだと、苦しかったのだと、レンは初めて自覚した。壊死したはずの心は息を吹き返し、泣いてもいいのだと促されると、彼女の心はますます瓦解した。
「ひぐっ、ひぅ…………うああ、ああああ……」
嗚咽が込み上げ、レンはサレマナウの胸に縋り付くと彼の胸元を濡らしていった。アガレシアに迷い込んでから負ってきた全ての苦痛を涙に溶かして、彼女は赤子のように泣いた。
レンが存分に泣き終えるまでサレマナウは胸を貸し続けた。
「疲れただろう。今夜はゆっくりと眠りなさい」
「ここ、あなたのベッドじゃないの?」
「老体のよいところはな、どこでも眠れるということだ」
悪夢払いのまじないをかけてやる。レンは涙で頬を濡らしたまま、静かな眠りに落ちた。
翌朝。レンが目を覚ますと、ベッドの横に朝食と服が用意されていた。
「いつまでもその恰好では寒いだろう。老いぼれの服しかないが我慢しておくれ」
着替えるために立ち上がるとふらついた。そんなレンのことを支えながら、サレマナウは着替えを手伝った。全身に巻かれた包帯を外すために一度は全裸にならなければいけなかったが、サレマナウの眼差しに俗物的な感情は見て取れず、レンは安心して身を任せた。
それでも否応なく入ってくる魔術刻印にはよい気がせず、思わず目を伏せる。
「消したいと願うかね?」
サレマナウの問いかけは途轍もなく魅力的だった。だが、レンは唇を固く結んで首を振る。
「これは――呪いだと思う。できるなら消したいよ。これを負ったときの記憶ごと」
呪いだと卑下しながら、レンは魔術刻印を背負い続ける覚悟を固めていた。サレマナウに頼れば、決して消えないはずの刻印は跡形もなく消えるであろうことは理解しているつもりだ。少なくともレンの本能は訴えかけている。彼に頼れば、意志を傅かせれば、泡沫ばかりの自由は確約されたものに変貌すると予感を募らせていた。
「でも、できない。私にはまだ――呪いに束縛されなければいけない理由がある」
苛烈な決意を宿した瞳。それは、少女のものにしてはあまりにも不似合いで、あまりにも不格好で、そんなものを抱いてしまうほどの遍歴を辿ったのかと胸を痛めるほどに哀れだった。
「まだ聞いていなかったな。そなたが歩んだ道のことを」
そして、僅か数日にしか及ばず、それでいて生涯の苦難を全て煮詰めたようなレンの過去が明かされた。全てを聞き終えたサレマナウは、あることを結論付ける。
「推察するに、そなたは異界の人間であろう?」
レンは包み隠さず驚いた。香蓮の記憶については一言も言及していなかったはずなのに、深遠な老師は僅かに聞きかじっただけのことで真の出自を言い当てたのだ。
「どうして分かったの? ファメリドだってそれには気付かなかったのに!」
「落ちぶれたところで息子のことだ。推測くらいはしていただろう。だが、異界の存在を招き寄せることは魔法を遥かに凌駕した偉業、奇跡に逼迫するほどの実現してはならない事象だ。儂を除けば、誰もが現実に起こることだとは思わないだろう」
「それなら、どうしてサレマナウさんはそう思えるの?」
「それを語る前に、まずはそなたがアガレシアに招かれた原因を明らかにするとしよう」
サレマナウは安楽椅子に腰かけ、両手を膝の上に乗せた。レンも慟哭を呑み下してベッドの縁に腰かけ、老師の言葉を待つ。
「そなたがアガレシアに招かれる直前に、そなたの世界で異変のようなものはなかっただろうか。それほど大仰な意味で捉えなくていい。天が分かたれるような災厄ではなく、それまでの日常には存在しなかった異物がもたらされた程度で構わない」
異物と聞いて、真っ先に思い浮かぶものがあった。
聖書の
あれだけが、紅代香蓮の日常には存在しなかった異物として挙げられる。
「でも、ちょっと納得できない」
「心当たりはあるのか?」
「あるけど……このくらいの大きさの、金属版でできた聖書のようなもの」
手で空間を四角く切り取りながらレンは説明する。
「おそらくそれで間違いないだろうが、気にかかることでもあるのかね」
「ネット通販で買ったのよね……」
それがどれほどばかげた話なのか、サレマナウにはあまり理解の及ばないことだった。だが、レンのあまりにも投げやりな表情に事の詳細は察したようだ。レンを労わるように微笑を浮かべ、それでも事実は事実として彼女に突き付ける。
「認めたくなくとも、それがアガレシアへの門扉だろう」
「うそぉ……」
レンはベッドに投身した。
「その書物はアガレシアの根源を記したものであり、換言すればアガレシアを産み落としたものだ。その名は【
「そんなのが、どうしてアマゾンなんかに……」
「正確には原典の複写物、劣化品だろうがな」
「劣化版で異世界を繋げられるとか……ふざけるにも程があるよ……」
「そなたの心中を察すると心苦しいばかりだが、十中八九、彼の仕業だろう」
「彼?」
精霊種の耳をピクリと震わせてレンは反応する。
サレマナウは豊かな顎髭に指を沈め、彼方を見つめるように眦を細めた。
「創世の記憶の保持者だ。退屈凌ぎなのか、この世界に何かしらの変革を願ったのか――彼の真意を図ることは儂にもできない。だが、彼の手によって複写物は作られ、そなたの世界に送り込まれたのだろう。そなたがそれを手にしたことは偶然の巡り合わせだと思うが……」
或いはそれも必然の範疇だったのか。
「それなら、私は彼に会えば元の世界に戻れるのかな」
「それはないだろう」
「どうして?」
「アガレシアに生きている限り、彼に謁見することはほぼ不可能だ」
「王様か何かなの?」
「王か。確かに彼はアガレシアの王であるとも見做せるが、そのような人間的な枠組みには収まらない存在だ。そうだな、彼は言うなれば【神】と呼ばれる存在だ」
そこで、レンはベッドから跳ね起きた。サレマナウの瞳をまじまじと見つめ、彼が冗談の類を口にしているわけではないと分かると困った風に笑った。
「私、神様に見初められちゃったの?」
神様を信じられないわけではない。剣と魔法が息づく世界に於いて、人類種の上位互換である神が存在することに異議を唱えるつもりはない。サレマナウが断言する以上、神は存在するのだろう。だが、それを総じて鑑みた上でレンは唾棄する。
(なんて――ばかばかしい話なんだろう)
神は一体どのようなことを求めていたのだろう。香蓮は自他共に認める平凡な高校生でしかなかったはずだ。神がアガレシアを変革するものとして英傑を求めたのだとすれば、アガレシアに比べて随分とつまらない地球でさえ、それなりに相応しい粒は揃っていたはずだ。
救国の聖女と謳われたジャンヌ・ダルク。
誉れ高きブリテンの騎士王アーサー・ペンドラゴン。
暗殺者教団の指導者ハサン・サッバーフ。
独逸の虐殺王アドルフ・ヒトラー。
世界の光として、世界の暗部として名を馳せた彼等を招致した方が、七十億の構成員に過ぎない香蓮を呼び寄せるよりもよかったことには違いない。
(それとも、彼等でもだめだったから私に駒が回されたの?)
そこまで自分を高く評価する理由も理屈も存在しない。それならば、サレマナウの語ったように、退屈凌ぎに過ぎなかったのだと見做す方が妥当だろう。
「ねえ、あなたはどうして神様のことをそんなに知っているの?」
そう――サレマナウ・エリは、神について知りすぎている。
「簡単なことだ。かつて、彼に拝謁を許されたことがある」
その言い草をファメリドが聞けば、嫉妬と絶望のあまり自害したに違いない。世の魔術師の観念からすれば、それこそが根源へ到達することだったのだ。
「だが、彼に拝謁する権利を得たが、儂に彼の庭を荒らすような勇気はなかった。儂は事の一切を秘匿することを誓い、そこまで辿り着いた褒美として、彼から外界魔力に関する知識とそれを賦活する
「よかったの? 私なんかに教えて……」
「そなたは言うなれば彼の被害者だ。そのくらいは知らされなければ不平等だろう」
「でも、そういうことなら……」
「ああ。儂は彼の元に辿り着くための方法を知っている。だからこそ無理だと断じられるのだ。技術や知恵といった問題ではない。極端な例を示せば、魔術を使わずとも、魔法を使わずとも彼の元に辿り着くことは可能だ。……可能だが、そのためには人間を辞めねばならない」
「人間を――辞める?」
「そうだ。人類種への、いいや、世界への叛逆者とならねばならんのだ」
その言葉が正しいとすれば、神に拝謁したと語った彼こそが――叛逆者に違いない。
詳細を問い詰めたい気持ちが喉元まで上った。だが、サレマナウが纏った雰囲気はそれを許していなかった。そこまでを語るつもりはないと示していた。
「ありがとう。話してくれて……」
張り裂けそうな微笑とともにサレマナウを見つめ、レンはベッドに倒れ込んだ。虚空へと視線を彷徨わせる。現状、彼女が元の世界に戻る方法は存在しない。彼女はレン・スフラールとしてアガレシアで生きていくしかない。確執と陰謀ばかりが渦巻く世界で、無力な少女として。
「この先、どうするのかね?」
その問いには、迷いなく答えることができる。
「やらなきゃいけないことがある」
ベッドから起き上がり、レンは恐怖と決意で全身を震わせた。
「友達が捕まっているの。このままだと私の代わりに殺される!」
精霊種であるのはマルタも同じだ。赤という価値のためにレンに白羽の矢が立てられただけで、ソメリアの求める不老不死を成就するための条件を満たしているのはマルタも同じなのだ。
なぜ、レンだけでなくマルタも奴隷商人から買われたのか。難しく考える必要はない。ファメリドがレンを気に入り、欲したときの予備にするためだ。
生き血を注ぐための肉袋、マルタの価値はその一点に収束される。
蟲に全身を舐られた恐怖、心を壊死させるしかなかった虚無、魔術刻印によって生命を否定され、魂を蹂躙される底なしの苦しみ、全てに抗うことのできない自分を責める心。
この世に顕現された地獄の窯にマルタが突き落とされることだけは、決して看過できない。
「私はマルタを助ける。この呪いはそのための力になるわ」
我が身の魔術刻印を示して彼女は断言する。呪いさえもさらなる呪いを打ち破るための力に変え、彼女はいばらの道に踏み込むことを厭わない。
「そなたは、儂に力を貸してくれとは言わないのだな」
「私の力になってくれるなら何にでも縋り付く。あなたが手伝ってくれるなら、いばらの道はとても歩きやすいものになると思うわ」
でも、とレンは言葉を切った。
「あなたの目はそれを望んでいない。いいえ、望んでいるけれど何かが邪魔をして、あなたに足止めをさせている」
胸の内を看破されたことに驚き、サレマナウは思わず息を呑んだ。
(……なるほど。彼が見初めただけのことはある。よい勘をしておるな)
レンへの評価を上げ、それを悟らせないままに彼は自身の境遇を明かす。
「儂はアガレシアの裁定者だ。裁定者は生じた後の事物に対してのみ干渉することが許される。戦が生じ、それが終結した暁に罪の如何がどうであったかを解き明かすことはできても、戦そのものへ干渉することは許されない。それは裁定者ではなく戦士の役割だ。そなたは美しく、気高き戦士だ。争いを封じられた裁定者は同じ道を歩めない」
「それがあなたの決意なの?」
「いいや。自分自身に課した戒めだよ。揺らがせようとしてできるものではないのだ」
裁定者として生きることを決めた。
争うことができぬよう、殺戮に関与することができぬように自分を縛り付けた。
「儂がそなたと共に戦うことはできない。これは絶対だ」
「あなたは戦士になれないのね?」
「そうだ」
「あなたは裁定者でしかいれないのね?」
「そうだ」
「分かったわ。あなたに戦ってくれとは望まない」
「そう……か?」
レンがやけにあっさり応じたことに、サレマナウは驚く。
森の中で、魔法を打ち消してみせた。神に拝謁したことを語って聞かせた。
もしも自分が彼女だったなら、そのような人物からあっさりと手を引くなどあり得ない。是が非でも陣営に加えたいと粘ったはずだ。いや、粘らなければならない。
「よいのか? 拒否する当人が言うのも何だが……」
「そうね。あなたほど美味しい人間を逃すなんて、ばかみたい。そもそも私はあなたを強請るカードを握っているしね」
そこで、レンは服の袖を捲り、魔術刻印をサレマナウに見せつけた。
「あなたの息子のせいで私は苦しんだ。あなたの息子が私を殺そうとして、私の友達を殺そうとしている。親として謝れ。親として息子の罪を償え。――そう言えば、きっとあなたは拒絶できない。高潔なあなただからこそ、優しいあなただからこそ拒否できない」
森の中で自分を救い、食事と休養を与え、自分を慰めてくれたサレマナウの姿が浮かぶ。
(この人は、本当に優しい人。とても、優しい人)
でも、だからこそ脅迫関係にはなりたくない。
「私はあなたに助けてもらった。だから、あなたが戦えないというなら、その意志は尊重する。それが、あなたに何も返せない私ができる、たったひとつの恩返しだから」
サレマナウは放胆する。ふつふつと沸き上がって来た感情に臓腑を揺さぶられ、
「…………すまない」
それだからこそレンに顔向けできない。
言われずとも分かっていた。レンを苦しめたのは、彼女を追い詰めようとしているのは自分の息子なのだ。親として諫めなければならないことなど重々承知していた。
(それなのに、儂は我が身のかわいさあまりに逃げておる……。そんな儂の意志を尊重してくれるというのか? 彼女は許してくれるというのか? ああ……)
とても小さな精霊種の体に秘められた、その魂の何と広大なことか。
「でも、あなたの本質は魔術師――そうでしょう?」
卑屈な感情へと沈んだサレマナウに、レンは静かに語りかけた。
「戦士としてのあなたには、裁定者としてのあなたには何も望まない。私は、魔術師としてのあなたに望むわ。私に、魔術を、魔法を教えて。私に戦うための術を教えて。困難に打ち勝つための方法を授けて。私を――一人でも友達を救える戦士に変えて――」
その言葉は天啓に等しかった。
戦う術を持たない自分が、彼女と共に戦うことのできる唯一の方法。
「ハハ……それは予想しなかったな」
彼女を弟子に。全ての魔術を、彼女に。
「そうだな。そうだ。知を探求する若者を導くのは、魔術師としての本分だ」
サレマナウは立ち上がる。彼は決意する。
彼女と共に歩むことを。彼女の道を切り開くことを。
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