英雄への渇望譚

 ファメリド・エリの裏切りを説明するためには、初めに彼の生業について語らねばなるまい。そう、魔術師と呼ばれる人種についてだ。かつては異端の徒として迫害され、疑惑をかけられただけで処刑された点に於いて、アガレシアも地球も似たような歴史を持つ。

 異なる点は三つ。アガレシアでの魔術が真に人智を超えた偉業であったこと。魔術を遥かに凌駕した魔法が存在したこと。そして、最も大きな分岐点。ドルマント公国の英傑、ムエルトが国王に就任した後に魔術師の保護に乗り出したことだった。

 公国の繁栄に尽くすことを条件にムエルトは魔術探求の一切を認め、また奨励した。人類史の発展に多大な貢献を果たしたと認めれば、地位と名誉、潤沢な報酬を与えた。それまで日陰者として隠匿されてきた人類の叡智が、一気呵成に地上へと芽吹いたのである。

 神聖アガレシア帝国が成立した後の世に於いて、大戦時に獲得した地位と家柄、財産を元手に魔術師はとある夢に向けて奔走を始めた。それすなわち【根源への到達】である。

 真理と根源――この二つの命題こそ、魔術師が生涯を賭して追求してきたものだ。

 真理とはこの世界を平定する規則ルールのことである。これは学問上の論説に近しく、ざっくばらんに言ってしまえば、この世界は■■の規則によって動いていると宣言すれば終わりだ。論理性と因果関係の有無さえ問われるものの、そこに確たる正解はない。

 一方の根源とは世界そのものの始まりを指す。生命、思考、摂理、概念、法則、感情、運命など、あらゆる物質的なこと、精神的なこと、霊的なことをひっくるめて、この世界がこれまでに辿って来た変遷の源には何が眠っているのか。何の力によって、或いは存在によってこの世界は生じることが許されたのか。今もなお存続を許されているのか。

 これこそが、魔術という媒体を通して、幾星霜の長きに渡り魔術師が探り続け、未だ盃の縁にすら指をかけることが許されていないとされる命題である。


 エリ家の話をするとしよう。ムエルトが最初に見初めた魔術の家系、現在に至るまで七百年続いた魔術の血統、それこそが、ファメリドが嫡子として生を受けたものであった。

 サレマナウとユリアスの子、ファメリド・エリ。彼にとっての生涯最大の誤算は、サレマナウの息子として生まれたことだった。

 魔術師としての素質、才能、血脈。ファメリドは全てに恵まれた。まだ自我の芽生えない頃、魔術を片鱗さえも教わっていない頃から、彼は魔術を身に宿していた。それは息をすることと同じように、彼にとって魔術を行使することは生きることと同義であった。

 僅か十八歳で魔術の最高学府を首席で卒業、根源への探求に身を投じた若すぎる天才、神に祝福された魔術の申し子。それでも彼は、父を超えることができなかった。

 サレマナウ・エリ。ファメリドの実父であり、魔術の師匠であり、アガレシアの裁定者として名を馳せる偉大な人物。真偽は別として、彼はすでに根源に到達したとも噂されていた。

 父への憧れと尊敬が嫉妬へと挿げ変わるのに時間はいらなかった。ファメリドの苛烈な敵愾心を誰もが笑った。サレマナウを超えられる魔術師など存在しないと、誰もが見做していた。誰もが、自分にサレマナウほどの器は備わっていないと諦めていた。

 だからこそファメリドは唾棄する。

「ふざけるな」

 彼は信じている。己の絶対の才能を、己が根源に到達できることを、父を超えられると。

 結果として彼は家を捨てた。父を超えるためには、父の足跡を辿っているだけでは足りなかった。

 ファメリド・エリは望む。魔術の申し子は切望する。

「根源へ! 未踏の地へ!」

 手練手管を尽くし、あらゆる書物を洗い、膨大な術式を編み出してなおそれは叶わない。その先に進むための種火を掴むことができない。そのような時であった。

 自分の弟子が、赤髪の精霊種を見つけてきたのは。



「根源へ通じる扉は魔法の下に開かれると考えられてきた。分かるか? 貴様のような精霊種が生来の術として使いこなし、あっさりと手放した魔法のことだ」

 工房の中で、レンを前にしてファメリドはゆっくりと言葉を紡ぐ。

「根源とは世界そのものの始まり、創世の出発点だ。そう考えるならば、ボードウィン卿の悲願である不老不死の成就は、根源の一端を握ることと同義だとも言える。……そう睨み付けるな。いずれは殺すことになるが、まだその時ではない。卿の利益のため、というよりは俺の探求の礎として、貴様には役に立ってもらわなければならない。むやみにその体を犯すような真似はしないと約束しよう」

「お言葉ですが、魂を解析するのですから、体を犯すよりも酷いことになるのでは?」

「貴様は黙っていろ。警戒心を煽ってどうするのだ、馬鹿者が」

 言葉の端々に棘を含ませ、ファメリドは机上から小さな壺を取り上げた。蓋のされていない壺には一本の筆が差し入れられ、中には琥珀色の液体が溜まっていた。彼はレンを一度だけ瞥見すると、何も恥じ入る様子など見せずに命令した。

「服を脱げ」

 空白が生じ、それまでファメリドとウミの言葉に対して如何なる反論もしてこなかったレンは、恥じらいよりも憤怒で貌を真っ赤にして叫んだ。

「変態! ロリコン! 触るな!」

 ファメリドの手を平手打ちで払い除け、工房の奥へと逃げ込む。剥き出しにされた犬歯からは、ガルルルルと、どこか野生の獣じみた雰囲気がちらついていた。

「ろり……精霊種の言葉か? どういう意味だ」

 ファメリドが首を傾げ、

「文脈から察するに幼女性愛を指すものだと思われます」

 ウミが淡々と答える。

 ファメリドは呆れ返り、深い息とともに眉間を押さえた。

「俺を何だと思っている? 貴様如きの貧相な体に欲情するほど、下劣ではないわ」

「裸に剥かせようとするだけで充分なロリコンよ!」

「剥くなどと語弊のある言葉を使うな! 術式を刻むだけだ!」

 ファメリドの意図は理解した。だが、レンの警戒が緩むことはない。このまま強要すれば舌を噛み切って死んでしまいそうな剣幕を前に、ウミは頭を振ると師から壺を受け取った。

「術式を刻むのは私がやります。師は工房の外に。女同士なら問題もないでしょう?」

 遺憾だと唇を尖らせた師を宥め、それからレンに批難の眼差しを向ける。

「あなたも立場をわきまえなさい。物に意思を尊重されるような権利などありません」

 一度は心を壊死させたはずの精霊種が、どういう訳か反抗の意志を取り戻した。ファメリドとウミにとって、これほど面倒なことはなかった。

 ファメリドは工房を出た。二人きりになり、レンは不承不承ながらも粗末な服を脱いだ。下着などと贅沢なものは与えられていないため、全裸になるのは一瞬だ。

 壺の中身に筆を浸し、台座に寝かせたレンの肌に筆を走らせ、慣れた手付きで術式を刻んでいく。壺の中身、墨に似た液体はレンの肌に触れた途端に骨肉へと浸透し、決して剥がすことのできない刻印へと変わっていく。

 手は休めずに、ウミはレンの様子を覗き見た。そして、信じられない光景を目の当たりにして疑問で頭を膨らませた。

(どうして、この娘は興味深そうな顔をしているのかしら。肉体に魔術刻印を刻まれるなんて、ある種の生命の否定に等しいのに……どうして、物珍しそうに高揚しているのかしら)

 ウミは考え込む様子を見せ、

「やはりあなたは分からないわ」

 ふと言葉を溢した。失言だったと後悔する間もなく、レンが反応する。

「こんなことされるのって、アニメのヒロインみたいだから……」

 また意味の分からない言葉が飛び出す。

「あにめとは?」

 今度はレンの方が失言したと顔をしかめた。

「絵が動いて、声や音楽が付いた物語のこと」

「初耳ね。精霊種はそんな先鋭的な娯楽に興じていたのかしら」

「私だけだと思うよ。これを知っているのは……」

「そう」

 沈黙が訪れる。

 時折、くすぐったいと訴えるようにレンが微かな嬌声を漏らすが、それだけだった。

「ねえ、あなたの名前は?」

 しばらくしてから、レンが訊ねてきた。無視してもよかったけれど、これくらいなら師も怒らないだろうとウミは判断した。

「ウミよ」

「助けてくれない?」

 ウミは顔を上げない。淡々と筆を走らせることだけに専念する。

「あなたの境遇には同情の余地がある。生殺与奪を握られているというのはかわいそうだと思うし、亜人の扱いについて人間が絶対的に正しいとは言い切れないとも思う」

「それなら……」

「無理なことよ。私は師の意志のみに従う。師の意向のみを崇拝する。エリ様は亜人を物として扱うことを選んでいる。正確には、魔術の探求に必要とあらば、あの人は同族さえもそのように扱う。私だってそのように扱われることもあるかもしれない。そこに私は異議を唱えない。そして、あなたはそのように扱われている。だから私はあなたを助けない」

 ウミは訥々と語る。そこに後腐れはない。なぜなら、師は自分に価値を与え、生きる目的を与えてくれた人間だから――信じることこそあれど疑う必要などない。

「それは、崇拝というより依存だね」

 静かな糾弾も、ウミにとってはどこか心地よい。

「そうかもしれないけど、私はそれで充分だと思っているわ」


 およそ三十分ほどでウミは筆を置いた。首から上を除き、レンの全身に刻印は刻まれた。

 服を着せ、ウミは師を呼ぶ。儀式の準備は整った。

 ファメリドが施そうとしている儀式は、要約すれば「生命力の底上げ」だ。彼女の魂を解析して改竄する。それは元来の精霊種、魔法を操ることのできた存在へと彼女を戻すことだった。

 初めに行われた儀式は、彼女の心を空白にするためのものだった。

 魂と心は連鎖している。心が生きている限り、魂は他者の介入に苛烈なまでに抗う。心を空っぽに、彼女の精神を壊死させ、魂を内包するだけの形骸へと貶めねばならない。

 どうやって? 簡単なことだ。心に対しては、単純な恐怖と虚無が最も効果的だ。

 ファメリドはレンを蟲蔵に放り入れた。初めの三日三晩は散々な泣き喚きようだったが、四日目からは声を上げなくなった。鮮烈な焔を宿していた瞳は濁り果て、胡乱な虚無ばかりに満たされるようになり、抱え上げてやらなくては自分の足で立つことも適わない。

 それでも蟲蔵での責め苦は執拗に続けられた。もはや抵抗の意思など微塵にも浮かべない少女の肢体を、蟲達は舐る。柔肌に鉤爪を突き立て、触覚で少女を弄り、時折思い立ったように肉を噛みちぎる。いたずらに体を犯すような真似はしないとの言葉は、呆気なく破却された。それさえも仕込みに過ぎなかったのだ。

 蟲蔵から戻って来たレンを介抱するのはマルタの役目だった。髪に絡まった蟲を一匹ずつ摘み取り、湿らせた布で肌を拭き、物を咀嚼することもできなくなったレンのために噛み砕いた食事を口移しで与えた。どうしてファメリドが自分を買い求めたのか、マルタは未だ知らされていなかったが、レンの介抱をさせるためだろうと勝手に納得していた。

 どれだけ心血を注いで介抱しようとも、翌日には元の木阿弥となる。

 マルタは涙を流した。一度は心を壊死させたはずのレンが、理由はまるで分からないけれど感情を芽吹かせた。幼少期のレンを思わせる変化に、マルタは戸惑いながらも喜んだというのに、彼女はまた心を閉ざしてしまった。彼女の魂は蹂躙され、自我の崩壊を食い止めるために壊死を選んだ。

 どうして悲しまずにいられただろうか。自分が涙を流したところでレンは何も救われないと理解していたけれど、彼女はすでに泣くことさえもできないのだ。

 蟲蔵での責め苦は七日目で終わりを迎え、儀式は魂の解析へと移行する。この頃には、壊れた魂と肉体が調律を遂げたため、レンは若干の生気を取り戻していた。重心を左右に揺さぶらせ、今にも崩れ落ちてしまいそうだったが自分の足で歩くことができ、小鳥が餌を啄むように唇を震わせて食事を摂りたいと意思を示していた。それでも依然として空っぽの形骸に過ぎなかったが、レンはさらに貶められていく。

 レンの魂を解析して判明したことは二つ。

 初めに彼女の魂は純正品ではない。幼少期から存在していたレン・スフラールの魂を基盤に据えながら、そこに異物を混じらせていた。レンの基盤から派生したものとしての異物ではない。全くの部外品。縁も結びもなかったものが如何なる不和も生じさせずに融合していた。

 主人格は異物へと譲渡されたため、この少女は正確にはレン・スフラールではない。

 誰何の疑問に答えるのは、次いで判明した不可解な記憶だった。

 魂の解析と記憶の精査は同時に行われる。記憶の海の中に散りばめられた彼女の過去は、全くの別人のものだった。紅代香蓮と呼ばれる、こことは別の世界に生きる少女の記憶だ。

「これは妄想だと思うか? 救いようのない境遇に身をやつした少女の描いた、慈愛と幸福に満たされた理想郷に過ぎないと思うか?」

「判別しかねますが、妄想の類にしてはあまりに緻密かと……」

 仮説がないわけではなかった。ただ、あり得ない、あり得てはならないという思いが仮説に歯止めをかける。境界線を超越して異世界の人間を呼び寄せるなど、魔法を超えた奇跡、それこそ根源に座する者にのみ行うことを許された偉業だった。

 父の姿が脳裏を過ぎる。彼が関与しているのだろうかと諮詢した後、ファメリドは否定した。

 サレマナウならば可能かもしれないが、そうやって呼び寄せた以上、レンが奴隷に窶されたままであることを放置するとは思えなかった。ただでさえレンに歯牙を突き立てているのは、自分を裏切った息子なのだから。

 父が違うのであれば、他にそのような偉業を成し遂げた人間がいるはずもない。

 怨嗟にも等しい感情を寄せ、離反を是とした相手ではあるが、心の奥底では絶対の崇拝を寄せている。敬服の念を忘れたことはない。そのような自分は滑稽だとファメリドは笑った。


 儀式は魂の改竄に進む。

 魂は突き詰めれば零と壱の集合体である。誰一人として相同することのない零と壱の配列が複雑に組み上げられ、意味のある構成となって個人を作り上げる。ファメリドはそこに干渉して、零を壱へと、壱を弐へと引き上げていく。

 それこそが魂の改竄であり、生命を賦活させることであった。

 自分が組み上げてきた魔術の集大成を、ファメリドは儀式台の少女に注ぐ。

 レンの全身に刻まれた魔術刻印が炯々と輝きを発する。魔法を喪失した精霊種の核に、疑似魔術回路が構築されていく。そこに、凄絶な副作用を伴いながら――

 生粋の精霊種に近付いていくレンだったが、魂の純度と肉体の精度は反比例の一途を辿った。そもそも個人が抱える生命力は一定だ。魂へと天秤を傾ければ、それを預かる器は脆弱になり、膨れ上がった魂をどうにか受け止めるためだけに奔走する。

 さらに、さらにと彼女は衰弱していく。もはや咀嚼されたものを嚥下することすらできなくなり、どれだけマルタが食べて欲しいと願ったところで、唇の隙間からボタボタと吐き出してしまう。マルタの悲しみは加速する。どうしてこの子がこのような苦役を負わなければいけないのか。この子はそのような罰を受けねばならないほどの咎をどこで背負ったというのか。代わってあげたいと願うのに、それは叶えられない。

 せめて衰弱した体を休ませてあげたかった。マルタは自分にあてがわれた毛布を床に敷き、その上にレンを寝かせて彼女の毛布をかけてやった。頭を撫で、肩を叩いているうちに、レンはゆっくりと眠りに就く。粗末な牢の中だけが、レンの休める場所だった。

 そしてまた改竄は行われ、レンの衰弱は加速していく。

 ある夜のことだった。久しく言葉を発していなかったレンの喉が震え、音が飛び出した。

「あ……うーいーえ」

「レン! レン! どうしたの⁉ 意識があるの⁉」

 レンの口元に耳を寄せ、一言も聞き逃さないようにマルタは意識を尖らせた。

「うう……ああい、ううあ……あ……」

 そして、次の瞬間――

「アぁあああああ!」

 突如として響き渡り、牢の隅々までを咆哮が舐り尽くす。それはレンの呪いの言葉だった。運命を呪い、境遇を呪い、この身に与えられた外道を是とした神への呪い。

 彼女の魔術回路が軋み上がり、怨嗟の情念は大気を揺すり、マルタの体をレンから引き剥がした。背後の壁まで吹き飛ばされ、背中を打ち付けることでようやく踏みとどまる。

《許さない》

 レンの魂がそのように叫んでいることを、マルタは理解できなかった。あくまでもレンの叫びは意味のない音として認識され、彼女が叛逆の牙を剥き出しにしたことは誰にも知られることがなく、明くる日の儀式へと時は進められた。

 儀式は最終局面を迎えていた。この日のレンは異様なほどに静かだった。それはファメリドに悪寒を抱かせるほどの沈着であり、レンの叛逆を苛烈なまでに彩った。



 ファメリドとウミは、その光景に恐怖する。

 儀式台に寝かされていたレンが上体を起こして立ち上がった、ただそれだけのことで。

 そこで命の烽火を迸らせるのは死にかけの精霊種。植え付けられた魔術刻印によって心身を蹂躙され、自我を喪失した形骸であったはずの存在。神経の不調律によって左半身はまともに動かすこともままならず、息を吸うことですら全霊を傾けなければならないような人形が、苛烈に、猛々しく立ち上がり、研ぎ澄ます。怒りを、殺意を、憎しみを剥き出しにする。

 己を傷付け、犯し尽くした世界に向けて――

(なぜだ……)

 ファメリドは訊う。

(なぜ、貴様は意志を失っていないのだ。なぜ、貴様の魂は崇高に輝くのだ)

 重ねて訊う。

(なぜ、貴様は俺を睨め付けている⁉)

 少女の睥睨にファメリドは恐怖し、僅かに後退った。それを認めたためかは分からない。レンは頽れるように台座から降り立ち、種々の魔道具が乱雑に置かれたテーブルに手を突っ込み、精査することもなくあるものを掴み取った。あたかもそれそのものが少女に選ばれることを望んでいたかのように、彼女が手にしたものは一振りの短剣ダークだった。

「うああああああああ!」

 レンは叫んだ。感情が暴れ狂い、涙腺は決壊した。彼女は駆け出す。短剣を力の限り握り締め、ファメリドに襲いかかった。

 魔術によって強化された礼装、ファメリドの衣服が短剣に貫かれることは決してない。それにもかかわらず、ただ腹部に圧迫感が生じただけのことで、彼は生命の危機を感じた。確かに自分は殺されたのだと認識して、未だに息をしていることが間違いではないかと疑ってやまない。よろめき、頽れた彼のことを、誰が無様だと嘲弄できたものか。

 ファメリドの危機にウミは動く。足を払い除けることでレンを転ばそうとして、襟首を掴まれて一緒に倒れる。床に全身を叩き付け、ウミは一瞬だけ衝撃に喘ぎ、次の挙動が遅れた。

 ウミは魔術師の端くれだ。魔術を行使することに関しては抜きん出た才能を有していようとも、己の肉体を行使することに関しては劣っている。ましてや、殺意の在り方、気迫に於いても相手はウミを凌駕していた。

 レンはウミの胴体に跨り、眩む視界の中でウミを睨め付けると、全体重を乗せて短剣を突き下ろした。そして、ウミに腕を掴まれた。僅かな間隙で短剣は沈められ、押し返されを繰り返す。

 ウミは短剣の切先を見つめながら、必死に抗う。死の恐怖に喘いでいるファメリドの助けを期待することはできず、そうかといって十八番である魔術を行使しようにも、詠唱に気を割いた刹那に短剣は押し込められ、眼窩を穿たれることだろう。結果として、力技に訴えた。

 レンがさらに体重をかけようと腰を浮かせた刹那、僅かに開いた隙間へと足を滑り込ませ、レンの腹部を思い切り蹴り付けた。そのまま、巴投げの要領でレンを投げ飛ばす。

 先程とは異なり、極限まで研ぎ澄まされたウミの意識がレンの隙を見逃すことはない。短剣を捥ぎ取り、レンの腹に跨り、彼女の首を掴んだ。頚椎の骨張った感触が手に染みる。僅かな隙を掻い潜り、ウミは身体強化の魔術を自らに施した。首を絞める膂力が跳ね上がる。

 骨が軋むほどの絞殺を目前にしてレンは悶絶する。無我夢中で暴れさせた四肢がウミの矮躯を叩くが、彼女は意に介さない。加減を知らず、ただただ絞め上げる。

 酸欠に喘ぐレンの挙動は次第に微細になり、口唇の隙間から泡が噴きこぼれる。暴れていた四肢もだらりと垂れ下がり、命の篝火が尽きる直前で声が割り込んだ。

「待て! 待て、殺すな!」

 ようやくウミは首から手を離した。それでも警戒は緩めずにレンを見下ろす。彼女に反抗を続けるような気概を見いだすことはできなかった。解放された気道を通して、酸素を貪るように呼吸を繰り返し、閉じられた瞼からは後悔とも知れぬ涙が滲んでいた。

「貴様、なぜ立ち上がれた?」

 ファメリドの問いかけにレンが答えることはない。叛逆は失敗に終わり、速やかに処理されるものと諦観しているのか、黙したままで目を逸らしている。

「…………生き永らえさせてやると言ったら、どうする?」

 だからこそ、ファメリドの申し出に驚愕する。


 ファメリド・エリの裏切りを説明するためには、彼が【魔術師】だといえば充分である。

 彼がレンに寄せる期待は今一つ足りていなかった。すでに調べ尽くした、これ以上の価値は見込めない……と見切りをつけ、早々に手を引こうとしていた。

 だが、此度の叛逆を受け、欠け落ちていたピースは有り余るほどに埋まった。魔術刻印に蹂躙されてなお猛々しく立ち上がり、殺意と憎悪を迸らせたという事実。これを捨て置くほどにファメリドの慧眼は衰えていない。

(…………渡してなるものか)

 彼は決意する。ソメリアに引き渡してよいほど、これは過小な器ではなかった。

「貴様の肉体、貴様の魂、貴様の人生を我が探求に捧ぐと誓うならば、救ってやろう」

 それは決して甘い道ではない。魔術に蹂躙されることがどれだけの苦しみであるのか、レンはすでに知っている。それこそ死んだ方がましだと思ってしまうほどの扱いを彼女は受けてきた。その身に負ってきた。

 それでもレンは迷わない。彼女は生きることを諦めない。その先に待ち受けるものが今まで以上の蹂躙、凌辱、地獄に過ぎないのだと承知したうえで、生きるために傅く。

「油断……しないで。私は何度でも抗うわ」

 不敵に笑いかけた少女を前にして、ファメリドはさらなる興味を寄せた。



 その晩、ソメリアの寝室に向かうレンの首には新たな刻印が追加されていた。

「これは貴様が狗である証だ。今宵、貴様は自由を得る。だが、真なる自由は決して訪れない。貴様の首に刻まれた術式が、貴様の居場所を俺に知らせる。逃げたくば逃げるがよい。どれだけ逃亡を続けようと、必ずや俺は貴様に辿り着く」

 ファメリドは主君を裏切ることを決意した。だが、表立って叛逆すれば現在の地位を失いかねない。それは愚行だ。故に彼は、レンが一人で逃亡したという虚偽を作り上げることにした。

 彼はソメリアに次のように申し出た。

「卿の供物である精霊種が、一夜を共にしたいと申しています」

 情が移ってくれないかと期待しているのではないかと付け加えてやれば、ソメリアは豪儀に笑った後に快諾した。精霊種を辱めるのも一興だと、平然とうそぶく主君を前にして、つくづく下賤な男に成り果てたものだとファメリドは辟易した。

 レンはウミによって飾り立てられた。柔らかな橙赤に染められた絹織のチュニックが矮躯を包む。アンダースカートとしてカスチュラを履き、華美な足輪が歩くたびに音色を奏でる。胸と腰に巻かれた紐が体を緩く締め付け、その幼体を一端の女へと変貌させる。

 装束の裏からうっすらと透けて見える魔術刻印が、レンをどこか背徳的な存在に押し上げていた。元来の美貌も合わさり、前に立ったレンを見て、ソメリアは素直に感嘆した。同時に、その哀憐な貌を涙で歪めさせてやりたいと下衆な感情が胸を焦がす。

 よくも悪くも、レンは娼婦を装う素質を十全に秘めていた。

 ソメリアに手招きされ、レンはベッドの端に腰を下ろす。緊張のためか、委縮しているためか、その肢体が強張っていることにますます情が寄せられる。肩を抱き寄せただけで繊細に震えた少女に対して、ソメリアは得も言われぬ恍惚を宿した。吐息が熱を込めて響く。それは官能的な暴力だった。

「そんなに怯えるな」

 優しく言い含めたはずの言葉も、少女の耳にはどのように聞こえたのか分からない。だが、その言葉を契機として、レンはソメリアの体に縋り付いた。肌を重ね、ソメリアの耳朶に唇を寄せ、言葉を紡ぐ。媚びる言葉でも、へつらう言葉でもなく、簡素な魔術言語スペルを。

「さざ波の夢を、夜のとばりは降りた」

 或いはソメリアにレンを疑う心があったなら効き目はなかっただろう。どれだけかつての栄華から遠ざかったとはいえ、曲がりなりにも彼には魔術の素養があった。この程度の幻覚術式は跳ね除けられて当然だった。だが、彼は眼前の精霊種を舐め切っていた。取るに足らない些少な存在だと、叛逆の意志を宿すはずのない傀儡だと侮っていたのだ。

 視界が流転する。ベッドに倒れ伏したソメリアを、赤髪の精霊種は冷ややかに見下ろしていた。殺してはならないと言い含められていた。僅かでも危害を加えればマルタを縊り殺すと告げられていたため、レンはソメリアから目を逸らすと立ち上がった。

 部屋の奥に垂れ下がった軍旗を捲ると扉がある。扉の向こうには石畳の通路が広がり、入ってすぐのところに外套が用意されていた。ファメリドから伝えられた通りに通路を進む。十数キロは駆け抜けただろうか。刻印による蹂躙の痕が生々しい体にとって、それは拷問にも等しい踏破であった。ようやく現れた扉を潜ると、彼女は荒野にいた。

 荒野の彼方、背後には栄華を誇るカロニアの城壁が聳え立つ。有事の際の避難路を辿り、誰の目に留まることもなく城壁の外に辿り着いたのだ。

 残してきたマルタのことが胸を過ぎる。ファメリドは彼女のことを人質だと言った。

 引き返さなくてよいのかと、良心が呵責に喘ぐ。だが、引き返したところで自分にできることは何もないと、ちっぽけな理性が彼女に前を向かせた。

 荒野の先に広がる森へと、赤髪の精霊種は入っていく。

「待ってて。必ず迎えに行く」

 自分だけが救われるなどという結末は受け入れない。受け入れてなるものか。

 これから辿るであろう未来を困難なものへと貶めてしまう呪詛を何度も唱えながら、無力な精霊種は、仮初めの自由を掴んだ少女は森の中に溶けていく。

 この瞬間から始まるのだ。

 紅代香蓮という人間、レン・スフラールという精霊種が紡ぎ出す【英雄への渇望譚アルゴノーツ】が。

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