生き血を捧ぐ――
「この世界はアガレシアと呼ばれているわ。精霊と神獣、人類種が共存し、混在する世界。
人類種は
「混血⁉ それって人間と竜とかがセックスしたの⁉」
慌てふためいたレンをマルタは不思議そうに眇めた。
「セックス? ああ、子作りのことね。違う違う、大昔のおとぎ話になるんだけどね、人間は精霊や獣達を神様として崇めていたのよ。ある時、供物の見返りとして血が与えられ、それを飲んだ人間には精霊達の加護が宿ったの。世代を重ねて血は受け継がれていき、加護も強くなり、人間とは異なった外見、人間にはない力を与えられたのが私達というわけ」
「なるほど? それならどうして私達は奴隷なんて境遇に陥っているの?」
「二百年ほど前はね、アガレシアは人間が治めるドルマント公国、精霊種が治めるセルナンティア、獣人種が治めるエウフガラム、竜人種が治めるマグナシア、死人族が治めるデムウラテスに分割されていたの。少数民族だった吸血種だけは国を持たず、どこに住んでいるのか、現在も存続しているのかさえ分からないけどね。ともかく、この五種族はそれなりにうまく付き合っていたそうよ。領土は国境線を引いてきちんと定めていたし、交易も盛んだった。
ドルマント公国の王としてムエルトが即位するまでは……。彼は過激な排他思想、純血主義だったわ。人間以外の種族を【穢れた血脈】としてアガレシアから排斥し始めたの。引き起こされたのが、アガレシア全土を巻き込んだ大戦だったわ。誰もがこんなのすぐに終わるって思っていたわ。ムエルトという恐ろしい王のことを甘く見ていたの。
ドルマント公国の侵略は各地に及び、初めにマグナシアが、次にエウフガラムが、最後にセルナンティアが敗れたわ。そして生まれたのが神聖アガレシア帝国――人間と亜人によって構成され、亜人は人間への隷属種として扱われる差別と凌辱の世界……。
これが、私達が奴隷となった経緯よ」
それで、他に聞きたいことはあるかと、マルタはすっかり辟易した口調で訊ねた。
「精霊種が与えられた加護って何だったの? 人間にはないような能力を扱えたのに、それでも敗けちゃったの?」
「精霊種は……魔法を使えたわ」
「使えた? 使えるじゃなくて?」
「魔法と魔術の違いはいいとして、今のアガレシアでは人間が魔術を使えるだけなの。精霊種は奴隷になったときに森から引き離され、精霊と森の加護を失った。それから二百年あまり、魔法はとうの昔に失われたわ」
「竜人種と獣人種はどうなの?」
「竜人種は空を飛ぶことと、鋼よりも硬い皮膚を持っているわ。獣人種は驚異的な身体能力を持っていて、特に知覚領域が優れていると聞くわ。噂では他人の心が読めるって……。でも、どちらも魔術には対抗できない。戦時下では真っ先に敗れた」
「精霊種には、魔法以外にも何か残ってないの⁉」
「強いて挙げるとすれば他種族より長命で、治癒力が高いというところかしらね」
「……でも、それじゃ戦えない」
「そうよ。魔法を失くした精霊種には何も残されていない。だから私達は、亜人は奴隷の境遇から抜け出せずにいるのよ」
投げやりに、悲しそうにマルタは締め括った。
(そんな……ことって……こんな、最悪な状況が始まり?)
絶望のあまり、レンは床に這い蹲って嘲り笑う。
異世界に転移したと思えば奴隷として扱われていた。魔法や超能力といった【現状を打破するための力】は与えられず、芽生えず、まさに神様に見放された状態。
こんなものが始まりで、誰が絶望するななどと言えたものか。
「これからどうなるのかな……」
「私達を買った人間次第でしょうけど、買い求められた時点で私達は物として見られてる。碌な目には会わないわ」
レンは知らない。彼女よりもアガレシアに精通しているマルタでさえ知らないことだ。
精霊種に寄せられる用途の大半が【呪術】に傾くという事実を。その果てに待ち受けるものが無慈悲な惨殺であるということを。
それでも想像はできたはずだ。かつて人間として生きていたレンならば、香蓮の記憶を継承している彼女ならば、長寿の種族に寄せられる願望の正体に気付けたはずなのだ。
そう、知性あるものならば誰もが死を恐れ、忌避することに。
絶望に打ちひしがれた二人の背後で、牢の扉が開かれた。
「出ろ。お前達の持ち主が決まった」
レンは理解した。自分はすでに人ではなく、獣でもなく、物として扱われているのだと。
独房から連れ出され、二人は持ち主に引き合わされた。見た目の年齢は自分達とそれほど変わらない、褐色の肌と黒髪の少女だった。少女はレンを認めるや否や、
「本当に赤いのね」
感心したように言った。
「くれぐれも内密に願いますよ。商売柄、信用が何よりも大事でね。競売以外で奴隷を横流しするなんて、本来なら貴族様相手でもしないんですから」
ファメリドの遣いであるウミの対面では、奴隷商人の頭である男が渋面を作っていた。
「それだから言い値で買うと提案したのです。非難される謂われはありません」
「遠慮なく請求させてもらいますよ。本当によいのですな?」
「もちろんです」
奴隷の所有権を譲渡する旨を記した契約書と莫大な金額の小切手が交換される。
「遺憾のない取引ができてよかったです」
「次は正規の手段でお願いしますよ」
「考えておきます」
契約書を片手にレンとマルタを振り返ると、ウミは凛然と言い放つ。
「付いてきなさい」
奴隷商人の館から待たせていた馬車に向かう。
「一応警告しておくけれど、数で勝るからといって逃げようなどと考えないことね。魔法を失った精霊種如きに劣るほど、私は甘くないわ」
「……あんた、魔術師なのか?」
「さて、どうかしら。それでも指を振るうだけであなたの首を飛ばすくらいの芸当はできるとだけ憶えておきなさい」
馬車に乗り込み、領主の城まで揺られる間に、ウミはレンとマルタに二種の認識阻害の魔術をかけた。見知らぬ人間を連れ込むことを衛兵に見咎められないようにするためと、誰に買われたのか二人が分からないようにするためだ。
城に入ると二人は引き離され、マルタは牢へ、レンはファメリドの工房に連れていかれた。
「エリ様、例の娘です」
工房の奥で羊皮紙に目を走らせていたファメリドが顔を上げ、レンを手招きした。僅かに怯んだレンの背中をウミが押す。レンは唇を強く結ぶと、意を決して得体の知れない工房の奥へと、得体の知れない男の元へと歩み寄った。
不躾なほどに視線を這わせ、ファメリドはレンを観察する。無言で全身を睨め回され、レンは針の筵に座らされているようで落ち着かず、訊ねたいことがちらほらと浮かんでくる。ただ、軽率に発言してはならないと、そんなことが許されてはいないのだと理解していた。
「如何ですか。師の慧眼には適うでしょうか」
「箸にも棒にも掛からぬわけではないが、期待以上とはならんな。二つのものが干渉でもしているのか、輝きがどこか濁っている。だが、ボードウィン卿の願望を充たすには足りている」
「それでは卿に譲りますか? 秘匿したまま精査することもできると思いますが……」
「それは無理だな。この城は全て把握されている。連れ込んだ者、連れ出した者、全ては彼に通じている。そもそもあれほどの金を動かしておいて、何もなかったでは済まされまい?」
ファメリドがそこまで語ったとき、工房の壁にかけられた鈴がひとりでに鳴り始めた。
「見ろ、卿は説明をご所望のようだ」
「そのようですね」
「小娘、我が主に引き合わせる。付いてこい」
次は誰に引き合わされるのか、それはどのような人物だろうか、どんなことをされるのか。朝からの疲労も相まって、レンは振り回され続けていることに嘆息を溢した。
その姿は傍から見ても落ち着いており、奇妙なほどに冷静でもあった。これまでファメリドが見てきた奴隷は、今後のことを不安に思うあまり平静ではいられず、その目は泳ぎ、歩くことさえもぎこちないようなものだった。
(だが、この娘、緊張していることは確かなのだろうが妙に目が座っているな。逃げ出そうとする気概を失っていないのか、自由への渇望があるのか、今も周囲をよく観察しているうえに俺を見定めようとまでしている)
そして、荒事を起こすには早すぎると己を律している。
(どうすればこのような奴隷ができあがったのか……)
レンが連れて来られるまでの間、ファメリドはレンの半生を調べていた。
アラヤとソラウの子、レン・スフラール。
人間によって管理される集落に於いて計画的に出産され、幼少期より人間への隷属心を植え付けるための教育を施された。実の両親とは幼くして引き離され、マルタという少女を姉のように慕い、依存心を深めていった。生来より気の弱かったレンは教育の影響を顕著に受け、出荷される頃には自由を望むことさえもないほどに骨抜きにされた。
だが、魂を収めているだけの形骸に過ぎなかったレンは突如として変貌を遂げる。それは魂そのものの変革と表現しても差し支えないほどに。
(この娘を励起させているものは何だ? この娘の中には何がある?)
ファメリドの理解は及ばず、だからこそ、レンの魂を解析してみたいと欲した。
ファメリドに連れられて部屋に入って来た精霊種の少女を認めた途端、ソメリアは血相を変えて立ち上がり、粗雑な足音を立てて駆け寄った。武骨な手でレンの肩を掴み、ソメリアは感極まったように叫んだ。
「ファメリド! これか! これが命か!」
「その可能性があるやもしれぬといっただけですが」
「一縷でも望みがあるならば僥倖だ! それでファメリド、儀式はいつ行うのだ⁉ 明日か、明後日か。いや、十五年も待ちわびたのだ。一刻も早く成就の瞬間を迎えたいものだ!」
「いいえ、僅かでも可能性を引き上げるための儀式が先となります」
「だが、極上の美酒を前にして待てというのも酷ではないか」
「十五年の辛抱に比べれば些末なことではありませんか。卿の悲願を確実に成就するための仕込みです。急いては事を仕損じるとも申すではありませんか」
飛び交う言葉の中に不穏な雰囲気を認め、レンは弁えることができずに開口した。
「あの……私は何をされるのですか」
その声でようやくレンの存在を思い起こしたのか、ソメリアは肩を掴んだままで少女に顔を寄せ、厳格な顔立ちの中に軽やかな笑みを浮かべた。
「貴様は! 貴様はな、俺の命になるのだ!」
「それは……どういうことですか」
レンの瞳が震える。
(この人の命になるってどういうこと?)
だが、ソメリアがそれ以上応じることはなく、
「命、命だ……俺の命だ……」
譫言を繰り返しながら背を向けた。レンを慰めてやる必要など、彼には微塵もなかった。
レンという少女、赤を付随された精霊種。彼女の裡に潜在する価値だけが重要なのであり、それを収めているレン・スフラールという個人に関しては些少の関心も向けてはいない。
「西方の伝説だ」
代わりにファメリドが開口した。
「とある賢者が精霊種の生き血を浴びたところ、不老不死が与えられたと語り継がれている」
人間と比べてあまりにも穏やかな成長と老衰、数百年にも及ぶ長寿を兼ね備えた種族。それこそが精霊種の特質であり、そこに寄せられる願望とは何か、レンはようやく気付いた。
そう、人間であった香蓮ならば何度も夢想したことだ。
もしも不死の魂を手に入れたなら、決して老いることのない肉体を手に入れたならば。
同時に何度もばかげた妄想だと唾棄してきたものだ。
だが、それは香蓮の生きていた世界での話であり、人間よりもはるかに長命で、それでいて人間と限りなく近しい種族が存在するアガレシアに於いては妄想だと吐き捨てられるほどに矮小なものではない。必ずや実現に至れると信ずるに足るほど、現実味を帯びたものだった。
「外見から判断すれば十二かそこら。だが、貴様はすでにどれだけの年月を生きてきた? その幼い相貌を獲得するためにどれだけの歳月を費やしてきた?」
「そんなの知らないから教えて! 不老不死とやらのために私は何をされるの⁉」
自分の立場なんて考えられず、ファメリドに縋り付く。頭の中では狂ったように警鐘が鳴り響き、望ましくない答えばかりが浮かび、現実もそれに違わない。
「その首を落として生き血を捧げるのだ」
ずくりと、ファメリドの胸が痛んだ。レンに同情したためではない。魔術師としての予感が、魔術師として培った先見の明が叫んだのだ。
その精霊種を失うのは痛手だぞ――と。
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