かつての人類のユメ

「早く」

 地方都市カロニア。その領主が住まう城の中で一人の男が呟いた。古今東西の職人や細工師によって煌びやかに飾り立てられた寝室の中央では、衣服の上からも見て取れるほどに逞しく隆起した筋肉を持ち、相貌に深い皺を湛えた男が表情を曇らせていた。かつては艶やかだった黒髪には色素の抜けた灰色の髪が混ざり、彼の老衰を暗示していた。

「早く早く早く」

 武人としての肉体と、僅かばかりの魔術の心得を頼りに、地方貴族の末弟から辺境伯の地位にまで上り詰めた猛将は、しかし今、ある妄執に囚われていた。妄執は焦燥へと姿を変え、男の精神を搔き乱す。左手に握られていたワイングラスが張り詰めた音とともに砕け散り、葡萄酒が飛び散った。グラスの破片で手のひらを切ったために、男の腕に血が伝う。

 だが、彼にそのことを厭う様子は見られず、痛みさえも認識できていないのか微動だにしなかった。一方で、その様子を遠巻きに眺めていた痛んだ赤色スカーレッドの髪の男が開口した。

「ボードウィン卿、お気を確かになさってください」

 従者であるファメリド・エリに諭されたことで平静を取り戻したのか、ソメリア・ボードウィン辺境伯は俯かせていた顔を上げた。とはいえ、独言を繰り返すことをやめただけであり、額に大粒の脂汗が浮かび、その目は焦点が合わずに虚ろなままだった。

「あぁ……すまない。だが、まだか。まだなのか、ファメリド」

 ファメリドの双眸が、あたかも主君の不憫を嘆くかのように細められる。或いは軽蔑しているのかもしれない。

 従者の熱を失した眼差しにも気付かないまま、ソメリアは心を震え上がらせる。

 彼の胸中に渦巻いているものの正体を知っているばかりに、ファメリドは「下賤な男に成り果てたものだ」と主君に対する評価を下落させた。

「お手をお出しください。その傷を治さなければなりません」

 それでもおくびには出さない。無能な主君に仕えることに甘んじるほどファメリドの矜持は安くないが、主君の胸の中で、かつての野獣を彷彿とさせる野心が死んではいないことを承知しているために。侮りが及ぶほどには落ちぶれていない、それがソメリアに対する評価だ。

「卿の悲願を成就する術は確かに存在します。私とて研鑽を惜しんだことは一度たりともなく、かつての人類のユメは、それを満たすための器は顕現を果たしました。残るは器に注ぐ命のみです。もはや卿が気を逸らせる理由などどこにもないのです」

 弄舌を重ね、主君の心労を慰めることに心力を注いだ後にファメリドは退室した。信頼する家臣から力強い言葉を受けたためか、ソメリアはすっかりと落ち着いた様子だった。

(以降の慰めは妾にでもやらせた方が覿面に効くことだろう。さて、誰を呼んだものか)

 寝室の外に控えている近衛兵を呼び寄せ、極上の女を用意するように言いつけ、ファメリドは階下に向かった。ガス灯によって照らされる仄暗い廊下を歩きながら、前方を向いたままで彼は開口した。

「覗き見とは趣味が悪いな」

 ソメリアにかけていた言葉、すなわち主君に送る言葉からは一転して、自己の方が優位な立場にあることを殊更に強調するような声音だった。誰に向けた言葉なのかと、凡人であれば首を傾げる他にないほど、廊下には他人の息遣いさえも感じられない。ヂリヂリと音を立てて燃えるガス灯の明りに照らされ、ファメリドの影が揺らめいているだけであった。

 されど、その直後、彼の眼前に於いて空間そのものが歪み始めた。敢えて表すならば【無】のみが存在していた空間が質量を獲得して、光を通さない【物体】へと挿げ変わった。それは人間の姿をしていた。緋色のローブによって貌を隠され、体型も把握しづらくはあるが、

「主君が仕えるに値するかどうか見定めていただけです。どうぞ御容赦ください」

 ローブの奥から発された声は若い女のものだった。この場合の「主君」がソメリアを指すのであると感じ取り、ファメリドは女の愚行を嘲笑するように鼻を鳴らして訊ねる。

「それで? 貴様の結論はどうなった」

「公的な主従関係に於いて、私はボードウィン卿に仕える身です。しかし、私が契約を交わし、生涯を捧げると誓ったのは魔術の師である貴方様だけです。私の考えがどのようなものであれ、その判断を委ね、重んじるべきは師の御意向であると存じます」

「下賤な覗き見をしてまで得た結論が俺に従うのみとは、愚かな女だな。己が道さえも他人に依存させるなど、何と軟弱なことか。貴様の底が知れるというものだぞ」

「師の器がそれほどまでに尊大であり、魅了するに足るのだと解釈してください」

「ウミよ、それは皮肉か?」

(偉大な魔術師として【アガレシアの裁定者】の称号を皇帝陛下から賜った父に反駁し、嫉妬を募らせ、父よりも先に【魔法】の門扉を叩くことだけを望んで家を捨てた俺のことを、この女も知らないはずがないだろうに。せめて、せせこましい鼠だとでも嘲弄された方がまだ納得できただろう……)

 ファメリドの気色が僅かにささくれたことを鋭敏に感じ取り、ウミは口を閉ざした。この場合、謝罪を口にする方が師の逆鱗に触れることを知っていたために。

 ファメリドを前に、彼に付き従う形で背後にウミが続き、彼等は城内を下へと進む。魔術師とその弟子の取り合わせは、一般の兵士に対しては畏怖を抱かせる対象となり得るようで、誰かとすれ違うたびに濁った熱が込められた眼差しを向けられる。それに優越感を抱くほど、ましてや愉悦を抱くほどにファメリド・エリは浅はかな男ではなかった。

 彼等が向かった先は城の地下だった。かつては地下牢として使われていた施設はファメリドの要望によって改修され、彼と弟子の他には、城主であるソメリアさえも立ち入ることの許されない【工房】として使われている。魔術師が研究と修養を重ね、或いは衆目から逃れるための隠れ蓑、或いは生涯を通じた研究の成果を秘匿するための場、それが工房だ。

 ソメリアからは「仮にもカロニアの副官を務める男が地下に潜ってばかりいるなど体面が悪い」と難色を示されることが常であったが、地下牢にかつて幽閉されていた人物の嘆きと怨嗟、人間のあらゆる負の感情が染みついた空間をファメリドは好んでいた。

外界魔力マナ】の供給といった側面でも、星の中枢に近い場所に工房を設けることは魔術の基礎であるうえ、そもそも入口がここにあるだけで、工房そのものは城から切り離された場所に存在する。どこに扉を構えるかなど、些細な問題でしかなかった。

 ファメリドの工房は、他の魔術師のものと比べても数倍の広さを誇っていた。されど、それが狭苦しいと感じるほどに雑然と物が詰め込まれていた。高価な魔術器具、希少な魔術書、弟子のために取り揃えた教本、この世に二つと存在しない太古の遺物アーティファクトが個々の価値には目もやられず、同等のものとして置かれていた。所有物によって魔術師の格が決まるわけではなく、所有物によって己を誇示してはならないと説く彼らしい物の扱い方だが、それだけに、見る目のある者からすれば口を酸っぱくして糾弾したくなる光景だ。

 工房の中央には水の張られた甕が置かれていた。水面に映されるのは赤土の天井ではなく、こことはかけ離れた森を走る馬車の中であった。

「如何ですか?」

「貴様はどう感じたのだ?」

「価値があると思ったからこそ、師に見せているのです」

「小娘が言うようになったではないか。ふむ、貴様の思惑に載せられたようで釈然としないが確かに面白くはあるな。興味がそそられるだけの珍しさがある」

 水面に映されるのは精霊種の少女だった。透き通った髪はほのかに赤色を帯びており、暗闇の中では淡く輝くように見える。揃いの色をした双眸には、どこか屈強な意思が垣間見える。

 一般的な精霊種とは明らかに異なる容姿、【赤】という付随された価値。

(これは目を眩ませられるな。妄信を抱いて疑わない愚者の瞳ならば殊更に――)

 だが、それだけではない。赤髪の精霊種、彼女にはどこかおかしな印象を抱く。それが何に起因するのかは見当もつかないが、敢えて言葉にするならば、

「ずれているな。魂と意識、肉体が噛み合っていない」

「それはどうしてでしょう」

「軽率に訊ねる前に少しは考えろ。少なからずとも貴様は魔術に片足を踏み入れ、俺の教えを受けている。思考を停滞させれば、貴様はいつまでも未熟なままだ」

「耳に痛いばかりです。それはともかく、師のお考えをお聞かせください」

「諭されてなお態度を変えないとは。融通の利かなさだけは一人前だな」

「私はエリ様の弟子ですから」

「俺の欠点を受け継いでどうする。まあ、よいだろう」

 ファメリドは甕を覗き込むと、少しばかり思案してから首を振った。

「分からんな」

「はい? エリ様でも分からないことがあるのですか?」

「片鱗だけなら掴めるが、あれは明らかにアガレシアの摂理から逸脱した存在だ。言葉を重ね、魂を精査し、肉体を洗えば掴めるかもしれんが、眺めているだけでは理解などできるはずもない。それほどまでにあれは異質な存在だ」

「それは、赤い精霊種だからですか?」

「それもある。だが、奴にはそれ以外にも何かがある」

 ファメリドは押し黙り、ふとウミに向き直った。

「あの精霊種はどこに運ばれようとしている?」

「当初の目的地はケテラムでしたが、によりカロニアへと進路を変えました。この調子でしたら明日には着くでしょう。補給のために二日は留まるはずです」

「そうか。貴様にしては上出来だ。ボードウィン卿に金を回すように伝えて来い」

「分かりました」

 一礼して退室しようとしたウミに向け、

「俺の弟子として、貴様もよく精査しろよ」

「何をですか?」

「簡単なことだ。あの精霊種をボードウィン卿に譲り渡してもよいのか、否かだ」

 主君に対しての不義を、ファメリドはさらりと言葉にした。

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