【レン】と【香蓮】
「どうしたの。レン、眠れないの?」
仄暗い馬車の中。降ろされた亜麻布の向こうから声が届く。
「ううん、ごめんね。眠れるはずないよね。みんな、目を閉じて眠っているふりをしているだけで、夢の中に逃げたがっているだけで、こんな状況で眠れるはずないよね」
【レン】と呼ばれた赤髪の少女は胸の前で手のひらを握り締め、揺さぶられてやまない鼓動を宥めながら、背中を檻から離すと声がした方に歩み寄る。一歩、一歩、進めるごとに足首に食い込む重さがレンの心を絡め取っていく。雁字搦めに縛り付けていく。
亜麻布を捲り、向こう側を覗く。数十秒前とほとんど変わらない光景の中で、ただ一人の少女が顔を上げていた。膝を抱えているために正確な身長は分からないけれど、それでも自分よりは随分と高い。冷めるような金髪に、黄金の双眸。細められた眦と痩けた頬が相まって怜悧といった印象が付き纏う。けれど、その瞳の奥には、拭い切れないほどに濃密な絶望が巣食っていた。
「…………」
唇を微かに戦慄かせて、何か、必死に言葉を探そうとするレンの姿を眺め、金髪の少女は無理して声音を躍らせ、茶化すように言う。
「どうしたの? 怖い夢でも視たの?」
少女の頬にふっと射し込んだ血潮の赤みを美しいと感じながら、レンはぐるぐると目を回す。彼女の異変を機敏に感じ取ったのか、金髪の少女は眉根に皺を寄せた。
そして、大丈夫か訊ねようとしたところで、
「レンって私のこと?」
被せられた赤髪の少女の言葉に喉を詰まらせた。
怪訝な眼差しを向けられたことでレンは委縮する。体の内側では、神経の末端を撫でられているようないたたまれない感覚を抱きつつ、それでもレンは不思議でならない。
「こんな時にそんな冗談やめてよ。――笑えない」
返された言葉は僅かに棘を孕んでいる。気後れしながら、レンはそれでも続ける。
「ふざけてるわけじゃないの。本当に分からないの。だって――」
(だって、記憶がある。【レン】ではなく【香蓮】という少女の記憶が、言葉が、感情が、人生が全身に渦巻いている。体も心も何もかも。私はほんの少し前まで全く別の人間だった)
少なくともレンという少女ではなかったはずだ。
(何かがおかしい?)
そのおかしさは
意味不明な言葉を口走り、途端に黙り込んでしまったレンのことを金髪の少女は不安に思った。絶望のあまり、悲嘆に暮れるばかりにおかしくなってしまったのではないかと。
一方で、レンは静かに思考を廻らせていた。突如として降りかかった異変に狼狽えるわけでも、戸惑うわけでも、心を閉ざしてしまうわけでもなく、彼女は正面から現状に心を向き合わせ、冷静に考えを組み立てていく。
初めに夢ではないかと疑った。夢の中で夢であると知覚する、明晰夢の坩堝に迷い込んだのではないかと最も妥当なことを思い浮かべ、
(違う)
即座に否定した。これほどまでに明瞭な夢があったものか。五感に訴えかけてくる夢があったものか。何よりも私の体には熱が宿っていると、レンは胸に手のひらをあてがって思う。
夢ではない。仮にそうであるのだとしても、これほどまでに明瞭な夢には【現実】として向き合うべきだろう。
(この体は【レン】のもので、この意識は【香蓮】のもの。どちらが本物で、どちらが偽物? どちらが私にとっての
僅かに悩んだところで、レンの胸中に信じたくない考えが浮上した。
すなわち、体も意識も本物だとしたら?
レンという人間は確かに存在した。香蓮という人間も確かに存在した。前提としてそれを掲げた上で、この異変に説明を付けるとすれば、考えられる可能性は絞られていく。
(入れ替わってる?)
伏せていた瞳を持ち上げ、レンは眼前の少女を見つめた。明らかに日本人とは異なる顔立ちに、透き通った黄金色の髪と瞳。人間とは異なった耳朶の形。
国、人種、境遇、人生、果ては【世界】までも超越してレンと香蓮は入れ替わったのだと、或いは統合されたのだと、この異変に対する仮説の全てを収束させる。
「……教えて。あなたは人間で、私はレン。そこに間違いはない?」
金髪の少女は困惑で胸を満たした。もはや怪訝に留まらず、胡乱なものを視るような目付きでレンを凝視する。答えてと、レンは繰り返した。彼女のあまりにも緊迫した表情と言葉に気圧されたのか、少女は瞳を揺らめかせるとたどたどしく唇を震わせた。
「あなたはレンで間違いない。だけど、私達は【
仮説は確信に変わり、それを受け、初めてレンの眼窩に陰りが落ちた。
「……ありがとう」
数歩だけ歩き、こんな狭い檻の中でどこに行けばいいのよと苦笑して、レンは腰を下ろした。膝がしらに額を付け、降ろされた布の向こうに気配を感じ取り、レンは喉を震わせた。
「もうひとつだけ、教えて。あなたの名前は何?」
息を呑む音が聞こえた。レンは眉目をくしゃくしゃにして、無理もないよねとせせら笑う。
(あの人は私のことを憶えているのに、知っているのに、私には名前さえも忘れられたなんて。なんて、悪い冗談なんだろう)
「――……マルタ」
数秒だけ重苦しい沈黙を挟み、名前が告げられた。マルタの表情を窺うような勇気を、レンは抱けそうになかった。
「ごめんね、マルタ」
それだけを伝えた。マルタからの返事はなかった。
今の自分がどのような状況に置かれているのか理解できないほど愚かではない。奇しくもこの状態が【娯楽】として消費されるような世界に香蓮は生きていたのだ。奴隷。そう、これは奴隷だ。檻に閉じ込められ、足枷を填められ、自由を剥奪された隷属の身なのだ。
(でも、これはあれね。奴隷とか、囚われの境遇とか、物として扱われるとか。そういうものは自分とは無関係の作り話だったから享受できていたのであって、いざそうなってみると、最低ね。お腹は空いたし、お尻は痛いし、寒いし、奴隷なんて――ごめんね)
レンは大きく息を吸い込むと、紅玉の双眸に落ち着いた熱を浮かばせた。
(うん、やっぱり奴隷は嫌だ)
自分自身を励起させるように繰り返す。それでは、差し当たって何をするべきか。
(この世界のことを、レンのことを知らないと)
レンの裡に渦巻いているものは香蓮としての記憶、香蓮の生きていた世界のことだけで、こうしてレンが生きている世界については全くの無知だった。現在の彼女が知っていることは、自分がレンであること、精霊種という種族であること、おそらく親しい間柄のマルタという人物のこと、商品として売買される奴隷の境遇にあることだけ。香蓮の記憶から推察することもできたけれど、それだけでは不十分だった。
(この世界のことをどうやって知るかなんて悩む必要はない。頼みの綱は彼女、マルタだけだから。でも、今はだめ)
レンは馬車の前方を睨み付ける。この馬車を走らせている人物は、決して違うことなく、自分達を物として扱う立場にあるのだから。
(そうすると、今できることは何もないか……)
ふてくされたように頬を膨らませ、レンはそのまま体を倒した。硬くて揺れる床は睡眠に適しているとはいえないけれど、横になって体を休められるだけ、詰め込まれているマルタよりはマシなのかもしれない。理由は分からないけれど特別に扱われている。商品として見做されている現状に於いて、特別であることは決して望ましくはないはずだ。
(でも、それを考えるのは明日かな)
香蓮から受け継いだ前向きさだけを頼りに、レンはうつらうつらと意識を微睡ませていく。レンはきっと安らかに眠ることなんて久しくしていなかったのだろう。目を閉じれば、魂や骨肉を構成する素材そのものからゆっくりと崩壊していくような眠気に襲われ、レンは夢の中に沈んでいく。不思議と、次に目を覚ましたときには香蓮に戻っているかもしれないとは思わなかった。この世界で生きていく他にはないのだという意識だけが胸中を占めていた。
レンとして目覚めたときから、香蓮の魂もこの世界に囚われてしまったのだ。それは、とてもではないが抗えないほどに、運命という名の楔を打ち込まれて。
(寂しいよ、藤次郎……)
ただ、それだけを思った。
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