《聖書》による騒動

 私、紅代べにしろ香蓮かれんは平均的な女だ。試験の成績は狙い澄ましたように平均点を取り、運動は得意でも不得意でもない。平均的に娯楽を嗜み、平均的に幼馴染に恋心を抱き、平均的に生きている。得意なことがない代わりに不得意なこともない、器用貧乏を十七年続けてきた。

《彼》のように大きな才覚と成功があるわけでもない。

 それは翻せば、不幸もないわけで、私は恵まれた人生を享受しているのだろう。

 だから、私は屈辱と失意の味を知らない。


「今日は、気圧が高いからお休み」

 鳴りやまない目覚まし時計を叩き、誰かに弁明するように呟く。開きかけた瞼を下ろし、布団に包まった。「気圧が高い」などというのがとんだ言いがかりなことは分かっている。窓の外では、大粒の雨がひっきりなしにアスファルトを叩いているのだから。

 それを指摘されれば「濡れちゃうからお休み」と言い直すだけだ。要は、私にとって理由など何もかもが後付けなのだ。それらしく聞こえればそれでいい。

 ばら ばらら ばらららら

 雨粒が窓を叩く音が心地好い奏でとなり、私は意識を順調に微睡ませていく。

 すると、見計らったようなタイミングで携帯電話が鳴り始めた。悲鳴を上げて枕に顔を埋めたけれど、すぐに諦めて携帯に手を伸ばした。

『起きてるか、香蓮』

「寝ながら電話できるほど、私は器用じゃないよ」

『ハハ、お前ならそのくらいできた方がさぞかし生きやすいのだろうな』

「そうね。その通り」

『さて、喜ばしいことに本日も学業の門は開かれたぞ。集え、青々しい学徒共』

「……気圧が高いから……雨降ってるのね。低血圧、あと喉の調子が悪いかも。ケホケホ。これは喘息の予兆かもしれないわね。寝てなさいって神様が言ってる」

『どうして香蓮は学業に対してそんなに後ろ向きなのだ』

「ふふん、学業から逃避することに前向きなのよ」

『威張るんじゃない』

 呆れた声で窘められ、私はむくりと体を起こした。

「うん、ちゃんと行くから。迎えに来るなんてやめてよね。親がうるさくなっちゃう」

 適当にあしらって不登校を決め込んだとき、家まで押しかけられたのは苦い思い出だ。

 電話を切り、ため息を吐いた。

 通話相手のお節介をどこか嬉しく思っている自分のことが無性に腹立たしい。

 ベッドを降りて鏡の前に立つ。背筋をピンと伸ばすと、私の頭は鏡の中で切れてしまう。百八十センチオーバー。日本人の女子高生としては桁違いに大きな身長。背丈に合わせようとすると可愛い洋服を探すことも一苦労だし、外を歩けば見知らぬ人に「デカ女」なんて嘲笑を浴びせられることもあるけれど、別に嫌っているわけではない。

 まだ、彼よりは小さいから。

 私が身長のことを嫌に思うときが訪れるとすれば、彼を追い越したときだけだろう。

 だから私は牛乳を飲まない。

 おかしなところで前向きなのってどうなんだろう。

 背中を丸めることでどうにか全身を映し出して癖っ毛を整える。

 身支度を済ませ、トーストをオレンジジュースで流し込むと家を出た。時刻は七時を少しだけ過ぎたくらい。登校には早すぎるけれど、始業前に済ませておきたいことがあった。

 徒歩二十分の距離を、雨の中にもかかわらず駆け抜け、生徒の姿が少ない校舎に入る。教室に鞄とびしょ濡れになったブレザーを放り入れ、ハンドタオルと携帯だけを引っ掴むと階下の生徒会室に向かった。開け放されていたドアを軽くノックすると、部屋の奥で分厚い書類に目を通していた青年が顔を上げた。

「色っぽいな。おはよう、香蓮」

 今朝の通話相手、藤次郎とうじろうは眼福だと言わんばかりに手を合わせた。

「ばか」

 挨拶もそぞろに藤次郎に歩み寄り、携帯の画面を突き付けた。

「頼まれてたもの。これでよかったら注文するけど……」

「ああ。それで構わない。さすが香蓮だな、俺が思っていたものよりいい」

 返事を受け、画面に表示されたものを一瞥して、呆れ気味に藤次郎を見つめる。

「ホントにこんなの買うつもり?」

「微に入り細を穿つというやつだ。凝れるところは凝った方がいいだろう」

「生徒会費の無駄使いだって糾弾されても知らないんだから」

「言及された暁にはうまく言いくるめるさ。言葉が達者なことだけが取り柄だからな」

「悪い生徒会長だこと」

「そう邪険にするな、共犯者殿。それに、俺を支持した奴等が悪い」

 傲岸不遜な態度を撒き散らす彼の姿は、もう見慣れたものだ。

「届いたら請求書回すからよろしくね」

 ネット通販の注文を確約する。

 それにしても、どうしてこんなものを、という意識が私から拭われることはなかった。或いはそれを警鐘と受け取った方が利口だったのかもしれない。少なくとも受取人を私から藤次郎に変えるだけで、道筋は大きく分岐したはずなのだ。

「それにしても、わざわざ見せに来ずともリンクを送ってくれればよかったのだぞ」

「察しろ、この朴念仁!」

 アンタの顔が見たかったのよ、なんて口が裂けても言えるはずがなかった。

《天才》の代名詞を思うままにする彼の、唯一の欠点がそれだった。


 二日後、それは自宅に届けられた。文化祭で生徒会が行う寸劇の小道具として藤次郎が求めたもの、それは聖書のレプリカだった。曰く、聖書の原典は《金版》と呼ばれ、金に文字を刻んでいたらしい。届けられたレプリカも同じように金属版でできていた。

 贋作である以上、本物の金で作られているはずなどないのに、レプリカを手にした瞬間、私はあまりの重量に落としそうになった。唐突な負荷に肩関節が悲鳴を上げた。

「重いぃぃ、重すぎ!」

 四苦八苦してようやく梱包を取り外す。

 改めて眺めると、本物の金で作られていると言われれば納得するほどの出来栄えだった。

「これ、何でできてるのかな」

 レプリカの表紙を撫でる。随分と古いものなのか金属版は微かにくすんでおり、そこに刻まれている文字も私の知らないものだった。少なくとも現在に流通している文字ではないだろう。それは、強いて言うならば象形文字ヒエログリフに近かった。

 ページを捲る。そこに何が書かれているのかは僅かにも分からなかったけれど、ページを捲るごとに贋作であるという意識は薄れていき、次第に魅せられていくような不思議な感覚を味わう。何が書かれているのだろうか、誰が書いたのだろうか。読解できない文字の群れを追い続けるうちに私の意識は散漫となり、ふと、指先に熱が走った。

「イタっ――」

 目を向けると、左手の人差し指がぱっくりと裂けて、大粒の血潮が滲み出ていた。慌てて指を動かす。反動で指先にぷっくりとぶら下がっていた血潮が落ちて、聖書に付着した。

「いけない」

 ティッシュで付着した血を拭い、裂けた人差し指に絆創膏を巻く。

「はしゃぎすぎちゃったかな」

 柄でもなかったと目を伏せて、私はレプリカを閉じた。

 どうやって学校まで持っていこうか。明日ばかりは藤次郎に家まで来てもらおうかと悩みながら、私は聖書から目を逸らす。それは同時に、どうして指を切ったのかという疑問からも目を逸らす行為に他ならなかった。滑らかであった金属版の表面に剃刀のような刃が現れ、忽然と消えたということには、当時の私は気付かないままだった。

 斯くして《聖書》による騒動を交えたものの、表面上は至って平穏的に、内実に至っては驚天動地にも及ぶ波乱に見舞われながら【紅代香蓮わたし】は閉じられた。

 そして、次に意識を取り戻したとき、そこは――――。

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