荒唐無稽な嘘

 香蓮がこの世界に飛ばされた翌朝、まだ朝靄が立ち込める街の中へ、彼女を乗せた馬車は入った。馬車の振動が途端に落ち着いたものに変わったことで、レンは静かに目を開けた。

 舗装された道を進んでいる感覚と、それまで単調に前進するだけだった馬車が忙しなく左右へ折れ曲がること、何よりも微かに喧騒が聞こえることに街に入ったのだと理解する。

 これから奴隷を売買するための店に運ばれるのだろう。そこで何をされるのか、どのような目に遭うのか。香蓮が消費してきた娯楽の経験から、少なからずとも許容できるものから唾棄すべきものまでが一挙に浮かび上がり、レンは僅かに肌を粟立たせた。

(…………怖いよ。やっぱり、怖い)

 その時が近付いていることを意識するにつれ、恐怖が鎌首をもたげてくる。

(怖気付くな。目を伏せるな。希望を捨てるな)

 恐怖を騙すために、不安を振り払うために己を鼓舞する言葉を繰り返す。

 荒れ狂う鼓動を宥めつかせる間にも馬車は進んでいく。この世界、人間が統治する世界に於いて奴隷制度は公に認可されたビジネスであるが、奴隷商売にはどうしても裏社会という印象が付き纏う。それ故に馬車は中心街から外れた市場へと向かっていく。街に入ってからおよそ半刻ほど、積荷の心をいたずらに弄んだ後、遂に馬車は停められた。

 レンは思わず腰を浮かした。周囲の喧騒が高まっていく中、いつ檻が開かれるのだろうと逸る気持ちを抑え込める。不安を募らせているのはマルタ達も同じだった。

 果たして、檻を覆っていた布が取り払われ、檻を閉じていた錠前が外される。レンが初めて認識した外界の光景は、銃を携えた男達に囲まれているというものだった。

 檻が開かれれば逃げ出せるかもしれない。そのような淡い期待は打ち砕かれた。

「降りろ! 並ぶんだ!」

 熊を想起させるほどの大柄な体格の男が叫ぶ。それが精霊種の習性なのか、或いは抵抗するだけ無駄だと思い知らされたためか、足枷を外されたにもかかわらず逃げ出そうとする者はいなかった。力ない足取りで馬車から降り、石畳の上で横一列に並ぶ。

 レンを除き、誰もが胡乱な目付きで虚空を見つめていた。

 男達の前に立ち、レンはすぐにその眼差しに気付き、辟易した。

(…………ケダモノ。あれが、あんなものが人間に向ける目なの?)

 頭と腕を通すための穴だけを設け、体の左右数ヶ所で綴じられただけの粗末な衣服。丈の長さも充分とはいえず、辛うじて膝にかかっていれば恵まれている部類。見え隠れする女の恥部に、男達は劣情を宿した視線を恥じらうこともなく向けている。

 だが、それだけならまだ大したことではなかった。

「おい、そこの女から裸になれ」

 熊男がそんな言葉を吐き出すまでは、本当に大したことではなかったのだ。

 公然で全裸になれなどと、あまりにも心無い要求をされたのはマルタだった。彼女は白皙の肌が面影を失くすほどに全身を赤くして、恥辱と屈辱のために戦慄いた。元来、精霊種は誇り高い種族だ。それが隷属の身に貶められ、ましてや尊厳と矜持さえも踏み躙られるほどの要求を浴びせられていることに、彼女の心は今にも狂ってしまいそうだった。

 全身の震えは止まず、瞼の裏でチカチカと陽の光が爆ぜる。そうやって廉恥と葛藤している姿こそが男達の見たかったものであり、彼女の姿は観客を充分に沸き上がらせた。

 ヤジが飛び、囃し立てる声は怒号となる。その全てが彼女の心を踏み躙っていく。助けの手を差し伸べてくれる人などいなかった。同胞さえも目を背けた。マルタがそうやって嘲笑の的になっている限り、自分の方に的が回ってくることはない。マルタが侮蔑に堪える時間が長くなればなるだけ男達は満足してくれるかもしれないと残酷な希望を抱く。

 とうとうマルタの左手が動いた。助けなんて初めから存在しない。私達はとうに神様から見捨てられたのだ。白羽の矢が立てられたことが運の尽きだったのだ。彼女の胸中に僅かばかり残っていた尊厳は挫かれ、男達に屈することに甘んじようとした、その時。


「恥を知れ!」


 蒼穹を劈くばかりの怒号が放たれた。

 傾倒しかけていた意識は揺り起こされ、マルタは目を見開いた。そして、その言葉を誰が発したのかと探ろうとして、彼女の姿を認めた。この場に存在する誰よりも小さく、幼く、脆弱な体をした赤髪の少女が、その体躯に似合わない苛烈な激情を露わにしていた。

 レンはいきり立つ。憤慨と嫌悪を剥き出しにして男達の愚行を糾弾する。

 奴隷から反駁の声が上がるとは、ましてや奴隷の中でも最も幼い少女からそのような言葉が飛び出すとは僅かにも考えていなかった男は目を剥いて、数秒後、我を取り戻してレンを睨み返した。だが、己より数倍の体格の男、換言すれば至極単純な脅威に敵意を向けられているというのにレンに怯む様子はない。彼女は真っ向から怒りを猛らせていた。

「恥を知れだと? 奴隷風情が過ぎた口を叩くじゃねえか」

「何度でも言ってやる、この恥知らず! 人間を物として扱うどころか、下卑た感情で心まで犯そうとするなんて畜生のすることよ! あんたは人間じゃない! 醜いケダモノだ!」

 一気に捲し立て、二の句を継ごうとした刹那、石畳の上をレンの小さな体が転がった。激昂した男に頬を殴られ、立ち続けることができずに倒れ込んだのだ。

 幼気いたいけな少女に蛮行を振るったことを男が恥じることはない。鼻息も荒く、額にミミズがのたうったような青筋を浮かべ、劣悪な蔑視を少女に向けて叫ぶ。

「奴隷風情が! 弱小種族が! 精霊種如きが人間様に逆らうんじゃねえ! お前等は生き物じゃない! お前等こそが家畜にも劣る『物』なんだよ! 偉そうに説教垂れやがって何様のつもりだ! 物は物らしく人間様を楽しませていればいいんだよ!」

 罵声を浴びせ、続けざまに男は倒れたままのレンの腹を蹴り付けた。内臓を掻き混ぜられた痛みに堪えられず、レンは「ギャッ」と悲鳴を上げるとその場でもんどり打った。

 だが、その体を凄絶なまでに痛めつけられたというのにレンの気色が揺らぐことはない。言葉を継ぐだけの余力は残されていなかったが、それでも男を睨み付ける眼は色褪せない。

 それは無言の重圧、はたまた静寂の威圧。理解できない恐怖が男を襲った。

(何だ? なぜ奴は怯まない⁉)

 レンの瞳は曇らない。彼女の魂に翳りは落ちない。灼熱の敵意は揺るがない。自分が何をしたところで敵わない相手に、何をされたところで怯むことがない。このような理不尽に屈してなるものかと叫び続ける。それは殊更に理解できないことであり、男はレンに畏怖を抱いた。

 男は我を忘れ、

「ボス! だめだ!」

 誰かの叫び声ではたと我に返り、自分がしようとしていたことを知る。

 右手には銃が握られていた。銃口は少女の頭蓋に向けられていた。

(殺そうと……したのか? こんな小娘を、殺さなければならないと……思ったのか?)

 虚ろな目でレンを見つめ、男は脂汗を拭うと血の気の失せた表情で叫んだ。

「奴隷を牢に入れておけ!」

 続いてレンを指差す。

「そいつは独房だ!」

 命じたところで、少女が蹲ったまま立ち上がれずにいることに気付いた。想像以上に痛手を負っていたのか、それならばあの気迫に説明が付かないと、男は混乱するばかりだ。

 奴隷に運ばせようと周囲を見渡して、レンを見つめたままで目を逸らせずにいる少女を認めた。劣情をぶつけた精霊種の子、マルタだ。紅潮していた肌はすっかり色褪せて青白くなり、自分をかばった少女のことを気にかけているようだった。

「……お前も独房行きだ。そいつの世話をしてやれ」

 良心の呵責がそうさせたのか、ただの気紛れか。奴隷の身をいたわるような発言をしたことに自分を疑い、部下の手を煩わせたくなかっただけだと男は言い訳した。



 自力では立ち上がることもできないレンを背負い、先導に従ってマルタは独房に向かう。他の少女達が詰め込まれた牢屋も酷い有り様だったが独房はそれ以上だ。冷たい石畳の小部屋。分厚い鋼の扉には水と食事を通すための穴が開けられ、向かいの壁には換気口としての窓が設けられている。鉄格子があるだけでガラスの填められていない窓からは冬風が吹き込むままで、仮にも室内にいるのに吐息は真っ白に凍り付く。

 室内にあるものは排泄用のバケツだけ。寒さを凌ぐための毛布はない。

 扉に頑丈な錠前がかけられた。先導してきた男は錠前を何度か揺らして問題ないことを確かめると、温かい詰め所へと戻っていった。

 硬い床の上にレンを横たえ、マルタはそっと顔を覗き込んだ。ハクモクレンのように色素の薄い肌の中で頬だけが鬱血して青紫になり、鼻孔から流れ出る赤黒い血が鼻から唇を伝い、顎までを汚していた。

 閉じられた瞼。髪と同じく透き通った赤色の睫毛。気を失ったレンを見つめ、その髪を慈しむように梳きながらマルタは表情を曇らせた。

(私のせいでこの子が傷付いた。私を助けようなんてしたから……。変ね。この子を守ることが私の役目だったはずなのに。私が――お姉ちゃんのはずなのに)

 緊張と不安から解き放たれた反動で涙が浮かんでくる。マルタは小さく鼻を啜った。そして、視界が滲み始めたとき、ふるりとレンの睫毛が動いた。

「レン⁉ 聞こえる⁉ 私のこと分かる⁉」

 マルタの声に応えるようにレンの肉体に生気が戻り、美しく伸びた睫毛がすっと分かたれた。

「無事……だった? あの後も……酷いことされてない?」

「バカ! 自分のことを先に心配しなさいよ! 殺されちゃうんじゃないかって……レンが死んじゃうんじゃないかって……思ったんだから……」

「うん。痛かったな……」

 懐かしむような声音で呟き、レンは小さな瞳をくりくりと回す。黴臭さやら汚臭やらが入り混じった、息をしているだけで病気になってしまいそうな独房の中にマルタと二人きりでいること、扉の向こうに誰の気配もないことを感じ取り、

「どうにか……うまくいったみたい」

 レンは不思議な言葉を吐き出した。

「何も……よくないよ」

「違うの。マルタと二人になることが私の目的だったから、『うまくいった』なの」

 香蓮は奴隷が娯楽として消費される世界にいた。あらゆる創作物に於いて【悲しい生涯を送っている人間】の象徴として奴隷は扱われており、あらゆる環境、あらゆる状況、あらゆる境遇で物として扱われる人間が見舞う行為は描かれてきた。それを娯楽として消費して、知識として蓄えた。大切な商品だと丁重に扱われるのも、恥辱の限りを尽くされ、尊厳を踏み躙られることも予想がついていて、今回は後者のように状況が進んだ。

「感謝されるとか……そういうのは不似合い。私はあなたを利用しただけなんだから」

 自分が利用されただけなどと、不可解なことを告げられたためにマルタは困惑する。彼女はレンの境遇を知らない。レンの胸中に渦巻いているものを知らないから、ただ戸惑う。

 馬車の中で【香蓮】は結論付けた。この世界のことを知らなければならないと。

 馬車の中で【香蓮】は結論付けた。頼みの綱はマルタだけだと。

 だから探っていた。奴隷商人がいなくなるだけでは不充分で、一緒に詰め込まれていた少女達とも別れてマルタと二人きりになる状況を。それをもたらすための方法を。

 そしてその瞬間は訪れた。マルタが劣情の歯牙にかけられるという唾棄すべき形で。

 彼女の気持ちを推し量れば、僅かにも喜んでしまった自分を殴り倒してしまいたくなる。けれど、待ちわびた思いは別にして、レンは嫌悪とともに声を張り上げた。

 恥を知れ。

 あのような言葉が出てくるとは。目的のためにマルタを利用するという思いとは相反して、単純に憤ったのかもしれない。いいえ、あの時、確かにレンは赦すことなどできなかったのだ。仕方のないことだと目を伏せて、看過することなど己の心が許さなかった。

 恥知らずだと男を罵り、予想していた通り、暴力を振るわれた。

 その後のことはよく憶えていない。殴られたことで脳が揺さぶられ、意識が朦朧としていた。ただ、自分の裡でどこか熱い感情が滾っていることだけは漠然と意識していた。

 気付けば独房の中でマルタと二人。手当てをさせて欲しいと商人に頼み込んでくれたのか、それとも商人の方から言い出したことなのか。それは分からない。

「でも……ありがとう。あの時のレンは、少しだけかっこよかったよ」

 告げられた言葉に頬を赤く染め、レンは俯いた。

 感謝されるのは、やっぱり不似合いだ。


 意識は覚醒したけれど、脳が揺れる感覚はまだ残っている。焦る必要はないと、レンは回復に専念した。寝そべるより壁に体を預けている方が楽だったので、そのようにした。

 レンが目覚めたことに安堵したのか、その後の会話でレンのことを不審に思ったのか、マルタは何も言わずに向かい側の壁に背中を預けた。

 会話はなく、レンは忍ぶようにマルタを見つめる。

 特徴的なのはやはり耳朶の形だ。人間とは異なる鋭角三角形の耳。彼女を亜人の子、精霊種として確立させる外見の要素。冷めるような金髪と黄金の双眸を、美しいと感じる。

 飢餓のためにマルタは骨張った体付きをしているが、育つべきところは育っている。成熟した大人の女性だ。それに比べてレンは明らかな幼児体型で、身長も香蓮の頃から随分と縮んで百四十センチほど。比喩ではなく、見える世界が変わってしまった。

(惨めだな)

 レンは頬を膨らませた。

 けれど、嬉しい変化もあったりする。夜空を落としたような香蓮の髪を嫌っていたわけではないが、輝いて見えるほどに透き通ったレンの赤髪はとても魅力的だった。

 そう、でも、この髪のこと。マルタとも、馬車に押し込められていた他の少女達とも異なったこの髪の色。【赤】という変異。

「ねえ。赤髪の精霊種って他にもいるの?」

 話しかけられたことでマルタは顔を上げた。レンの髪を凝視して、

「レンだけだよ。そんな風に、みんなと違った色をしているなんて」

 どこか自分の金髪を気に入っていないような声音で答えた。

「……そっか」

「嬉しそうだね。みんなと違う髪なんて嫌いだって、あんなに泣いていたのに」

「そうなの? もったいないな」

 自分のことなのに他人のことのような物言い。マルタにはレンが分からなくなってくる。

「……あのさ。ずっと不思議だったけど、今のレンはどこかおかしいよ? 自分の名前も分かっていないみたいだったし、髪のこととか、私の――こととか、憶えていないなんて。挙句の果てにはあの男に噛み付いたり……。昔、ううん、昨日までのレンならそんなこと絶対にしなかった。レンは臆病で、とても怖がりで、泣き虫で、私がいなかったら何もできなくて。それがレンなのに……まるで別人になったみたい」

(別人になったみたいどころか別人だなんて、言えないよね)

 私はこことは違う世界、地球と呼ばれる惑星の日本と呼ばれる国で生きていた『紅代香蓮』という名の人間で、昨晩にレンと入れ替わったのだと、明け透けに伝えたところで信じてもらえるとは思えない。そもそもこの世界が異世界の存在に寛容だとは限らない。奴隷生活に疲弊するあまり、精神がおかしくなったと見做されても仕方ないのだ。

 加えて察するに、レンが馬車の中で個別に扱われていたのは、精霊種の金髪金眼という普遍性に【赤い価値】が付随されたためだ。そこに異世界の人間であるという特異性を上乗せするのは、奴隷という境遇に於いて得策だとは思えない。

「私ね……記憶喪失みたいなの」

 それならば信じてもらえないとしてもそういうことにしよう。

「私は誰なのか。あなたは誰なのか。ここはどこなのか。この世界は何なのか。そういうの全部、忘れちゃったの」

「はぁ? またふざけてるとかじゃないのよね?」

「本当のことなの」

「そんなこと言って……あなた、いつも私をからかったじゃない」

(レンはおおかみ少年ならぬおおかみ少女だったか……。余計なことしやがって)

 心の中で罵倒して、僅かに浮足立った雰囲気を一転させてレンはマルタに詰め寄った。両腕を広げれば左右の壁に触れられるほどに小さな部屋、少し身を寄せるだけでレンとマルタの額は突き合わされた。相手の瞳に自分の顔が映るほどに詰め寄られ、マルタは息を呑む。

「信じて」

 レンは揺るがない。悪い冗談だと一蹴することができない。そんな風に目を逸らしてよいものではないと、マルタの内側で警鐘が打ち鳴らされる。

「お願い」

 重ねて懇願された。荒唐無稽な【嘘】を信じて欲しいと――

 マルタは瞳を揺らして、静かに背けると吐息を溢した。

「分かった。信じてあげる。だから……いい加減に離れて」

 恥じらったような声にどうしたのかなとレンは首を傾げ、白熱するあまりマルタに近付きすぎていたことに気付いた。マルタの腿の間に体を捻じ込み、体格差から自然と見上げるような形に。ふと、マルタの頬がうっすらと紅潮していることを認めた。

 意地悪な感情がレンの内でゆらりと芽吹いた。初心な女の子をからかってやりたくなるのは、香蓮が生きていた平和そのものの教室の中でも、レンが生きている凄絶な牢屋の中でも一緒のようで、きっとこれは女の子の遺伝子に組み込まれた本能なのだ。

「マルタ大好き!」

 離れてと懇願されたのに、レンは両腕を大きく広げるとマルタの胸に飛び込んだ。

「信じてくれてありがとう!」

「分かったから離れて!」

 それからしばらく、黄色い悲鳴は続いた。

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