凪
三津凛
第1話
この夏の美帆子を見たとき、義昭は急にどきどきとした。
すんなりと伸びた手足が眩しかった。背中の肉は薄いのに、肩や腰のあたりはほのかに丸みを帯びだしていた。そこに、なるべき「女」を見てしまったのかもしれない。義昭はそうっと伸びをして、ごくんと唾を飲み込んだ。
本当はお盆に田舎なんか帰りたくたはなかった。父と母に不承不承ついてきただけだ。だがその考えを義昭は美帆子を見た途端すぐに引っ込めた。
80を超えて大分ボケのまわった祖母にすら感謝したい気分だった。この祖母のためにわざわざ両親が帰省したのだから。
美帆子は幾分狂った年代物のピアノを弾いている。籐椅子に脚を伸ばした祖母はその傍で船を漕いでいる。
「なんて曲?」
「ベートーヴェン」
曲名ではなく、作曲家が返ってきて義昭は閉口した。美帆子は終始素っ気ない。動かない唇の代わりに、指だけは流暢に動く。
音楽のできる女ってのはどうしてこうも綺麗に見えるのだろう。義昭はまるで我がことのように誇らしく思った。
美帆子は父の妹の子どもだ。義昭とは従姉妹ということになるけれど、そうあまり交流のない一族だ。従姉妹という生々しい血縁を感じるよりも、むしろ少し歳上の女の子を眺めているような心地だった。いつも何かに不満そうで、唇を尖らせるのが癖なのか無愛想な顔をしていた。
「……ベートーヴェンってさあ、運命とかの、あれだろ。なんかお前の弾くやつってなよっちいな」
義昭は黙ったままの美帆子の気を引きたくて、ありったけの知識を引きずり出してそれだけ言った。すん、と鼻水も出ないのに鼻を啜りあげて義昭は微妙な間をやり過ごす。
美帆子は手元を眺めながら、「まぁ、そうだね」とだけ言った。そのあまりのそっけなさに義昭は露骨に機嫌を悪くした。ピアノの音は続いている。なんだか、さっきから同じメロディばかりを繰り返しているような気がする。それが、1日に何度も何度も同じことを繰り返し話しかけてくる祖母と重なって、義昭は心底嫌になってしまった。それでも離れられないのは、やっぱり美帆子のことが好きだからだ。
美帆子はぼんやりと繰り返し繰り返し、同じ旋律を弾いた。いつまでも離れる気配のない義昭に、段々と苛々してくる。祖母の首筋は太っていた頃の名残で伸びきった皮フが幾重にも皺になってたたまれている。そこに垢がたまって、近寄るとぷうんと臭う。それが時折、鼻先にかすめる。そういうものに感じる嫌悪感を、美帆子は義昭に感じた。
急に大人びた喉仏や、筋の目立つ腕とは対照的にまだ幼さの残る頬骨や目元のあたりに色の違う皮フを移植した顔を眺めてしまったような気色の悪さを抱くのだ。義昭の無遠慮な視線が、夏休みに入る前に告白してきた男子とそっくりでそれが余計に美帆子を苛立たせた。
祖母はまだ寝ている。今日は比較的大人しくて、家の中も穏やかだった。母は祖母の言うことに一々神経を尖らせている。それは病的なほどで、その度に父も叔父も叔母も息を詰めるのがわかった。
美帆子ははっきりしていた時の祖母よりも、ボケて丸くなった祖母の方が好きにられそうな気がした。でもそれを表に出すのが憚られて、黙っている。母は「ばあちゃんはなんも覚えとらん」と愚痴るが、そんなことはなかった。時折蘇る祖母の過去は思いの外鮮明だ。
今朝は穏やかで混濁も少ないようだった。そしてぽつりと「みーちゃんはピアノが上手だから」と言った。美帆子はそれからなんとなくピアノを弾いた。祖母はつられるように籐椅子に座り、そして寝た。
いい加減飽きて指を止めると、義昭がこちらを見ていた。美帆子は眉をしかめて立ち上がる。ピアノの蓋を閉めるのも忘れて、振り返らずに昔母が使っていた部屋に引っ込んだ。
男を感じる義昭の視線が、たまらなく嫌だった。
義昭は祖母と取り残されて、まだ美帆子の熱が残るピアノ椅子に腰かけた。薄っすらと手垢の色がついた白鍵になんとなく指をかけて音を出す。
ぽーん。
途端に気の抜けるような音がして、義昭は舌打ちをした。美帆子の明らかに自分を厭う態度に義昭は少し傷ついていた。距離の詰め方が分からずに苛々とした。ピアノの蓋を閉めて、年代物のソファに倒れこんだところで視線を感じた。起き上がると祖母が目を覚まして、こちらを見ている。
「……ばあちゃん、起きたんか」
祖母は無言のまま、冷えた目を向けている。混濁は少ないようだった。何かを探すような視線に、義昭は身構えた。祖母は細い身体を起こして、まるで亡霊のように部屋中をうろうろとし始めた。義昭はうんざりとしてその様をただ眺めた。
祖母がようやく止まったのは、もう使っていない黒電話の前でだった。祖母はしばらく何か深刻なことを考えている風情だった。半分溶けかかっている脳みそでも悩むことはあるのかと義昭は思った。
祖母はじっと電話を睨んだ後で、繋がっているはずのない受話器を持ち上げて思わぬことを流暢に話し始めた。声色には不思議な若々しささえあって、義昭は思わず身を乗り出した。
「代理母なぁ、あたしはどうかと思ったけど……あんたらが決めたんやったらいいやろ。昔は血の繋がらん子どもと親は何かと不幸の種やったけども、今の若い人はそうでもないのかもしれん。アメリカまで行ったのやから、ひとつやってみなさいとしか、あたしは言えんわ」
義昭は直感的に祖母が過去のある場面を再現していることに気がついた。
干し草のようにぱさついた祖母の髪が、艶のある黒髪に変わって肌に水分が戻ってくるようだった。まだ若かりし祖母の姿が、繋がらない黒電話を通して蘇るようだ。義昭は聞き耳を立てながら、必死に祖母の繰り返す一場面を類推した。
「……名前は義昭かね、足利幕府の将軍みたいな名前やなぁ、ご大層な……でも分からんなぁ、卵子も精子も他人様のものを使って自分らの子になるのやろ」
そこで義昭はどくんと血管が跳ねた。今までの断片的な祖母の言葉がいっぺんに鋭くなって自分へと突き刺さってきた。思わず立ち上がって祖母へと詰め寄った。
「ばあちゃん、どういうことだよ、代理母ってアメリカって……。親父は親父じゃないのかよ、おい」
祖母は義昭が肩を掴むと、途端に過去を消したようだった。濁った目を向けて受話器を取り落す。まるで首吊りをした人のように重い受話器の頭がぶらぶら揺れる。義昭はなおも祖母に詰め寄ろうとしたが、諦めた。祖母が泣き出してしまったからだ。
美帆子が部屋から出てきて、攻めるような目で義昭を見た。
「……急に泣き出したんだよ」
「ふうん。まぁ、不安定だからね……ばあちゃん」
美帆子はあまりそれを信用した風ではなかった。義昭は怒りと戸惑いの行き場を持て余した。祖母の言っていたことが、なぜかたわ言だと片付けられない。祖母を宥める美帆子をまるで他人のように義昭は眺めた。
確かに両親は義昭をアメリカで産んだと言っていた。父である知之の仕事の都合上そうなったと言っていた。そのことに疑いを持ったことは一度もなかった。信じるなら、両親の言うことを信じるべきなのだ。それなのに、あの祖母の言葉が妙に刺さる。そしてそれこそを信じてしまう。
義昭は急に自分が何かの破片になってしまったように感じた。もしも祖母の言うことがほんとうにだったなら、ここに血の繋がりのある人間はいないのだ。
美帆子は急に萎んだ義昭を不思議な思いで眺めていた。
朋子さんが帰省してきたのは、その日の夕方だった。美帆子はどきんとして三和土の上に立った。朋子さんは美帆子の母の5つ離れた姉だ。それなのに母よりも幾分若々しい。それはまだ朋子さんが独身であることと無縁ではないと美帆子は思っている。
「……朋子さん、予定より遅くなったのね」
美帆子は日焼けした朋子さんから荷物を受け取りながら言う。
「新幹線の指定席が取れなかったからさぁ」
どこか砂漠のような香りが朋子さんからした。美帆子は母とあまり似ていない叔母をどきどきして眺めた。
「ねぇ、部屋に行ってもいい?」
「え?いいけど、そんなあんたが面白がるものなんてないよ」
朋子さんは不思議そうな顔をした。
短く切られた猫のような癖っ毛が無性に美帆子は愛おしくなった。遠目から見ると痩せっぽちの少年が立っているようにも見えてくる。どんな男の子にも夢中にはならなかったのに、朋子さんだけは気になって仕方がない。美帆子は上目遣いで朋子さんを見た。
「なんかあんたも大人になったね」
朋子さんは少し冷めたように見下ろして、雑に美帆子の頭を撫でた。
「朋子さんは歳取らんね」
「まぁ、可愛いこと言っちゃって」
言葉とは裏腹に朋子さんは棒読みに言った。美帆子はなんとか朋子さんの気を引きたくて今更思いついたように呟いた。
「……あのね、義昭が私のこと好きみたい」
「え?」
朋子さんはそこで初めてまともに美帆子を見た。いつも飄々としている朋子さんがあからさまに驚いた様子が嬉しくて、美帆子は腕を絡めながら囁く。
「なんか、2人きりになると嫌な感じ」
「考えすぎじゃないの?」
少し不快そうに朋子さんは顔をしかめる。
「だって……」
朋子さんは美帆子を連れたまま2階へ上がる。
人を好きになる気持ちは、一度食いついたら離さない蝮にどこか似ている。朋子さんは疲れたように糊のきいたシーツの広がるベッドに座り込んだ。美帆子はぴったりと横について、ごく自然に身体を朋子さんに預けた。そのまま倒れて、頭を朋子さんの太腿に乗せる。朋子さんは上から美帆子を見下ろした。
「まぁ、なにもないだろうけど気をつけなよ」
朋子さんは困ったように笑った。
「……だって、私は朋子さんのことが好きだもの。なにもないわ」
美帆子は目を逸らさずに言った。
朋子さんは黙ったまま、落ちない陽に視線を移した。
美帆子はしばらく朋子さんの動かない瞳と、細い顎を見ていた。でももどかしくて、つい沈黙を破ってしまう。
「……朋子さんは?私のことどう思う?」
「どうって……」
美帆子は薄々朋子さんが異性に魅力を感じないタチなのではないかと思っていた。
「朋子さんって、男の人のこと好き?」
「え?急に何言ってるの?」
「逸らさないで、男の人と付き合ったことある?」
「馬鹿、それくらいあるよ」
朋子さんは硬く笑った。
嘘つき。
美帆子は唇を尖らせる。
「今付き合ってる人はいるの?」
「いないけど」
「私はどう?」
「何言ってるのよ、あんたは姪でしょ」
「じゃあ姪じゃなかったら、考えてくれるの?」
美帆子は食い下がった。朋子さんは不意に笑った。
「なに真剣になってるのよ、嫌なことでもあったの?」
朋子さんは親戚の叔母さんに徹することにしたようだ。美帆子は苛々として起き上がった。
どこか幼さの残る綺麗な瞳がたまらなく愛おしくなって、身体の奥が熱くなった。
薄い肩を掴んで美帆子は朋子さんに顔を寄せた。
「なにしてるの」
朋子さんは咄嗟に避けて、冷たい声を出して美帆子を押し退けた。
「朋子さんが悪いんじゃない、こんな気持ちになったのなんて初めてなのに」
美帆子は泣いた。
朋子さんは怒ったように荷物を解き始めた。
それからずっと2人は無言だった。
義昭は隣り合った美帆子と朋子さんが、妙に青い顔をしていることが気になった。義昭は男っぽい父の姉が少し苦手だった。
父の知之は久し振りに会えた姉にやたらと話しかける。朋子さんはどこか上の空で、半分迷惑そうだった。
「それで、姉さんは結婚はしないのか」
朋子さんは笑って首を振った。
「縁がないもの、まだまだ遊んでたいしね」
美帆子は不機嫌に味噌汁をすすっている。
「遊ぶって……」
「ふふ、男遊びはもうしないわよ」
朋子さんは知之をさらりと受け流す。義昭はそのやり取りを黙って見ながら、美帆子を盗み見た。ふと視線を感じて目を上げると、朋子さんと視線がぶつかった。義昭は目を逸らして、黙々と夕飯を食べることに集中した。
ふと父の知之を見ると、祖母の言葉が蘇った。呆けた祖母は箸の使い方もおぼつかない。母が一口ずつ食べさせて、満足そうな顔をしている。無数に折り畳まれた皺の向こうに、まだ若かりし頃の祖母の苦悩を見ようとした。
祖母はあの日の出来事なんて、まるで忘れて夕飯を食べさせてもらっている。義昭は黙ったまま、皿を流しにつけて1人縁側に座り込んだ。
無造作に星屑をぶちまけたような星空が広がっていた。なんとなくその一つ一つを数えながら、祖母の言葉を思い出す。
「代理母なぁ、あたしはどうかと思ったけど……あんたらが決めたんやったらいいやろ。昔は血の繋がらん子どもと親は何かと不幸の種やったけども、今の若い人はそうでもないのかもしれん。アメリカまで行ったのやから、ひとつやってみなさいとしか、あたしは言えんわ」
もしそれが本当なら、自分は一体どこの誰の子どもなのだろう。だが知之と母は間違いなく義昭の両親なのだ。義昭は諦めて縁側に寝転がった。ささくれた木の床が汗ばんだ頰に沁みた。
その日の夜は、みんなで墓参りに行った。昼間の強烈な暑さもなりを潜めて、むしろ清々しい気分になる。義昭は美帆子の隣を歩いた。美帆子は祖母の手を引いて静かに歩く。義昭は何か話せないかとそればかり考えて歩いていた。その後ろを少し離れて朋子さんが2人の距離を測るようにそれを見ている。親たちはお喋りに夢中で、思春期の微妙な距離には鈍感だった。祖母は大人しく手を引かれている。
「ばあちゃん、元気だな」
「うん」
美帆子も頷く。
義昭はそれだけ言って、畦道の向こう側に目をやった。田舎の夜道は寂しいほど何も見えない。それが自分の未来までも視覚化したようで、義昭は恐ろしくなった。
「……たまに、ばあちゃん変なこと言ってるでしょ」
「え?」
不意に美帆子の方から話しかけてきた。
義昭の胸に、あの日祖母の言っていたことが瞬時に蘇る。美帆子もあの話しを聞いたのだろうか。
「まあ、あることはあるけど、でもボケるってそういうもんだろ?」
「まあね」
美帆子は妙に真剣になって考え込んでいる。
「みんな、ばあちゃんは色んなことを忘れていくって哀しむけど、私はそんなことないと思う。むしろ、ばあちゃんは一番大切だった過去の中をずうっと生き続けているだけなんじゃないかって思うの」
義昭は美帆子の言葉と、祖母のあの日の言葉を頭の中に並べた。理屈は分からなくはない。だがその過去は義昭にとってはまだ飲み込めないものだった。
「お前、ばあちゃん好きなんだな」
義昭はそれだけ言って、不機嫌に早歩きをした。美帆子は何かいいかけたが、義昭にそれは届かなかった。
もしかしてあんたも、なにか変なこと聞いたりした?それって、なんだった?
結局、言葉は美帆子の喉から出ることはなくそれは蒸し暑い虚空の中に、ため息として消えた。祖母はまるで手を引く美帆子の姿なんて知らないように大人しい。それがどこか不気味で、なにも見えない畦道の向こう側の景色と溶け合って半分死人になった人を連れて歩いているような錯覚を美帆子は憶えた。
いつの間にか朋子さんが隣を歩いていた。義昭は何を怒ったのか、ずんずんと先をゆく。
不意に祖母が歌い出す。それは随分と古い歌のようで、美帆子も朋子さんも知らないものだった。
「ばあちゃんは若返ったみたいやわ」
朋子さんが笑って言う。美帆子は汗ばんだ横顔を盗み見て、ぐっと唾を飲み込んだ。
夜中にトイレに起きると、祖母がもう使っていない黒電話を持ってなにかを話していた。美帆子は興味本位でそれを聞いてしまったのだ。相手はまだ若い頃の朋子さんだったのか、祖母は潰れそうな顔色をしていた。何か深刻な告白だろうことは容易に想像できた。
回らない舌の不明瞭な音に混じって、意味のある言葉が立ち昇る。
「……そらあ、浮いた話しはないと思ってたけどもね……あんたが、朋ちゃんがそうとは知らなんだ。その、なんて言うの………そう、レスビヤンて言うのか」
美帆子はしばらくそれを聞いた後で、祖母の肩を叩いて寝かせた。祖母の過去はすぐに消えてしまったようだ。美帆子は眠れなかった。
やっぱり、と思いつつも不思議とショックを受けていた。
祖母の言葉を、老人のたわ言と片付けられないこともショックだった。普段はみんなから笑われる祖母の言動が、まるで家族の間にできる微細な陰すらも隈なく眺めてきた年代物の埃のように思えてくる。美帆子にはそれが怖かった。
「ねぇ、朋子さんはばあちゃんに変なこと言われたことある?」
「そりゃあ、たくさんあるよ」
朋子さんは笑って言う。
「昔のこととかも?」
「え?うん」
朋子さんは微妙な顔をする。
「なに?何か聞いたの?」
美帆子は返事をしなかった。
朋子さんはしばらく何かを探るような目つきをして、美帆子を見ていた。でもすぐに諦めたようだった。
美帆子にはそれが哀しかった。
本当はしつこく何を聞いてしまったのか、祖母にとっての一番大事な繰り返される過去のことを聞き出して欲しかった。
帰省も終わりを迎える頃に、祖母を施設へ預ける話しが出た。義昭はそうなるとこうして父、知之兄妹たちは一度に集まることもしなくなるのではないかと思った。美帆子に会う機会も限られそうだと、それだけが気がかりだった。
朋子さんもまたどこかの国へ行って、しばらく帰ってこないようだった。何につけてもこの兄妹はあまりウエットな付き合いをしない。
美帆子はまたピアノを弾いている。祖母は夏バテなのか、朝からずっと寝っぱなしだった。義昭は何となく美帆子に近寄りがたいものを感じた。
かつて父が使っていた部屋の襖を薄く開けて寝っ転がりながら隙間から、美帆子の背中を覗いていた。昭和の時代で止まったままの少年誌に囲まれて、埃とも黴ともつかない匂いに包まれる。美帆子の肉の薄くて広い背中を見ながら、「俺はこの子が好きだ」と改めて思った。
墓参りの時の美帆子は変だった。祖母に何か言われたのは間違いないだろうが、美帆子はそれから何も聞いてこない。もうあまり先のない、この先会うこともあまりなくなるかもしれない祖母の言動が、どうしてここまで重くのしかかるのか義昭には分からない。父の積み残した昭和の少年誌の黴臭い表紙をめくりながら、それは確かにあった過去の堆積だからではないかとぼんやり思った。その過去と義昭は、一番大切な血というところで断絶しているかもしれないのだ。
確かにあまり両親には似ていない。そう考えだすといてもたっても居られなかった。義昭が立ち上がろうとした時に、美帆子の背中が動いた。誰かと話している。
朋子さんだということがすぐ分かる。義昭はそっと襖に耳をつけて、2人の様子を探った。
不明瞭なやり取りが続くばかりでちっとも聞こえない。義昭は苛々としてきて、思い切って覗き込んで2人を見た。
朋子さんが身体を傾けて、美帆子の唇に吸いついていた。美帆子は指を鍵盤にかけたまま、それを待っていたように受け止める。
2人はどれくらいそうしていただろう。子どものくせに、大人のキス、と義昭は思った。
「……私ね、大学は海外の所にしようと思ってるの。親も反対してないし……朋子さんもアメリカの大学に行ったんでしょ、私もそこを受けるわ」
朋子さんは何も言わなかった。ただ、微笑んでいるだけだった。美帆子が飛び込むように抱きついて、朋子さんの手があの薄くて広い背中を覆った。
義昭は我慢できずに飛び退いて、そのまま縁側を降りると何も考えず走り出した。
昼間の埃っぽい畦道を駆けていると、聞き覚えのある声に止められた。
父だった。
義昭はそこで足を止めた自分を不思議に思った。
「なに走ってるんだ。部活の練習か?」
「そんなところ……。父さんは何を?」
「ちょっと気分転換に釣りみたいな」
知之は歯を見せて笑う。この何も、知らないような、隠していることのないような顔。
義昭は眩しげに知之を見上げる。
ボケた祖母の言葉が自然と蘇った。
だが知之はどうあっても自分の父親なのだ。義昭は隣で魚釣りをする父親を見てそう思った。血は繋がっていないにしても、生まれた時から父親はこの人1人しかいなかった。そして、母親だって1人しかいなかった。それでもどこかに自分を形にしてくれた母胎もあるのだ。
義昭はぐるぐると考えながら、知之の隣に立った。
義昭の恋はあっけなく終わった。美帆子と朋子さんがどうなるかは分からない。美帆子は本当にアメリカに行ってしまうだろうと思った。義昭にも、祖母にも、両親にすらなんの未練もなく。ただ、朋子さんの足跡を追っていくのだ。
誰かの過去は、そんな風に今を生きている人を駆り立ててしまうものかもしれなかった。義昭は自分に連なる過去を父に聞いてしまおうかと窺った。
知之が何かに気づいている様子はない。
色んな当たり前が僅かな間に崩れていった。
父は父にあらず、母は母にあらず……女は男に恋するにあらず。
はあ、と息を吐く。
知之が目をあげて、「もうへばったか」と笑った。
義昭は黙って沈む釣竿の先を眺めた。美帆子のことを思い出すと、胸が疼いた。泣きたいような、むせたくなるような疼きだ。
今頃あの2人は何をしているのだろう。
義昭はそればかりを考えながら、父と肩を並べていた。
今の義昭には自分の過去よりも、美帆子がどうなるのかが大きかった。
水面は鏡のようで、何か釣れる気配は微塵もなかった。
凪 三津凛 @mitsurin12
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