第20話




「リア、僕と勝負をしないか?」


 もう話すこともない。

 椅子から立ち上がろうとしたその時だった。エレミヤはどこからか取り出したチェス盤を、おもむろにテーブルの上に置いた。

「勝負って?」

「ブリッツだよ」

「ブリッツ?」

「早指しチェスのことさ。持ち時間は……そうだな。10分でいいか」

 私の返事を聞くより早く、チェス盤を準備し終えたエレミヤは、黒陣営をこちらに向けるようにボードを回した。

「10分、って……悪いけど、そんなに持たないと思うよ。私すごい弱いから」

「まあまあ、そう言わずにさ。あ、じゃあこういうのはどうだい? 勝ったほうはなんでも1つ質問できて、負けた方は絶対に本当のことを答える、っていうのは」

「……あなたはそんなことしなくても、私にいつも何でも質問してるでしょ?」

「あはは。それを言われると痛いな」

 彼はいつものごとく微笑みを浮かべ、一台に二つの時計がついた、アナログ式の対局時計をテーブルに乗せた。こんなものまであるなんて、結構手が込んでいる。近くに人家も娯楽もないこの場所で、彼は幾度もこうしてチェスをして、時間を潰していたのかもしれない。ともすれば永遠にも思われてくる、雪と氷に埋もれた静寂の時間を。

「先手は僕だね。さあ、どう返す?」

 エレミヤの一手目を見て、適当に脳を回転させながら、駒を持つ。

「私が勝ったら、本当になんでも答えてくれる?」

「ああ。神に誓って約束する。でも僕、自分で言うのもなんだけど、結構強いよ」

 カツン、カツン、と規則的に、駒が盤を叩く軽やかな音が響く。二人とも長考はしなかった。もっとも私の場合、一手一手動かすごとに、盤面が見たこともない形に変わり、指が新しい駒を持った次の瞬間には、また違う駒を掴んでいる。瞬きの合間に、デジャブのような光景が見えた。


 暗い部屋。揺れる二本の蝋燭の灯。

 チェス盤の向こうから現れた手が、こちらのキングを倒して笑う。

『チェックメイト。また俺の勝ちだ』————


「ダークトライアド、という用語がある」

 曖昧に問いかけるようなその声に、はっとして目を上げる。エレミヤは視線を盤面に向けたまま、独り言のように、思考の整理をするための呟きのように、言葉を紡いだ。頬杖をついて、駒の端っこをコツ、コツ、とテーブルにぶつけて鳴らしている。

「えっと……なに?」


 目を開けているのが、なぜか急に辛く感じた。


 まぶたは鉛のように重く、全身が怠さに襲われる。意識は電波状態の悪いテレビのように、ブツ、ブツ、と頻繁に途切れる。不快感が込み上げ、対局時計の発条の音に紛れて、頭の奥から耳鳴りに似た音が聞こえてくる。かろうじて彼の声は耳に届いていたが、その意味は半分もわからない。

「ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパシー。成功者になりやすい悪人の特徴とされる三要素。君のことを聞いた時、少し期待を持ったんだ。僕とならもっと上手くやれるんじゃないか、ってね……。でも蓋を開けてみれば、君は結局、何もしなかった。エドの方は頑張っていたみたいだけれど、まあ彼は、噂通りの子だったよ」

「エレミヤ……私、」

「君たちがこうなってしまう前に会いたかった。子飼いの梟はともかく、リア、君にはもっと違う道があった。本当の君はもっと——」

 かたんっ。

 気がつけば私の手が、彼の言葉を遮るように、時計のボタンを強く押している。俯いて髪に隠した自分の顔に、汗が滲んでいるのがわかる。

「……」

 息をなんとか吸い込みながら、顔を上げ、盤面を確認して、言う。

「……チェックメイト」

 エレミヤはほんの少し虚を突かれた顔になって首をひねったが、やがて脱力したように椅子に深くもたれると、ひゅう、と一つ口笛を吹いた。

「聞いちゃいたけど、やっぱり強いな。そんな状態でよくもまあ頭が回るもんだ。普通の子供じゃあこうはいかない。素晴らしいよ、完敗だ」

 まばらな拍手をされたものの、私は痛みに耐えきれなくなってテーブルに伏した。脳内で何億ものスパークが起きたかのように、目の前がチカチカする。何か植物のような香りが鼻をつく。

「これで一勝一敗だね、リア。もう時間切れだ」

「エレ、ミヤ……」

「君ならもしかしたら、案外あっさり見つけてしまうかとも思ったんだけどね。でもまあ、約束は約束だ。そろそろ行こう」

「行く、って、どこへ……?」

 薄れていく意識の中で、青と白の服が目に入る。たくさんの冷たい手に両腕を掴まれて、振り払おうとするが、頭がたまらなく重く痛く、四肢を動かすことさえ響いて辛い。それでもなんとかもがくと、肘にチェス盤が当たってひっくり返り、床の上に駒がぶちまけられた。それと同時に、看護師の一人に服の袖をまくられて、何か打たれる。ちくりとした痛み。引いていく体温。


 対局時計の旗が落ちて、学校に行く日の朝のようにベルが鳴った。


 けれど私は目覚めなかった。反対に深く深く、どこか深い闇の底へと落ちていくのを感じながら、目を閉じた。抵抗することはできなかった。何もかもあまりに重たすぎて、浮かび上がるのは無理だった。


「どこへと言えば、それは、君の望んだ通りの場所さ」


 嬉しそうに、でもどこか悲しそうに、エレミヤは沈みゆく私の意識に向かって語りかけた。その声が、性懲りも無くユウに重なる。けれど水面を仰いでも、彼は決して救いの手を差し伸べはしない。ただ私をじっと見て、淡々と言うだけだった。

「限りなく静かで、誰も来ることのない、この世のどこより安らかな場所にね」

 

 

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7.箱庭アースガルド 名取 @sweepblack3

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