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鬱蒼とした森を抜けると、窓の外に楽園が見えた。
恐ろしいまでの快晴だった。雲ひとつなく、青々として澄み渡った空。きりっとさせる純粋な寒さと、小春日和というにふさわしい陽気とが合間って、とても心地よい。冬場になるとときどき痛み出すことがある手術の傷も、今日は全く平穏だった。それもこれも、この場所——『鹿野学園』の放つ空気のおかげかもしれない。
「今日は本当に良いお天気ですね」
ハイヤーの運転手が朗らかに声をかけてくる。バックミラー越しに微笑みで返すと、老齢の彼はハンドルを切りながら話を続けた。
「不思議なもんでしてね。この辺りは、いつでも穏やかなんですよ。昔は結構うるさくて、わりによく事故やら事件やら、起こっていたんですけどね。場所的に荒れやすいところだったとでも言うんでしょうか。でも今は静かなものです。散歩してる子供の笑い声が聞こえてくることさえありますよ」
「いい町ですね」
「ええ。本当に」
柵で仕切られた学園の入り口に、ハイヤーが停車する。頭上にある監視カメラに向けて、窓を開けて顔を見せると、錠が解除される電子音が鳴る。再びエンジンが唸り、開いた門の内側へ、黒い車が入っていく。
「お待ちしておりました。本日はようこそお越しくださいました」
建物の前で降車した私を出迎えてくれたのは、箱庭の若き支配者だった。シックなロングワンピースに、長い黒髪をしっかりと後ろで一本にまとめている。品の良い微笑を口元に浮かべ、会釈をする。その様は、古き時代の貴族の令嬢を思わせた。
「久しぶりだね、
「はい。またお会いできて光栄ですわ、マクドゥーガル先生」
こちらへどうぞ、と彼女は学園の扉を開ける。私も彼女に続き、建物に足を踏み入れる。ここを訪れるのは五年ぶりだった。けれど外観も内観も、初めの頃からまるで何も変わっていない。ここだけ時が止まっているか、あるいは、時の流れ方が外界とは違っているかのようだ。
「あ! 法子校長先生だ!」
掃除の行き届いたタイルの廊下を歩いていると、二人組の8歳くらいの子供が、冴木の後ろ姿を見つけて駆け寄ってきた。ワンピースの裾を翻し、「あらあら」と困り顔で彼らを受け止める。
「ねえ校長先生、次はいつお歌教えてくれる?」
「家で歌ったらね、お父さんもお母さんも、すっごく褒めてくれたんだよー!」
きゃっきゃっとそんな報告をした子供達は、ふと私の存在に気づき、びくりと肩を震わせた。今日の私の出で立ちはツイードの背広に帽子という、見るからに外国人という風だったし、背も普通の日本人よりだいぶ高いので、どうやら気圧されてしまったらしい。私は出来るだけ砕けた微笑みをつくって話しかけた。
「やあ、こんにちは。ここの生徒さん、かな?」
「……はい。こんにちは、おじさん」
「こんにちは。今日は、少し君たちの学校を見学させてもらいにきたんだ。息子のために。実は彼、しばらく学校に行けてなくてね」
私がそう言うと、彼らは冴木の陰に身を半分隠したまま、顔を見合わせた。そして、おずおずと、だがはっきりとした声で言う。
「ねえ、あのね。あまり、その子を怒らないであげて」
「え?」
「私からもお願い。学校に行けなくても、本当は頑張りたいって、そう思ってると思うの」
「あ、ああ……」
意外な言葉にあっけにとられていると、冴木が二人の方を向き、軽くかがんで、そっと頭を撫でた。
「二人ともありがとう。校長先生はこれから、この人に学園を案内してくるわ。また今度遊びましょうね」
「はぁい」
二人は素直に返事をすると、「あっちで遊ぼう?」と言い合いながら廊下を歩いていった。彼らの姿が見えなくなったあとで、私は帽子を脱ぎ、そっと息を吐く。
「さすがにあなたの教え子だ。天使のように無垢で優しい」
「ええ。素材の手入れもろくにしない、どこぞの孤児院とは違いますから」
彼女の言葉は誇らしげだったが、同時に冷たい響きがあった。『ヴィクティマエ』の失態が、管理人達の間で有名になっていることは僕も知っていた。その名が不名誉と狂信の象徴として、侮蔑を以って口にされるのを、以前にも何度か耳にしたことがある。確かにあの事件の時は、私もかなり肝を冷やしたし、今思い返しても、首の後ろや背中に冷たい汗が滲む。
すんでのところで、全部台無しになるところだった。
ようやく光明が見えてきたというのに、こんなところで水泡に返される訳にはいかない。本当はこんな苦労をかけて秘匿する必要も、そもそもないのだが、今はまだ仕方がない。昔から人間という生き物は、出過ぎた杭はなんであれ打ちたがる。それが自分たちに信じがたい恩恵をもたらす、奇跡の源であったとしても。
校長室、と書かれたプレートの飾ってある部屋に、冴木は私を案内した。質素ながらも整然とした室内には、生花と紅茶の香りが漂っている。促されるままソファに着くと、数冊の厚いファイルがテーブルに載せられる。
「こちらが、報告書になります。今、お茶をお持ちしますわ」
「ありがとう」
一番日付の古いファイルを手に取り、最初のページから順にめくって読む。無数の顔写真に、経過報告書。回数を経るごとに手法が改良され、そのたびに理論が枝分かれし、錯綜し、混乱を極めていくのがわかる。何度もうまく行きかけて、しかし、寸前で破綻する。Failed、Failed、Failed。ファイルを読めども読めども、その繰り返しばかりだった。
「ここからそう遠くない、『高天原』の前任者は一年で見つけたんだよ」
読み終えた一冊めのファイルを置きながら、私は思わず苦笑した。ハーブティーのカップを運んできた冴木が、微笑みながらも、ほんの少し顔を強張らせる。
「優秀な男だったとはいえ、ほとんど一人で、難なく見つけることができた。それなのに君たちときたら、五年もかけて、しかもこんなに職員がいるっていうのに、誰一人見つけられないって、そう言いたいのかい? 都心にも近いし、資金だってどこより多く出してる。素材はいくらでも見つかるだろうに」
「存じております。ご期待に添えず申し訳ありません。ですが、しかし……」
女校長は腕を前で組み、窓のそばへ歩いていく。子供達のはしゃぐ声のする、中庭の方に目を向ける。
「誰も、うまく『定着』しないんです。技術的にも最善は尽くしているんですよ、良さそうな子だっていっぱい来ます。この子ならひょっとしたら、という素質を感じさせる、孤独ながらも非凡な子たち。でも……最後の段階がいつもうまくいかないんです。我が強い、とでもいうのかしら。子供達、口では色々とたいそうなことも言いますけれど、結局誰も、自分が可愛いんです。所詮人には……特にまだ幼い子供には、自らの命を賭してまで、誰か他人を想うことは難しすぎるのかもしれませんね。忌々しいことですけれど」
「僕はそんな言い訳を聞きに、わざわざ海を越えてやってきたわけじゃない」
ハーブティーのカップを手に取り、一口すすった。黄金色の水面が揺らぎ、レモングラスとミントの香りが鼻腔をくすぐる。
「自然に定着しないなら、多少強引にでもやる他ないだろう」
「ですが、」
「無理にやったって、壊れはしない。仮に壊れたところで、大した損失にもなりはしないさ。どうせ、ここへたどり着いた時点で皆、多かれ少なかれ壊れているようなものだ」
「はあ。ええ、もちろんそうでしょうとも、マクドゥーガル先生。でも……」
彼女の声は少しひそやかになる。
「無礼を承知でお尋ねしますが、私には、やはりどうしてもわからないのです。これ以上、進める必要がありますか? 素材に情が湧いた訳では決してありません。が、もう十分すぎるほど、成果は出ていますでしょう? 今できている分だけでも、十分ビジネスになりますわ。本来求めていたものではなくても、その過程で見つけた副産物の方が素晴らしいものだった、という例ならいくらでも……」
副産物。その言葉に、私は苦笑する。
「まあ、せっかく高い飛行機代をかけてきたんだ。一度、やってみせておくれ。ここのやり方をじかに見ておくのも悪くない」
「そう、ですか……わかりました。そう仰るのなら異論などございません。ちょうど下準備が終わったばかりの、12歳の少女が二人います。全工程が終わるまで少し時間がかかりますが、最後までご覧になっていかれます?」
「もちろん。僕はそのために来たんだから」
「でしたら全力を尽くしてご覧に入れましょう。でも、正直に申し上げて私には、『高天原』より上手くできる自信はないんです」
冴木はため息をつきながら、鍵を外し、窓を開けた。中庭の新鮮な風が、白いカーテンを揺らし、室内にふわりと流れ込んでくる。程よい冷気と陽の暖かさ。
「私ごときでは、あれほどの天才の所業には、きっと遠く及ばないでしょう」
「いくら天才と言っても、ああなってしまえば凡人以下だ。その点、君は自分をちゃんと制御できているし、能力も極めて高い。卑屈になる必要はどこにもないよ」
「ええ。でもそれも、類稀なる才能の成れの果てと思えば、羨ましくもありますわ」
奈津美。
よく通る美しい声で、女校長は中庭に向かって呼びかけた。花壇にしゃがみこんで土いじりをしていた少女達が、立ち上がり、こちらを向いた。
「二人とも、こっちへいらっしゃい。少しお話があるの」
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