第19話
「いつになったらここを出られるの?」
午後三時のカウンセリングで、私はエレミヤにそう尋ねた。話すこともなかったので、ただそう聞いてみただけのつもりだった。朝食をとってから、ずっと自分の部屋で眠っていて、少し頭がぼんやりとしていたせいもある。
「おや……」
カルテに目を落としていた彼は、軽く椅子から身を乗り出し、困ったような微笑をたたえて首を傾げた。
「何か、至らないところがあったかな。僕たちスタッフは、君たちが出来るだけ快適に過ごせるよう、最大限の努力をしているつもりなんだけれどね」
「ここの待遇が気に入らない、ってわけじゃないの」
「でも君には、帰るところもないだろう? 仮にここを出たとして、行きたい場所でもあるのかい」
「そんな場所はないけれど。でも叶うなら、一人で……どこか誰も私を知らないようなところで、静かに暮らせれば、それが一番いいなって思う」
エレミヤは痛ましいものを見るような目になる。
「リア、君は何か思い違いをしているらしいね? ここでは誰も、君のことを迷惑だなんて思っていないよ」
その言葉と笑顔に、なぜか心がざわめくような感じがした。胸がぎゅっと苦しくなる。その違和感を、息を吐いてやり過ごす。
「……そういう話を、してるんじゃないの。私はいつまでここにいればいいの?」
「君が十分に回復して、この先の人生を決められるようになるまでだよ」
「私はこれ以上回復しないと思う」
「それは、君の決めることじゃない。君は医者じゃないんだから。そうだろう?」
「でも貴方だって、私のことは何も知らないでしょ」
感情的になって突き放すような、そんなきつい言葉を言うつもりはなかったのに、気づけば私の口からはそんな台詞が飛び出ていた。白衣のカウンセラーは足を組み、大きな袖に隠した手を顎に当てる。
「君がこれまでされてきたことを考えれば、人嫌いになるのも無理はないよ。他人を警戒してしまう気持ちもね。その点については、僕も十分理解しているつもりだ。でもね、人につけられた心の傷というのは、人との関わりの中でしか癒せないんだよ。今の君に、そういう癒しを与えてくれる特別な人が、周りに一人でもいるかい?」
「……一昨日、私に会わせたい偉い人が今日来る、って言ってた」
「ああ。その件についても話さなきゃね。実はこの悪天候続きで、飛行機が軒並み欠便になってしまったようなんだよ」
何か、歯車のようなものが狂いつつあるような感じがした。頭がまたくらりと揺れる。
「じゃあ、いつ頃来られるの?」
「一週間後だね」
「そんなに?」
はは、と乾いた笑い声をエレミヤはあげた。
「まあ、確かにこんな雪と氷しかない場所に、長居したいと思う人はそういないよね。ここが南国のリゾート地みたいなとこだったらよかったんだけど。でもそういう朗らかで陽気な国には、人目につかない場所っていうのは、そんなにないからね」
「私、薬か何か飲む必要がある?」
「うーん……君もすでに知っているとは思うけど、たとえば解離性人格障害のせいでうつ病や統合失調症を併発したとなったら、それに対する薬を出すことはできる。でも多重人格をピンポイントで直す薬っていうのは、今の所存在しない。だから君がもし何か、気分障害だとか、睡眠障害だとか、そういったものを発症した時にはお薬を出すけれど、君が不要だと思うなら特に何も処方はしないつもりだ。そういえば君は最近、とても眠そうにしているけれど、睡眠に何か問題があったりするのかな?」
私は首を振った。
「別にない。ただ眠ると、気分が良くなるから」
「そう」
「エレミヤは、ずっとここにいるの?」
「まあ、そうだねえ」
「嫌にならない?」
「僕はこれで一応、ここの責任者だからね。僕がいなくなったら、君たちのような人たちが助けを求めてやってきても、たちまち外敵に襲われてしまうだろ? ここには、僕が必要なんだ」
そういうことを聞いたのではないのだけれどな、と私は思う。そう思うが、やはり口に出しはしない。満たされたような彼の顔を見ると、何も言うことはできなかった。
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