自信、傲慢、さばくこと

 なにかを改善していくことや、自信をもつこと、傲慢なこと。どれもまったく異なるようでいて、しかし紙一重のような気もする。

 改善していけるというのは自信だ。

 そして自信というのはときに傲慢につながる。

 自分が、こうしていけるという自信は一見ただのよいものに思える。しかしそれを他人に当てはめた場合、やっぱり、だれかは、私は、あるいはひとびとは、「裁いている」と言えるのではないだろうか。

 聖書の、「人を裁くな」という言葉が好きだ。人を裁くことはどちらかというと「正しい」たぐいのことではないかと思っていたまだやわらかいころ、それは「水のころ」のことだ。だって裁判官とかいる、裁判とかある。

 もちろん法律を守るという意味では「裁判」は正しいと私はいまでも思う。いろいろ学んだうえでいまでもやはりそう思う。だから私のなかでは「裁判」と「裁く」――「さばく」ということは、いつしか別ものになっていった。別の概念になっていた。

 私たちは、私はしばしばひとを裁く、さばく。もしかしたら、毎日かもしれない。

 このひとはこうだ、と峻別していく。判断する。とっさに価値を判断する。そうすることで「このひとにこうする」と決めていく。考える、というほどのものでもないのかもしれない。それはときに直感だ。それはときに経験だ。それはときに感覚であり、錯覚だ。しかしそれでもそれを承知で、私たちは、たぶん私は他人を判断する日々を続け、繰り返す。

 そうすることで人間関係も社会も成り立っているのかもしれない。

 だから、「価格」が嫌いだ。語弊があるのかもしれない。そういう意味での「価格」が嫌いだ。人間が人間を判断するということにはいつでも限界があるというのに。その背景に、なにがあったかなんてその瞬間狭く小さく曇った自分の目に見えるはずがないのに。

 改善していくこと。

 それじたいは、りっぱなことかもしれない。私もあるいはそれを誇りにしていく。でもそれでひとをさばくな。いつでもそれは自分自身に対して思うのだ。でもだからそれは日常生活では私がいつも「そうではない」ことの裏返しのあかしなのだろう。自覚する、だけで「よい」とも思えない、けど。

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