目立つということ、異質ということ

 自分が目立つ、ということについてよく考えることがある。自分がとりわけ目立っている、という文脈ではかならずしもないのかもしれない。もちろん、ある意味では人類みんなが目立つ。みんなが目立たない。目立つかもしれないし、目立たないかもしれない。アンディ・ウォーホルはかつて言った――人間はだれしも五分間であれば有名人になれる、ということを。

 アンディの言葉は現代のSNS社会というか、「目立つ」つまりいわゆる「バズる」ことに価値がある社会を予言していたように思える。しかし「目立つ」とか「目立たない」とかいうことは本来もっと普遍的なものであるのかもしれない。現代の社会は、その現象を浮き彫りにしてもっともっと多くのひとに見せて大規模なものにしているってだけで。

 異質、と言われるひとびとがいつもいた。そういうひとたちが社会を変えてきたし、見方によっては「進めてきた」とも言えるのかもしれない。しかし、そうではない「異質」もいたはずだ。なんら成すことなく、それは、成すつもりがそもそもなかったのかそれとも強く成したかったのだけれど本人のあまりの特殊性のゆえに成せなかったのか、はたまた別の理由なのか、いろいろな実情が考えられるけれども、ともかくなんら成すことなかったそのたぐいの人間もいたはずだ。

 そしてそんな人間、そんな種類の人間は、いまこの瞬間も社会にいるはずだ。環境のせいか、運のせいか。わからないけれど、なにか本人以外の要因によって目的の達成が阻害されている可能性だって高い、高い。

 そんななかで「目立つ」というのはさていったい、どのような意味をもつのだろう。中途半端であることのあかしか。それとも、本物であることのあかしか。どちらの場合もありうると思う。そしてその判定をくだすのはいつも曖昧な存在なのだ。未来とか、超越的存在とか。自分自身であれば判定がくだせるのかもしれない。しかしそれは往々にして、「思い込み」とか「主観」とか、ひどい場合には「妄想」とか言われる意味で、たぶん、やっぱり曖昧なものだ。

 目立つ、ということ。そして、異質、ということ。主観なのか、客観なのか。わからなくなりそうだけれど、だけれども「人類みな普通で異質」だなんて結論に落とし込みたくない、そんな気持ちも、たしかにあるのだ。

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