書く、ということ、ふたたび

 書く、ということに意味はあるのだろうか。考えれば考えるほど、また学べば学ぶほど、またふしぎだが書けば書くほど、そのように思っていく。

 書く、ということで得られることはあるいは多いのかもしれない。たとえば仕事、たとえば地位、たとえば名誉だし、そうでなくともたとえば満足や、自分の思考がかたちになる喜び。だったら、それでいいのかもしれない。ただひたすら文字を紡ぐことによる喜びだって、もちろんあるのだろう。

 だがそれでいいのだろうか。というよりは、一般的な話ではなく、私は、それでは「書く」ということにあらためてなにを求めているのだろうか。

 さまざまなことが多少は多角的に、広く見えてきたような気もする。それはあるいは以前が単一的すぎて狭すぎたのかもしれないが。だが、自分の実感としてはやはりそれは多角的に、広まり、もっともっと大きなものになったのだと言える。そのなかできっと「書く」意味も定まるのだろうなと思っていた。だがその点にかんしては、なかなかどうして、定まらない。

 意味を求めることが意味だと、言葉遊びみたいなことを言いわけのように思っていたころもあった。それでも、いいのかもしれない。求め続ければたしかにそれだけでひとつの意味である。

 だがそれでいいのだろうか。

 書くこと、書き続けること。気がついたら続けている。どんなかたちでも。どんな人生にあっても、きっと。だから「書くこと」だけがたぶんつづいていくことなのだ、自分にとってある種の普遍的なことなのだ。だがそれは「かたち」でしかない、とも言えるのかもしれない。そこには、なにを載せるのか。あこがれか、しあわせか、それとも自分のもっとくらい、なにかなのか。すべてなのか。

 ただ書くということから、どれだけの意義を意味を価値を見出せるのだろうか。そしてそんな問いさえこうして、文章にしないとままらないのだ。とにかくなにか書いていくという、それじたいに意味があるのかもしれないというのは、まあ、そういう意味では賛成だったりもする。

 書いている、ひとはきっと多い。人類はずっと書いてきた。紙が発明される以前にも、以後にも、情報技術が発達する以前にも以後にも。だから、ひとにとってきっと「書く」とは必要なこと。ほしいこと。なにか、深く本質的な根源に関係すること。

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