なにかを「語れる」ひと

 なにかのものごとを語るときに、抽象的になってしまうのは、脅えだろうか、怯みだろうか。ほんとうはもっと具体的でよい。そう思うのだけれど、どうにも抽象と比喩ばかりになってしまう。

 真実を、事実を、ほんとうのことを語るのが怖いのだろうか。

 ずっとそう思っていた。なにか「これが、こうである」と語るのは怖い。若いころはそれで雑談も苦手だった。いいや雑談ではない、あれはどちらかというと「好きなものの話」というか趣味の話、というか、なんというか。ともかく「自分はこれが好きでこうでこうでこうで」という話が、まぶしかったし、うらやましかったし、そのぶん少しうとましかった気がする。自分が「これが好きでこうこうこう」というのがなかった、わけではない。けっして、ない。ただ自分自身それを語るすべを見出していなかった、というよりは、だから「それ」がなかったことこそが抽象と比喩にばかり頼る、脅えと怯みなのかな。

 だから学問が好きなのだと思う。むかしから、勉強の場というのには具体性が求められると思った。そしてその具体性の「ほんとうらしさ」は勉強という場と空間と相手がある程度保障してくれている、ように感じた。勉強と学問は厳密には違う。学問にはべつに「正解」はない。だがそれだからといって勉強に感じていた「語れる感じ、気の休まる感じ」がなくなるわけでもないんだよな。なんでだろう。

 具体的に語ってもよい場には安心を求めているのかな。いいとしして、と思うけど、いいとしだからこそ自覚できたのかもしれないし、自分のひとつの「問題」として意識にあがってきたのかもしれない。

 いつでもどこでも具体的に語れる人間になりたい。それはある意味では「かたよる」ということだ。かたよりに対する冷たさを恐れては立ち行かないんだと思う、自分自身が自分自身に向けるつめたさ、さえも恐れてはいけない、というか恐れていたらやっぱりいつまでも語れないきっと。自分よりも若いひとたちに、とくにこれからのひとたちに、やっぱりなにかを「語れる」ひとでもありたい、しなあ。

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