水のころ
ゴールデンウィークが終わった。いろんなことがあったゴールデンウィークだった。すぐに過ぎ去ってしまう。最近では過ぎゆく時間に恐怖を覚えることさえ少なくなった。「季節を送るのが怖くなくなった」とメモに書きつけたのはいったい何年前だったか。もういまは時を送ることさえそんなに恐れてはいない。ただ、たまにそれでいいのかとは思う。季節が、時間が過ぎゆくことが怖かったころはすくなくともなにかを掴もうとしていたのだ。いまはなにかを掴んだのだろうか。そうかもしれない。でも、そうでもないと思う自分もいる。
書く、ということはとりもなおさずそのときの漠然とした思考を掴むという結果につながる。身体化、できるものだから、しばらく書いていないと鈍ったりする。
そういう意味ではたしかに瞑想のように書くということは効くのだろう、書くということをとにかく自分のものにしていく。語るように。書く。そういうことを繰り返しているうちに、自分の気持ちは考えはかたちになる、のかな。
でもかたちにしてしまって良いのだろうか、とちょっと拗ねたような思考をしてみる。それはかたまるということだ。それはかためるということだ。かためれば、たしかに立場は思考は確固とする。あるいは、表現さえも。
けれども水のようなやわさはどこへ行くのだろう。
わかっている。そのかたさを得るための柔軟性だったのかもしれない。けれどもやっぱり思うのだ。水のような状態と、固まった状態、どちらがきれいかと言えばやっぱり前者だと思っているのではないかなあ、と。
けれども、けれどもそれさえわからない。かたまったものをきれいと思う美学がまだ私のなかにないだけかもしれない。きれいかどうか、なんて最後までわからないのかもしれない。不可知論では、ないけれども。でもなにをきれいと思うか。そんなことまで、自分で決められたら楽だったのになあ。
わからないから今日も書くのだろう、とけっきょくのところ「水のころ」とおなじことを結論づけるように思ったり、するのだ。
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