劣等感、そして砂
なにかを書く、ということを試みたことは多かった(これは前回も書いたっけか)。とにかく書くこと。書くことに、身体を慣らすこと。書くことの身体化、書くことを自分のものにするということ、書くことを「書く」と意識するのではなくただ語り出すかのようにそこにあること、あるいは存在させること。
瞑想するように書いていくこと。
近頃もひたすらに自信をなくす。ただ自分自身で「これは成し遂げられたのでは」と思うことばかり砂浜のようにひろって、ひろって、ひと粒ひと粒を見つめて宝石のようになすことばかり考えてしまう。というよりか、それは考えてはいけないとわかっているのにそこに縋りついてしまおうとする、のだと思うのだ。成し遂げたことは砂のひと粒。そんなことはだれだって認めたくない。いやほんとうにそうなのだろうか。あんがい、ほかのひといや、私のなかにいる存在もしない「ふつうのひと」というのはそんなことをせずに砂は砂、どころか自身の成し遂げたことが石でありあるいは教会を支えるような岩であることさえ、わかってしまっているのかもしれないと思う。
それが私の劣等感に即つながる。単なる夢想、あるいはそれ未満かもしれないのに。
砂を、増やしていけばいいのか。石にすればいいのか。それとも強固な岩をつくればいいのか。ひとつひとつを数えることほど不毛なことはないのか。それとも、砂をひとつひとつ数えることで砂浜くらいはできあがるのか。砂浜こそをこの世界となして貴重なものとするべきなのか。わからない。いろんなことが、わからない。
砂というものはつねに手からさらさら落ちてくる。つかめるものは少ない。それだけでなにか家がつくれるわけでもない。砂で建物をつくれる、砂専門の職人ならばいざ知らず。
ああ鳥取砂丘に行きたいな。ずっとずっと砂の土地に行ってみたかった。ただ砂がずっと広がる光景、というのはいったいどんなだろう。そこに空が広がる。海が広がる。青い。そして砂。砂そのものの色がそこにはあるのかもしれない。だから私は鳥取砂丘に行ってみたいのかな。砂漠もよい。いつかは中東の乾いた土地に行ってみたい。そこにこそたぶん、自分にとっての潤いがあるんだと心のどこかで思っているのかもしれない。そこにこそたぶん、自分自身が砂を数えて数え続ける意義も、あると思っているのかもしれない。
よりよく書いていくこと。
そしてそれも、また課題なのだろう。
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