傘を貸してくれようとしたよ

 あれはたしか、真夏のことだった。

 夏期講習真っ盛りだったときだから。


 盛大に電車が止まった日があった。

 あんなに盛大に止まる日があるんか……ってくらい、派手に止まった。


 運転再開の目処は立たず。

 その日午後いちで授業があった私は、通常の方法では移動できないことになってしまった。


 大混乱の駅で、しばらくようすを見るも、向こう数時間は運転再開しないという。

 もうこれはしょうがないコースだなと判断して、電話をかけた。

 どうやらその情報じたいは、もうすでにいっていたらしい。最初のコマは仕方がないのでどうにかするので、迂回して、ゆっくり来てください、と言われた。



 あんまり、そういうことはなかった。

 私はけっこう早め早めに行動している。

 交通機関の乱れで遅刻というのは、はじめてだった――でもほんとうにそれが仕方ないほど、派手に止まったのだ。


 駅のなかで外で、仕事やら学校やら用事やらの相手に電話をかけるたくさんのひとたち。

 タクシーの乗り場の前の長蛇の列。

 バス乗り場の異様な列。



 ちょっと不謹慎的かもしれないけれど、普段と違う駅前のようすに、私はちょっとわくわくさえしていたのだった。



 さてどう行こうと思案したとき、行きかたはいくつかあったのだけれど、主要なターミナル駅までまずバスで出て、そこから通常通り動いている路線に乗り換えてたどり着こうと判断した。

 そういうふうに思考を凝らして、どうたどりつくか考えるのも、じつはちょっと非日常みたいで楽しかったんです。はい。



 そんで、バスの長蛇の列に並んだ。

 すごかった。もうその列だけで道路がすっごい埋まっている。

 それでも三本くらい見送れば、ぎりぎり乗れそうだった。たぶんそれに賭けたほうがいい。ということで、列に並んで文庫本をひらいたのだが――。



 そう時間の経たないうちに。

 ぽつぽつ、ぽつぽつりと。


 雨が、降ってきた。

 空は、明るいのに。

 ってことは、つまり、真夏の気まぐれな雨だ。



 傘をもっていないひとだらけだった。

 ごく一部のひとはもっていたけれど、もっていないひとのほうが、ぜんぜん多かった。

 あるひとはかばんで頭を覆い、あるひとはなるべく濡れないようにひさしとかの下に入って。

 でも、そんなに激しい雨ではなかったし、なにより暑かったからか、そのまま雨を受けているひとも多かった。

 私も、そうだった。



 じきにやむだろうと思った――それにすぐにバスに乗るし、いいやと。そう思って文庫本をふたたび読みはじめていたのだけれど、



「あの、傘、入られます?」



 紺色の、上質らしき大きな傘に。

 ていねいな言葉。


 前に並んでいるひと――高校生らしき女の子だ。眼鏡をかけて、真面目な感じの雰囲気だった。心配そうに、わざわざ振り返って私を見てくれていた。上品そうな、雰囲気だった。



「ああ、いえ、だいじょうぶです。もうすぐバスも来ると思いますし……でも、ありがとうございます」

「そうですか」



 彼女は、ぺこりとお辞儀をして、前に向き直った。

 そして、そのまま並んでいた。

 私のひとつ前に、まっすぐ。

 スマホをいじったり、本を読んだりすることもなく、傘をもって、ただ、すっくと立っていた。



 ……なんでそう言ってくれたのかわからないけれど、たぶん、この混乱のなかでの純粋な善意なのかなあるいは、そうではなくても、純粋に見えるほどには純粋な善意なのかな、と思った。あるいはあるいは、すくなくとも、それを実践しようとした気持ち。この混乱のなかで――。



 やがて、晴れてきた。

 真夏の空気が、あっというまに雨の水しぶきを、乾かしてしまう。



 そのとき見上げた夏の眩しさと似たものを、私は、そちらの高校生のかたに感じていたのだと思う。今日も、夏期講習、がんばろう、と思えた。だって傘を貸してくれようとしたんだから。名前も知らないどこのだれかも知らないでも自分よりは確実に若い高校生が、動機も本心もわからずでも行動としてはたしかに、傘を貸してくれようとしたよ――だから。

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