いまどうやら重要だってとっても言われてるらしい、「分野横断的な幅広い知識や俯瞰力」についてを、ひとむかし前から言っているひとがいた。
教職過程をやっていると、よく聞く。だから教育関係者のかたにとっては、もっと馴染みある言葉となっているのでしょうね。「分野横断的な幅広い知識や俯瞰力」という表現や、それにあらわされること。
もうすぐで新学習指導要領が、本格的に始動していくのである。日本の教育というのは十年ごとに変わる、らしい。だからそのなかであらためて、必要だ、と見直されている力だということなのだろう――「分野横断的な幅広い知識や俯瞰力」というのは。
さて私はごく個人的には、ああそういう力がやっとこういう言葉であらわされ、必要だとされたのか、と嬉しい気持ちだった。
この力についてはいろんな思い出があるのだ。
私、十九歳。大学一年生のとき。
友人と、電話していた。
「予備校の先生がね、ノートは分けるなって言うんだ」
そう言っていたのは、おない年の浪人していた友人である。彼女の予備校生活は、聞いているだけでおもしろく、がっつり受験するというのはかくも充実しているものなのかといつもびっくりしながら聞いていた。そのなかで、出てきた話のひとつだ。
「教科ごとに分けるなってこと?」
「そうそう」
「そりゃまた、どうして」
「すべての教科はほんとうはおなじなんだから、って。たとえば理科の授業を英語で記述してもいいんだし、数学のことが社会と絡んでくるかもしれない。ノートを分けるのは、もったいないんだって。すべてひとつの『知』として書くべきだって」
「へええ、なるほど……」
私はそのとき同時に、高校のときの数学の先生の言葉を思い出していた。
『学問は、全が一、一が全。自分は数学をやっていくうちに、それがわかったけれど、いずれこの意味がわかると思うよ。ひたすら、勉強していけば、いずれふっと腑に落ちるときがくるはず』
「……うちの高校の先生もそんなようなこと言ってたわ。めちゃ数学ガチ勢の、理系ガチ大学出身だったらしいんだけどさ。ずっと勉強してくうちに、学問っていうのは、『全が一、一が全』になるんだと」
「やっぱり突き抜けたひとっていうのはそういうふうになるんかね!」
その友人は、予備校のその先生についてさらに教えてくれた。ガチ予備校のなかでもかなりガチな授業をすることで有名な先生だ、ということ。
「あと、すごい変人。いい意味で。ギリシャ語をはじめて学ぶとき、辞書なしでほとんど読めちゃったとか」
「なんだそれ。どうやってやったん」
「法則を見ていって、これはこういう意味、これはこういう言葉、とかって関連づけていったんだって」
「ガチじゃん」
こういう話をしているのが、あのときは楽しかったな。ほんとうに。
そんで私はそのころから、教科や授業でノートを分けないようになりました。
「なんでもノート」と名付けたノートに、なんでも、なんでも、書いていく。
なんなら勉強以外のことも書いていく。小説のこと、日記、メモ、なんでも、なんでも。
「知」というのはなるほどたしかに分断されていない――と、私はその「なんでもノート」が溜まっていくなかで、どんどん、どんどん、じっさいに具体的にわかっていきました。
その結果というか、なんというか。
ノートを分けなくなってから、およそ十年して、こんどはまたジャンルごとにノートを分けていくことを、スタートしたんですが――それはまたべつのお話だし、たぶんこの「分野横断的な幅広い知識や俯瞰力」的な視点がなければ、かえって、私はここに戻ってこられなかったんだと、思うんだよねえ。
一周するって、だいじだ。
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