二十七歳の誕生日の所感

 さて、こちらの更新もけっこうひさしぶりになってしまいました。

 前回のエッセイで書いたエデンのこと、いまもずっと考え続けてます、毎日。そのびっくりするようなことも、日々、ふれ続けています。

 それについてもエッセイを書きたいのですが――まあ、今日、私の誕生日になったので、たぶん今日しか書けない記事を先に書いてみようと思います。




 七月十日は私の誕生日だ。

 つまり、本日である。



 2019年、そして令和元年の七月十日の今日、私は二十七歳になった。



 年々、誕生日なんてどんどんどうでもよくなってくなあとも思い、それはある側面ではたしかに真実だと思う。小さな子どもだったころみたいに、ひと月前くらいからわくわくしてカウントダウンするとか、一週間前になるともう毎日そわそわして仕方ないとか、当日はなにもかもがとくべつに見えるとか、そういうことはなくなってきた。歳をとる、ということも、まあ九歳が十歳になったり、十六歳が二十七歳になるのでは、そろそろさすがに勝手が違う。


 しかしやはりふしぎなことに、まったくどうでもよく、はならないのだな。


 もうこの歳になればそこまでなんらか誕生日が特別扱いされる年齢、年代、でもない。私だって今日はまったくふつうに、いつも通り過ごす。誕生日のためにさすがに仕事を休もうとかならないし、学校にも行ってるし、カクヨム作業もいつも通りにやっている。母には先日の日曜に、そして夫には今度の日曜に祝ってもらうから、水曜という平日の今日は当たり前に普通に普通の一日になることが、もう確定的にあきらか、とでもいったところなのである。


 しかしまあ、まったくどうでもよくはない、ほんとうに。

 だからこそ、節目の当日の今日に、なんらか感慨を記しておこうと思う程度には心が動いているのだし。




 二十七歳という年齢は自分のなかでどう評価していいのか非常にわかりづらい。


 十代のころはそのへんがかなり細かく自分でも見えていたので、よかったというか、まあ大変だったというか。

 たとえば名作映画『サウンド・オブ・ミュージック』に出てくる、『Sixteen Going on Seventeen』という曲が、あるでしょう。ゆーあー、しっくすてぃーん、ごいんぐおんせぶんてぃーん、って。歌詞だけだとなんだそれってなるかたも、たぶん旋律を聞けば、どこかで聞いたことあると思いますよこれ。

 あなたは十六歳、もうすぐ十七歳。十六歳と十七歳って、やっぱりかなり違うわけで。私は幼いころから物語には親しんできたのでそのへんのニュアンスは、なんとなく、しかしそれでいて同時にすごく敏感に感じとってきた。


 なんとなくだけど、二十二歳まではそのへんの細かい分けかたが、あった。

 しかし二十三あたりから、年齢、ではなく年代なんだな、と思いはじめてきた。

 おとなになればこのへんは自然と細かく分解できるのかと思っていたけど、どうにもそうでもない。


 つまりどういうことかというと私は二十五歳から二十九歳までは、まあだいたいおんなじなんだろな、と思っている。もちろん、じっさいにはいままだ今年の誕生日を迎えていない二十九歳のひとっていまの私から見ると学年的にはみっつ上で、中学や高校でかぶらない年代なので、じっさいにはね、多少違う。それに二十五のひとだって事情はおんなじなので、あんまりおなじ扱いはできないのかもしれない。


 でも十六歳と十七歳で世界が一変してしまったようなあの根源的な衝撃を誕生日から受けることは、いまはもうない。たぶん、そういうこと。

 たぶん、三十になったときや、あるいは還暦のときとかは、それに匹敵する衝撃を受けるのだろうけど――。




 幼いころは時間がたくさんあるように感じて、自分の変化はすさまじい速度であって、毎日いろんなことがあった。

 いまも毎日いろんなことはあるけども、やはり時間は短く感じるようになったし、自分がすさまじく変わるということも感じない。変化はしているが、それは非常にゆっくりだ。 


 こうしてみるとたしかに幼少期が懐かしくなったりする。毎日、なににふれてもすさまじい変化をできたあのとき。毎日なんでもとても深い意味と価値をもって私の前に現前しているように感じた。

 いまはそんなこともないからなんだか体感的には停滞しているような感さえある。


 でも、ほんとうは、そうじゃなくて。

 いまのこの、体感的にはなんとなくきまってきて穏やかな日々は、しかしほんとうは幼少期の何倍何十倍あるいは何百倍もの経験値を得続けているんだろうなあ――すこしの経験値で、たっくさん強くなる幼少期。たくさんたくさん経験して、ときどきやっと強くなれるおとなの時代。



 二十代後半、という時期がだんだん終わりに近づいてきたな、と感じる。でもまだ折り返しにもいっていないといえば、いってないわけで。

 二十六歳になったときも思った。「ああ、まだ中高生がその三年間を過ごす以上の時間が、私にはあるのか」と。

 ちょうど今日から三年ってわけだ。中高生のその学生生活のすべてに等しい時間があるのは。

 三十になるまでは。




 二十代は準備の時代になりそうだ。少しは収穫もはじまっているけれど。忍耐強くやろう。私はそもそもが不器用だ。ひとほど速く効率よくできない。けれどもやりたいことや言いたいことなら定まってる。自分がなんなのか、どういう存在なのか世界や社会においてということもわかりはじめている。自分というものは見つかって、いまはひたすら読んだり書いたり考えたり学んだりしている時代。こういう忍耐の時代がまだまだ続く二十代になるんだろうな。同年代ですでにのびのびと一人前になっているひとはすごい。すごいけど、そこを比べてもしょうがないし、でも自分の二十代はこういうものでしたよっていうのをつくりあげるために、仕上げるために、これからも毎日毎日たゆまずいきたいな。






 十代は後悔まみれのようでいていま振り返れば最高の土壌づくりの時代だった。二十代は、いまそこに、適切な種蒔きをできているだろうか?

 そして、それを収穫できるようになるため、――二十代、残り短いといえば短いが、三年というとまだまだある、そのあいだを、確実に生きてつみあげていきたいと思っている。そんなことを思う、2019年、令和元年、七月十日、二十七歳になった誕生日当日の昼なのだった。

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