エデンといえばエデンだったかもしれない。

 今日、ひょんなことで出身地についての話となった。

 私以外はみなさん東京あるいは都内近辺出身在住のかたがただ。



 私は群馬県の高崎市生まれで、中学卒業までそこで育った、じつはもともとは生粋の群馬県人である。

 都会と、田舎ではずいぶん違う、いろんなことが――それはたぶん、都会のひとが田舎について考えるよりも、田舎のひとが都会について考えるほうがもしかしたらあるいは強い思いなのかもしれない。なにごとも、裏表というものがあり、そしてたいていは「裏」がわとされるもののほうが表がわをよく見ている、そして表がわから裏がわのことはなかなかよく見えないものである。



 高崎市は群馬県のなかでは比較的都会風で、地方都市といっても差し支えない地域ではあるが、その地域性や人間性はあきらかに「田舎」といえるものであった。

 つまり、地縁で成り立ち、地縁で生きていく地域ということである。




 なんの話になったかというと、たとえばそれは幼少期にもつ「地獄」についての話であった。都会あるいは都会に準ずる地域の出身のかたは、いわゆる地縁というものがおそらく薄く、たとえば「家庭でごはんをもらえなければ詰み」なのである。


 そういえば私はいくら家庭で問題が起こったとして、家での食事が難しいと感じても、「飢えて死ぬ」という発想はあまりなかった。

 だって近所に行けばいくらでも柿や木の実がっているし、友達の親も先生などもすぐにひょいと夕飯くらい食べさせてくれる。

「この地縁のなかにいればすくなくとも飢えることはなく」――というのが幼少期の私の素直な実感だったかもしれない。……まずいのは村八分にされた場合で。その場合、田舎ではほんとうに「死」の危機がせまるのだが――。



 たとえばそれは地域でどれだけ見知り合い馴染み合っているかということであった。私の生まれた姓の家は地域でもわりあい古いらしく、また土地貸しや法律関係のところ、役所や教師をはじめとした公務員、などなどが多かったせいもあったのか、私自身も知らぬようなところで「○○家のお孫さん」みたいなところで有名だったりした。こちらが知らなくても、あちらが私を知っているということにはむしろ慣れっこだった。「○○家の子」として。


 幼児期から小中に至るまで、学校でいじめを受けたことがないのは正直その「○○さん家の子だから」という要因もでかかったんじゃないかと思っている。詳しいところもほんとうのところももはやわからないが、土地に法律にいろんなこと、生活の基盤をおさえているような家の子であることは間違いなかったから。

 私自身が逆に親戚や近所のひとたちから「○○くんっていうのは○○さん家のお子さんだから、変なことしたりちょっかい出しちゃだめよ」と注意を受けたようなことも何度かあって、ふうん、すごいんだななんとかくんって、とか思って接していたこともあったので――逆のことが、なんどかは起きていたんだと思う。私は、たぶん、なんとなく、「○○さん家の子ども」だから、一定の敬意や距離をとられ、あんまり子ども社会で悲惨な目にはあってこなかった。いや、ぜんぜんといっても差し支えはないかもしれない。




 けっして、飢えて、死ぬことはなく。

 いろんなひとが、自分を知っていて、望めばごはんでもお菓子でもなんでもくれる。

 いろんなところで、見守られて。

 いろんなところで、声をかけられる。

 なにかをすれば噂になるし。

 大きななにかのなかでまもられて、すくすくと育っていく。





 いまにして思えば、それはエデンに似ている。








 今日、もちろん東京で、

 そんなおしゃべりをした帰り道、夕暮れの空気に包まれて、久方ぶりに故郷のことを思い出していた。

 それは正直、体感としては――東京や都会のひとにはわかんないんだろうなあ、という実感ばかり。



 フェンスや壁、なんて、そこにあってないようなものだった。あの地域の子どもたちはみんなフェンスを乗り越えることくらいできて、フェンスを乗り越えられない子はバカにされていた。私は木のぼりが上手ではなくて、「いまの子は木にものぼれない」とため息をつかれたことはあるけど、「いまどき(平成前半の話です)、木にはのぼれんくたってフェンスをこえられたらそれでいいんよ!」みたいな感じで平気でフェンスはこえていた。

 だれか大人におっかけまわされても、フェンスをこえられる私たちは最強だと思っていた。おっかけられ、小柄な子どもたちですばやくフェンスを乗り越え、その向こうからわいわい言いながら大人に向けて石だの木の実だの投げつけてげらげら笑って走り去ることは、いまにして思えば、無限とも思える目のくらむほどの自由だった。


 むかつく教師や「仲間」をいじめた大人がいたらその車にいたずらをした。石を投げたりパンクさせたりというのは、計画的にやれば案外バレないものなのである、しかも田舎だから都会とは違って駐車場もだだっ広く逃げ道なんてどこにでもある。子どもたちは「はしっこい」から、いくらでもそういうことができる。また、そういうことをして、もちろんバレれば怒られるけど、田舎の大人は自分たちもそういうことを子どものころに経験して大人になっているので、げんこつ食らうくらいでほかに本質的に咎められたりということもあんまり、なかった。


 子ども同士で手が出るのも当たり前だったし、と思えば子ども同士で結託して大人と張り合おうとすることや、野良犬なんかと戦うことだって日常茶飯事だった。あのころの私たちはある程度だれでも「物理的に殴り合うこと」に慣れていて、もちろんいまにして思えばそういうのがとても嫌で嫌で苦手な子だっていたと思うんだけど、すくなくともあのときの視界には入っていなかった。

「人を殴る覚悟がある」と都会のひとがわざわざあえて決意のように神妙に言うのが私はふしぎでふしぎで仕方なかったんだけど、というのも「いざとなれば殴る」というのは当たり前すぎて、「それが都会のメンタルでは当たり前ではない」と気づいたのはお恥ずかしながら比較的最近のことだ。



 自宅を中心として、山から高速道路にかけての半径十五キロメートルくらいは完全に自分の庭だった。

 用水路を道のように歩いた。

 洞窟も空き地も森の奥の小さな道のゆきさきもなんでも知っていた。

 川や、土手や、廃墟や、いろんなところにみんなとの「ひみつきち」をつくった。

 人といるのが息苦しいときには、森やら林やらの深い深いところにつくってある自分だけの「ひみつきち」や、もうすこし年齢が上がると人のいない神社とか、丸太と一面のすすきしかない空き地などをいくつか発見して、そこで私はずっと本を読んでいた。

 帰りどきは、日が暮れるとき。なぜなら、明かりがなくなって、本が読めなくなってしまうから。

 夕方のすさまじいからすの大軍を見上げながら、「ああひとりだなあ」とのんきな気持ちで本をどんどん読みすすめていった。


 探検するところなんて無限にあった。いまにして思えばあの半径十五キロメートルのなかで、でも、私は私だけの秘密をたくさんもっていた。川のまんなかの石がどんなに宝石みたいにつややかだとか、夕日に映えるすすき畑がどんな色をするかとか、道に落ちているビー玉を追って深い森のなかに迷い込んだときのふっと香る緑の強さや、神社のだれにも知られていないところでじっと本を開いて感じとる物語がどれだけはらはらするかとか、そんな、そんなのは、両手からあふれてこぼれおちるくらいに――もっていた。



 休日遊びに出ると、比喩ではなく何十人もの知り合いに出会った。狭い社会だから、遊ぶ場所も限られていて、みんな知り合い。ばったり会った「なんとかのおじさん」や「だれだれさん」におごってもらったり、いきなり昼食や夕食に招待されるなんて日常茶飯事だった。

 いつでも、だれかが私を――より正確には「地域の子どもたち」――を見ていた。

 買い食いなどしようものならすぐに目撃情報が広がって、翌日には朝教師がやってきて「ちゃんと食ってんのか」などと言ってきた。





 ああ、違う。いろんなことが。

 いまの私の常識ともそういえばぜんぜん違った。

 いまならそんなの耐えられない。無理だって思って裸足で逃げ出すと思う。

 なんでだろう。あれは、たぶん、私がいまの私になる直前の私で、だからあの世界を「エデン」だと感じていたころだからなんだと思う――。




 食うものにも、風景にも、自由にも、探検にも、人々の「優しさ」にも。

 なにひとつ困らない、あそこは私にとってたしかに故郷で、すべての原風景で、人生のはじまりだった。







 私にとって地獄があるとしたら、そのエデンをいつしか信じられなくなってしまい、すくなくとも私にとってはそこが腐敗しはじめたことだ。

 本を読みすぎたのと、ネットでいろんなひとと交流したのと、あとはまあ同類の人間に中学あたりから出会いはじめたことが――そのきっかけだと、思っているけど。



 熟成したエデンがくずれおちていくさまといったらまあすさまじいものがあった。死ぬよりつらいかもしれないという風景だった、あの記憶だけで、一生ものだって書けるんじゃないかってくらい。



 無知だったからエデンだった。無関心だったからエデンだった。自分自身が世界においてどんな環境にいるかとか、フェンスを乗り越える子どもというのが地元以外ではどんなふうに捉えられてるのかとか、本を読んで出てきたわっとした感動とか感想とか、常識とか、自分とひとがどれだけ似ていてありきたりだとか、それと同時に自分がどのようにひとと違うのかとか、そういうのを意識してなかった時代だったからこそのエデンだった。いや、年齢ではなく、もしずっとそこに関心などをもたずにいられたら、私はあのエデンで永遠にいきれたのかもしれない。

 永遠のいのちが手に入ったのかもしれない、けれど。






 人間は、永遠のいのちか、さもなくば知恵しか選べなく――そんな言葉遊びが、今日の帰り道はほんとうに頭をめぐった。









 それでも私はあのエデンを忘れられない。楽園にいたころを忘れられない。無知で無関心で愚かだったからこそ、あんなに自由で、世界の果てまでも探検できたあのころのことを忘れられない。

 ほんとうなら私はエデンにかえりたい、私にとって正しいエデンをつくりたい。

 でもそれが間違ったことだと知っている。だって、私にとってのエデンだって、一回あとかたもなく滅びさったから。ということは、ある種のエデンは滅びをはらんでいるわけで、ということは滅びの道であるはず、なのである。

 そういうのをもう知識としてもそれ以上の体感としても知ってしまっている。


 いつでもどこでもふらっと自転車に乗って、森でも川でも神社でも、どこでも迎え入れてもらえたあの時代のことは、いまみたいに思考できなかったからこそのことだと知っている、でも、でもそれなのに、――東京に来て十年あのときのことが忘れられない。

 なつかしんで、こんな、文章を、書き散らすほどには。




 でも、私はあそこに帰らないし、自意識としては東京人として今後と生きていくつもりだ――そもそも私はあんまりにも私にとってのエデンの腐敗がすごいので、中学を出るとき、なかば無理やりあそこを出てきたのだった。

 そして、いまも、帰っていない。

 帰らない。

 それが答えだ。――けれど。




「私は美しい楽園にいたので楽園に帰りたいが楽園は腐るものなので、楽園をつくるのは間違いだと知っている」

 本日のメモに残っていた。






 とりとめもない記事となってしまったが、まああくまでもこれはブログふうなんで、そんなもんだ。

 旅はまだまだ続くらしい、どうやら。

 それは、放蕩ほうとうの旅なんだって、自分ではとても感じているけれど――。





 と、いう文章を、先日書いたのですが。

 この続きが、けっこうびっくりするようなかたちであったので、この後、その記事を続けます。

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