いつもの日々を、とくべつに感じていく。

柳なつき

忙しさのなかでも、なにかを掴みとろうとしている。

 二足のわらじを履いている、などという表現は、お江戸のころから妙な兼業を両立しているようなひとに対して言われたことわざ、らしいけれど。





「わらじを何足履いてんだ」




 先日会った友人に、そんなことを言われた。もうつきあいの長い、高校時代からの友人である。

 ははは、いったい何足だろうねえ。私は愉快痛快に笑った。五足くらい?

 無理すんなよ、と彼女は言ってくれた。さすが、つきあいの長い友人だ。私のことを、よくわかってくれている。



 五足ってべつに誇張表現でもなんでもないところがなあ。

 作家、院進志望中の学生、教職課程をこなしている学生、塾講師、夫の妻……。

 うむ、そんなこんなで五足を履いている者です、あらためまして、やなぎなつきと申します。



 このなかでは作家というのが現状いちばんわかりやすく確立されている。著作もいちおうだが出していたり、ウェブ小説でもまあまあばりばりやってたりする。なんだかんだ私の生活と根本こんぽんをけっこう支えてくれていたりもするので、私はまずわらじのなかで「どれかひとつ」と言われたら真っ先に「作家」と言う。


 次点で学生。なんだかんだでもう十年近く大学生やってしまった。「大学十年生!」って、なかなか言えるものではないと思う。いや前の大学といまの通信制大学を合わせてですけど。通信制大学ってすごいんですよ。原稿料とかバイト代で通える程度の学費しか、かかんないんですよ。おまけにかなりの割合のひとたちが社会人やりながらだから、卒業するのに六年とか八年とかけっして珍しくもないし、在籍の上限は十二年。私はいまちょうど七年だか八年だかで、卒業のめども立っているから、ぎりぎり十年はいかないみたいだ。ちなみに所属分野は哲学。卒論研究で取り扱っているのは宗教学、あるいは宗教倫理学といってもいいかもしれない。大学院でもその続きをしたくて、せかせかといろんなことを学習している。自分の大学の授業や、独学でもだけど、他大の聴講生にもなっていて、いろんな大学や講義に日々せかせか通ったりしてます。


 その通信制大学で教職課程、つまりいわゆる学校の先生になるための勉強もやってるわけだ。こちらはこちらで大学で勉強するほかに、自主的にいろんな試験を受けてみたり、研修会やら集まりやらに顔を出させていただいたり、ボランティアをやらせていただいたりしている。私は中学高校とがっつり不登校ぎみで大学も中退しているので、自分にはすくなくとも「教師」などというのはもっとも向いていないと思っていたのだが、なんだかんだやりたくなってしまった。人生ってね、おもしろい。


 塾講師はスタートして二年目だ。個別塾で、小中高の英数国を教えている。小学生の場合は算数だけれど。こちらは当然お仕事なので、あまり語れることは少ないんだけど、ここで私は日々めちゃくちゃ勉強させていただいてることは確かだ。ちなみにけっこうがっつりやってて、週四か週五で、スタートからラストまでいることがほとんどである。夜の時間帯にやっているので、必然的に帰りが遅い。でも学業と両立するにもとてもありがたい仕事だ。ほんとうに、この場には感謝しているので、毎日みっちりやって多少疲れても、うしやるぞ、という気で毎日通いつめることができる。不登校だったのに私。ほんとうにほんとうにすごい職場だ。もっとずっと勉強させていただきたい。


 結婚は昨年末にいたした。高校のときの文芸部のひとつ下の後輩だった相手である。つきあって四年くらいして、昨年の五月ごろからいっしょに住みはじめて、そして昨年末の十二月のつきあった記念日に結婚した。私は夫を愛していて、私は夫を世界でいちばん尊敬している。愛など知らなかった私にとっての、奇跡で、運命である。絶対的に愛している。夫のことについては愛しているゆえに、また彼はとてもおもしろい人間であるゆえに、このカクヨムでもけっこういろんなエッセイを書いてしまっているくらいだ。なれそめとか、日常とか。カクヨムにあるのでもしご興味あられたら、ぜひ。



 というわけで、たしかに五足くらいはわらじを履いているのだ。無理しないで、という友人の言葉がしみる。むむむー、となる日は私自身多いからだ。だって、やることありすぎて。



 このごろの典型的な一日を考えてみた。

 私の一日はたいていいつも朝の七時くらいから夜の十一時くらいまで絶え間なく続いている。

 朝、出発。午前、学業。お昼休み、小説作業。午後、学業。夕方、小説作業。夜、塾講師。帰宅後、小説作業や勉強。

 こういうのが合間にほぼ余裕なく毎日毎日続いている。おんなじことが毎日のように繰り返されている。休めるのは移動時間くらいだけど、移動時間は読書時間というれっきとしたなんかしている時間だ。絶え間ないうちの、ひとつである。





 いやまあたしかにすっげえぎちぎちだな。そんな実感はたしかにあるのだ。





 なんどか書いてきた通り、私は学生時代は不登校だった。高校のときはそれでもまだ学校や周囲のかたがたの理解がとてもあって、頻繁に遅刻して休む程度で済んでいたのだけど、中学のときなんかけっこうひどくて、中二から卒業に至るまで教室に足を踏み入れたのはいちどきりだ。保健室登校とかは中三のときからちょいちょいしてたのだけどね。でもほんと、ガチの引きこもりだった。社会不適合まっしぐらだった。

 あと現役で行った大学もけっきょく馴染めず通えず辞めている。

 メンタル――というか私の場合は多分に器質的な脳の「特徴」も抱えていて、中学生のときからメンタルクリニックにがっつりお世話になっている。おまけに若いころにちょっとした「事件っぽいの」に巻き込まれたこととかもあって、仕事どころか一時は正常な日常生活も諦めろと言われていた。社会生活、ではない。日常生活、だ。高校に進学することさえ止められた。しかしなんだかんだけっきょく高校に進学して、とてもよい経験を得たし、生涯と思える友人も、そしてちゃっかり夫までゲットしてくるんだから、まあなんというか神経質なようで図太いのが自分という人間なんだなあとしみじみするのである。



 しかしもとがそういう人間性なゆえ、けっこういまも脆弱なところはある。具体的に言うと、単純にサボりたいときが非常に多い。いやそれ普通か。普通かもな。うん、不登校とか社会不適合とか関係なく、普通なのかもしれない。サボりたい、サボりたい、このまま寝てたいだらだらしてたい……思うよね?


 そしてときにはなにもかも投げ出したくなる。むかし志していたときみたいに、小説だけを書いていたい、と。

 だがなんだかんだ投げ出さないでいるのは、







 たぶん、そんな端的にいって「忙しい」日々のなかでも、

 流れゆくように急スピードですさまじく過ぎ去っていくかすみのようなもやのような日々のなかでも、





 なにかを、なにかをつかもうと、私は日々手を伸ばしている――それはけっして格好いい営みとはいえず、どちらかというと、単純に不器用な手つきにも見えるかもしれないし、自分でも、じっさいそう思えてしまう瞬間もあるのだけれど。







 さてそういうわけではじめた、この連載。

「忙しい日々のなかでも、なにかをつかむため」はじめたものといっても過言ではない。






 ちなみに、個人的には「忙しい」という言葉は嫌いである――だって感覚が麻痺するから。

 しかし、まあ、これはまた別の機会に語ることにしよう。わかりやすさはときにほかのものごとに優先する。たとえばそれは、忙しいということが嫌いな私の美学とかに。わかりやすさを優先することがままあるというのも、いわば、私の美学なのだから――そんなことを毎回毎回、いつもの日常のなかで感じていく。そんな文章群に、文章のむれに、なる予定です。よろしくおつきあいくださいませ。

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