第5話「黒と白の情熱」

「流石ね。完敗だなぁ」

 全力を出し切って、満ち足りた様子だった。

「いやいや、とてもお強いです」

 お世辞ではなく、本心だった。

「思い切りのよいあなたの哲学を、人生を、垣間見られた気がします」

「ありがとう」

 紀子が、少しはにかみながら答えた。

 

 局後に、初手から並べ直して検討を行った。一手一手じっくり、様々な変化を検証する。

「あなたって、見かけによらず熱い性格なのね。情熱がひしひしと伝わってきたわ」

「碁盤の上では、素直になれるんです」

 数年ぶりに、本来の自分になれたような気がした。


「見せたい碁があるんです」

 黒石を、碁笥ごけに戻しながら言う。

「生涯忘れない、想い出の一局です」

 

 私は、大学時代の団体戦の碁を並べて見せた。

 四年時の団体戦――一部から五部までクラスがあり、当時私の大学は真ん中の三部だった――の、最後の一局だ。

 相手は青山学院大学の人だった。名前は忘れてしまったが、以前に一度手合わせしており、その時は私が負けた。感情的になり自分らしい絵を描けずに大敗した、苦い一局だった。

 学生生活最後の大会、悔いの残らない碁にしたいと思った。負けても納得できる、自分というアイデンティティを刻む碁。

 

 一手目、私は目をつむって着手した。

 開くと、黒石は天元の二路横の地点にあった。投げやりになっていたわけではない。その方が、自分らしく打てるような気がしたのだ。二時間を超える大難戦の果てに、私は有終の美を飾った。

 

 私が並べる一手一手を、紀子は真剣な顔つきで見つめている。言葉は最小限にとどめて淡々と並べたが、彼女は時折頷いたり、感心したりしながら咀嚼していた。


「この碁には、あなたの人生が凝縮されているわね」

 すべて並べ終えると、彼女は深甚しんじんな感慨をこめて言った。

奔放ほんぽうだけど芯が強く、観る者を惹きつける力があるわ」

「褒めすぎですよ」

 この一局のように生きられたら、日々の暮らしはもっと豊かなものになるのかもしれないと思った。

「でも、この碁を打つために自分は存在してきたのかもしれない。そう思ったんです」

 そんな風に考えるのは馬鹿げているかもしれない。あるいは、愚蒙ぐもうなことかもしれない。それでもそう思わずにはいられないほど、当時の私は充足感に横溢おういつしていた。

「きっとあなたにとって、この一局が必要だったのね」

 隣近所のパチッ、パチッという石音が、心地よく耳に入る。


「これまでの人生は、無駄ではなかったのかもしれない」

「当たり前でしょ」

「気付かせてくれて、ありがとうございます」

 後方の席から、ジャラジャラと石を片付ける音が聞こえてくる。

「私、あなたとなら上手くやっていけそうな気がする」

 温容おんようを湛えて、はっきりとした口調で語った。

「僕も、同じことを思いました」

 こんな風に心でつながったのは、生まれて初めてのことだった。

 

 外へ出ると、カンパリオレンジのような鮮やかな夕焼けが広がっていた。

 数年ぶりの対局の余韻に浸りながら、紀子と市ヶ谷の街を後にした。

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