第3話「手談の哲学」

「お待たせしました、どうぞ」

 店主が、二杯目のカンパリオレンジを私と彼女の前に置いた。


 酒は何でもいける口だが、中でも気に入りなのがこのカクテルで、学生時代から迷ったときはとりあえずカンパリオレンジを――置いていない店のときは仕方ないが――頼むのが癖になっていた。この店のそれは、他の場所で出されるものよりもいくらか濃く作られており飲みごたえがある。


 少しの沈黙の後、紀子はテーブルの上の週刊碁に目を移した。


「そういえばあなた、碁が好きなのね」

「ええ。大学時代に部活でやっていまして」

「あら、私もよ。大学では囲碁部に入ってたの」

「ホントに?」

 

 予想だにしない返答に、自然と声が大きくなる。碁を打つ女性など、日常生活でまずお目にかかることはない。


「そこまで強くはなかったけどね。それでも四、五段で打てたから、大会などにはよく出てたわ」

「いやいや、十分お強いですよ」

 五段程度だとしたら、場合によっては互先(ハンデ無しの対局のこと)でやられてもおかしくないなと思って半笑いを浮かべた。

 

 私は、大学時代に囲碁に没入ぼつにゅうして七段格の棋力になったこと、大学三年以降の団体戦では――主将から五将までのうち――三将で打っていたこと、囲碁に耽溺たんできするあまり、勉強や人付き合いなどを疎かにしていたのを今となっては悔いていることなど、あれこれと話した。こんなに自分の話をするのは何年振りだろうか。


「貴重な四年間、もっと他にすべきことがあったはずなのに、無駄にしてしまいました。囲碁なんて、いくつになってからでもできるのにね」

 紀子は表情を変えず、真剣な眼差しを向けて傾聴している。


「人生において、無駄なことなんて一つもないと思う」

 グラスを手にして一口飲んでから、明瞭な口調で私に言った。

「“既存の石を、一つ残らず無駄にせず勝ちに結びつける”のが碁打ちじゃないかしら?」

 紀子は右手の中指と人差し指を合わせ、碁石を打つゼスチュアをする。長くて形のよい指に、私はほんの一瞬陶然とする。

 意表を突かれた、と思った。そんな風に人生を考えたことはなかった。


「まったくの失敗に見えた手が、後々になって威力を発揮して逆転した対局も、そういえばあったような気がします」

  学生時代の強敵たちとの対局を思い出しながら、私はふわりと相好そうごうを崩す。

「人生って、たぶんそういうものよ」

 紀子が、からすの濡れ羽色のようなつややかな長髪をふわりとかき上げた。


「どうして僕に声をかけたんですか?」

 テーブルの上の週刊碁に気付いたとしても、わざわざ席を移動してくるのは普通ではない気がした。

「さあ、なんでかな。なんとなく、そうしてみたくなったのかな。悪い人じゃなさそうだったしね」

 あでやかな見目みめからは予想しにくいような、世間知らずの少女のような台詞に、私は再度の半笑いを浮かべる。たぶん昔から、こういう風に生きてきたのだろうなと思った。

「お話しできて嬉しかったです」

「こちらこそ」

 紀子が、今日一番の笑みをたたえて答えた。


「ねえ、今度碁を打ちに行きません? あなたの碁を見てみたいわ」

「僕の碁を?」

「ええ。ぜひ」

「どうして?」

 なぜそのように言うのか、私には分からなかった。


「その人の打つ碁には、その人の人生が投影されている気がするから」

 店内ではCloudberry Jam――スウェディッシュポップを代表するアーティストだ――の名曲『Nothing to Declare』が、控えめなヴォリウムで流れている。


「ロマンチストなんですね」

「でも、そう思わない?」

 二杯目のカンパリオレンジを飲みきり、紀子はわずかに頬を上気させている。


「確かに、囲碁は物事に対する考え方や哲学そのものを表現し、競うものかもしれないですね」

「じゃあ、私たちの哲学を盤上でぶつけ合って、まだ見ぬ一手を探究してみるっていうのはどう?」

 私の生真面目な回答に、紀子はユーモアのきいた返しをする。

「もちろん、喜んで」

 

 心が通い合うとは、こういうことなのかもしれないと思った。

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