おまけ話 花見は弁当持参で 3

「あ!ねえ、そろそろ頃合いじゃないかしら」


 ふと窓の外を見た妻の声に誘われて目をやると、そこには朝方や昼間に比べると幾分赤みが強くなった森の木々が並んでいた。

 それは俺たちが待ち望んでいた刻限が近づいて来ていることを表していた。


「ああ。これならちょうど良さそうだ。さあ、お嬢さん。魅惑の花が彩る神秘の楽園へと共に参りましょう」


 思っていた以上に先ほどの甘い雰囲気に当てられてしまっていたようだ。

 まるで何かに酔っているかの如く、普段口にすることがない言葉たちが飛び出していった。


「ふふふ。まるで歌劇の台詞のようね。それではエスコートをよろしくお願いしますわね、お・う・じ・さ・ま」


 ぐふう……。

 やはり慣れないことはするものじゃあないな。妻が乗ってくれたので余計な恥をかくことはなかったが、その代わりに強烈なカウンターをぶちかまされてしまった。


 このまま彼女を抱きしめてベッドに、……と、この流れはさっきもやったのだったか。


 結局俺たちが家を出たのは、夕日が西の地平へと沈みかける頃になってしまったことだけ追記しておく。

 その間に何があったのか?

 それは黙秘させてもらうとしよう。


 生い茂る木々によって日の光が遮られてしまうためか、森の夕暮れは早い。俺たちが桜の木の元の到着した時には、暗闇が薄っすらと世界を包み始めていた。

 そんな薄墨を垂らしたような空間にほんのりと色づいた花々が浮かび上がる様は、魔法なる不可思議な理が存在し、竜などの想像上の生き物が実在するこの異世界においてなお、幻想的なものであった。


「……ヒュートの言葉の意味がようやく理解できたわ。これはまさしく魅惑の花が彩る神秘の楽園ね」


 心の底から感動しているその様子から、妻に他意はないことは分かっているのだが、なぜだかもやっとした感情に捕らわれてしまう。

 これからは妙に格好をつけることは控えていこうと心に決める俺なのだった。


「昼の明るい中で見る桜も綺麗だけど、こうして暗くなってから見るのもなかなかオツなものだろう。これが、俺の一番好きな桜の楽しみ方さ」


 そんな内心はおくびにも出さずに、夜桜の美しさを語っていく。

 本当は夕暮れから少しずつ宵闇へと移り変わりゆく景色を見せたかったのだが、それは来年のお楽しみに取っておけばいいだろう。


 こうしているとケリをつけたはずの、整理をつけたはずの望郷の念がむくりと頭を持ち上げてきたのを感じた。

 それはいま目にしている光景が、数少ない幼少の頃の楽しい思い出と重なって見えるからなのかもしれない。


 滲む景色に慌てて上を向く。

 どう足掻いたところで過去に戻る事はできないし、過去を変える事もできはしない。だからこそ、時に残酷なほど美しく見えてしまう。

 しかし、それは今が不幸であることと同義ではなく、未来が暗鬱たるものだと決めつけるものでもない。


 今の俺にはかけがえのない人がいる。

 時に支え、時に叱ってくれる優しくも厳しい人。

 そして何より、俺の想いに応えてくれた愛しい人だ。

 妻と、アリシアと共にこの世界で生きていく。それはきっと素晴らしい毎日となるはずだ。


「私はここに居るわ。ずっと、あなたの隣に」


 ぎゅうっと手を握られたかと思うと、すぐ側で愛しい人の声が聞こえた。それだけで温かな気持ちで心が満たされていく。

 いつしか俺の両目からは涙が溢れていた。


「ああ。ずっと、一緒だ」


 せめて声がかすれないように一言ずつ嚙みしめるように口にする。

 そんなちっぽけな男の意地などきっとお見通しだったのだろう、握られていた手のぬくもりが消えたかと思うと、今度は背後から包まれるように抱きしめられたのだった。


 こうして今年の花見は、俺にとって妻がいかにかけがえのない大切な存在であるのかを改めて認識する機会となったのだった。


 と、これで終われていたら良かったのだが、実はこの話はもう少し続くことになる。

 しかも残念な方向に……。


 どんなに言葉を重ねたところで言い訳にもならないので単刀直入に言ってしまうと、男の本能というのは場をわきまえない愚か者だということである。


 早い話、背中に押し当てられた大きくて柔らかい二つのふくらみを堪能しようと、知らず知らずのうちに体を小刻みに揺すらせていたのだ。

 だが、あくまで無意識化の行動であり責任は男の本能の側にあるということを主張させて頂きたい!


「……ヒュート。この感動的な雰囲気の時にあなたは一体何をしているのかしら?」


 そのことに気が付いた妻が発した言葉を、俺は生涯忘れることができないように思う。

 一切の感情が込められずに淡々とした口調で告げられたそれを聞いた瞬間、股間が縮み上がるどころか体中が竦んでしまった。

 地震・雷・火事・親父。怖いものの代表格と言われるそれらが可愛らしいものに思える程の恐怖を、その時の俺は感じることになってしまったのだった。


 元勇者の妻は最強であると同時に最恐でもあった。


 その後、何とか謝り倒して妻からの許しを得ることができたのだが、その代わりに毎朝欠かさずに彼女の好物である甘い卵焼きを提供することと、このたび幸運にも新たに妻の好物へと加わったデミグラス風ハンバーグを、休日の『月の日』ごとに作ることの二つが、俺の仕事として追加されることになったのだった。


 追記。持ってきた弁当は妻から許しを貰えた後に二人で夜桜を眺めながら美味しく頂くことになった。

 そして翌日の大花見大会は、記憶から抹消したくなるほどの大騒ぎとなり、俺たちが持ち込んだ料理は一瞬のうちに食べ尽くされるのだった。

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俺妻勇者 ~俺の妻が世界を救った勇者だったらしい~ 京高 @kyo-takashi

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