第8話 変わらないこと
ミコさんたちと待ち合わせした場所は、前回と同じ『
「気分が、優れないので私はここで……」
進んでいく途中でケイコさんが離脱した。霊心酒が悪酔いしてしまったらしく、ぐったりと近くのベンチの上で横になってしまった。「むぐぐ」とうなりながら、口を抑えている。
「大丈夫ですか!?」
「えぇ、どうやら2日酔いみたいなものですねぇ」
頭を押さえながら、ケイコさんは天を仰いだ。
「ここで休んでから、帰ります……」
「はい! お気をつけて」
「いろいろと助かったよ。ビンタ効いたぜ」
ツキヤがに
「どうしました、虫歯ですか?」
「なに……覚えていない……?」
「ごめんなさい頭がガンガンして」
ケイコさんは辛そうに頭を押さえた。どうやらお酒が相当効いているみたいだ。
「本当に覚えていないんですか?」
ふるふると首を振るケイコさん。
ツキヤは肩を落として、ケイコさんに「やべぇな霊心酒」とつぶやいて別れを告げた。
新宿と神保町間は徒歩で約1時間。恐ろしく長い道のりで、ヒィヒィ言いながらも、何とかたどり着くことができた。電車に乗れば15分もかからないのに、幽霊っていうのは
30分遅れで喫茶店『
「こんにちは、可愛らしいお嬢さんね」
お婆さんは奥ゆかしさを感じさせる、上品な笑みを私に向けた。思わず心が温かくなるような優しい微笑みだった。
そうか……この人がユカリさんか。
綺麗に染められた白髪と、ゆったりとした服装が彼女の人柄を物語っている。人当たりが良さそうで、ひだまりの中のベンチが似合いそうな女性だ。ミコさんにそっくりだと言った、ツキヤの気持ちも分かるような気がする。
「すいません、遅れてしまって。ハルカと言います。初めましてユカリさん」
「初めまして。随分と急いで来たのね」
ユカリさんは私にそっとハンカチを手渡した。彼女の
「たまたまお祖母ちゃんと一緒に神保町を散歩していてね。ハルカちゃんいるかなー、って思って。ごめんね、急がせちゃったみたいで」
「とんでもないです。むしろナイスタイミング……です」
「あはは、そっか良かった。何飲む?」
「えーと、コーヒーを」
本日のコーヒーを頼んで2人の前に座る。
2人には見えていないが、ツキヤがユカリさんの真正面に座るような格好だ。ユカリさんの手元にはピカピカの『去りゆく恋』が置いてあった。
軽く自己紹介したあとで、ユカリさんが私が持ってきた『去りゆく恋』に目を向けた。
「それにしても、まさかこんな若い人がこの本をねぇ……」
「でしょう? 私もびっくりしたんだから」
ユカリさんの言葉にミコさんが
「古本屋で見つけて気に入っちゃって」
そう言いながら、隣に座るツキヤにちらりと視線を送った。さっきまで腕まくりしていた威勢の良い姿はどこへやら、そこには顔を青くしてダラダラと汗を流すツキヤの姿があった。
土壇場になって再び緊張と恐怖に襲われているようだった。大丈夫か、これ。気合を入れてくれるケイコさんがいないのが悔やまれる。
「どうしたの、なにか忘れ物?」
「あ、いや、なんでもないです!」
隣のヘタレ幽霊から目をそらす。
しかし、ここまで来てしまった以上はやるしかない。どうやって切り出そうかと考えていると、ユカリさんの方からその話題をふってきた。
「どうでしたか『去りゆく恋』は?」
そう言ったユカリさんは、相変わらず穏やかな笑顔のままだった。唐突な質問に、私は思わず動揺してしまった。
「あ、あの。すごく……良かったです」
「そうよねぇ、私も同じ感想よ」
「ほ、本当ですか?」
「嘘はつかないわよ」
ユカリさんはおかしそうにクスクスと笑った。少なくとも幻滅なんてしていない。それを聞いて、不安の気持ちが少し晴れた。
隣のツキヤから唾を飲み込むゴクリという音が聞こえる。ここまで来たら核心に触れないわけにはいかない。
私も覚悟を決めて、ユカリさんに切り出した。
「あのう、プライベートな事なっちゃうんですけど、質問良いですか……?」
「もちろんよ」
「この小説に出てくるタイヨウさん、つまり作者のツキヤさんってユカリさんと恋人だったんですよね」
「そうよ、昔からの幼馴染」
「その事を踏まえてなんですが……小説の結末について、どう思いました?」
核心に触れる質問にさすがのユカリさんも考え込むように、手元の『去りゆく恋』にジッと視線を注いだ。
『去りゆく恋』の結末。ツキヤが納得いっていないと言った物語の終わり。それをユカリさんはどう思ったのだろう。
緊張しているからか、コポコポとコーヒーをドリップする音が、やけに大きく聞こえた。
「…………」
ユカリさんは変わらずに穏やかな笑みのままだった。懐かしそうに、テーブルの上の『去りゆく恋』を見つめながら口を開いた。
「何と言ったら良いのかしら。最初に読んだ時はもちろん悲しかったわ」
「悲しかった……ですか」
「えぇ、この人はこんな思いを抱えていなくなってしまったんだ。私は何も知らなかったんだ。あの人の苦しみも、悲しみも、悩みも何も聞いてあげることが出来なかったと、そう思って悲しくなった……けれどね」
ユカリさんは沈んだ声から一転、顔を上げて、目を細めて私を見た。
「……けれど、やっぱり彼の書いた物語は素敵だった。旅だった時と何も変わらずにいてくれた。ちゃんと彼は夢を描いていた」
「夢……」
「えぇ、彼は夢を抱いたまま生きていた。淡くて
ユカリさんはそう言って、混じり気のない純粋な笑みを浮かべた。皺だらけの頬をくしゃっとして、私の方を向いていた。それ以上の言葉を重ねることもなく、ユカリさんは愛おしそうに手元の本を撫でていた。
「……素敵ですね」
「そうかしら」
「はい、とっても」
私の言葉に、ユカリさんはにっこりと微笑んだ。
この人は……ユカリさんは、悲惨な結末の奥にあるツキヤの姿を感じ取っていてくれた。ツキヤ以上にツキヤのことを分かっていた。
ユカリさんは物語を受け止めて、どれだけ距離が離れていても、変わらずにちゃんとツキヤのことを見ていたんだ。
「ユカリ……」
ユカリさんが打ち返した言葉はしっかりとツキヤにも届いていた。先ほどから身じろぎもせず、ユカリさんの言葉を聞いていたツキヤは、穏やかで柔らかな声で呟いた。
「……ありがとう」
それだけ言うとツキヤはユカリさんの顔を見た。何十年越しにテーブルを隔てて2人が向き合っていた。
リテイク……そうだ、これが。
2人のいる空間だけ時間が巻き戻っているかのように思えた。ユカリさんも、見えるはずの無いツキヤの方をまっすぐ向いていた。
それは、まるで恋人みたいに。
「そういえば最近ね、彼の姿が見えるような気がするの」
「ツキヤ……さんが、ですか?」
「えぇ、もう年だからかしら」
まさか目の前に座っていますとは言えない。こんな時に、サダメさんのサングラスがあればとは思ったが、それは……やっぱり少し野暮なのかもしれない。
チラリとツキヤを横目に見て、身を乗り出してユカリさんに質問した。
「……今でもツキヤさんのことは好きですか?」
私の質問にユカリさんは小さく手を振って、クスリと笑った。
「いえ、それは無いわ。私が愛しているのは夫だもの」
ユカリさんはそう言って、薬指のリングを見せた。
……しまった、悪い事を聞いた。ツキヤからの
「でもね」
心の中で反省していると、ユカリさんはさらに言葉を続けた。
「もう一度、彼の描いた物語が読みたいわ。田んぼの隅っこで、泥だけになった後で、真っ赤な夕焼けに染まりながら、楽しそうに物語を読む彼の声が聞きたいかしらね」
ユカリさんは遠い昔に思いを
隣に座るツキヤも彼女と同じように、そっと目を閉じていた。私やミコさんには感じとることのできない、彼らにしか見えない光景がそこにはあるようだった。
時計の音すらも消えていってしまいそうな、不思議な静けさが包んでいた。
そして2人は一緒のタイミングで目を開けた。土の匂い、穏やかな夕景から名残惜しそうに意識の
「あ……」
隣に座るツキヤは
「……それは、きっと彼も同じだと思います」
「えぇ、そうだと良いわ」
ユカリさんは嬉しそうに言って、コーヒーに口をつけた。カチャリとソーサーとカップがぶつかる音を合図に、再び元の世界に戻った感じがした。空気に色がついて、さっきよりも幾分か晴れやかさを増した世界が開けたように思えた。
「あら、もうこんな時間」
腕時計を見たユカリさんが、驚いたように言った。見ると私たちが喫茶店に来てから1時間以上は経っていた。
「もっと話したいけれど。今日はお暇しましょうかね」
ミコさんの手を借りて、ユカリさんがゆっくりと立ち上がる。ミコさんが私にぺこりと頭を下げてお礼を言った。
「ハルカちゃん、ありがとうね。こんな素敵な顔のお祖母ちゃんが見れて良かった」
「はい、私もすごく楽しかったです」
薄手のコートを羽織ったユカリさんも、ニコリと笑いながら首を縦に傾けた。
「楽しかったわ。まるで昔に帰ったかのようだった」
ユカリさんは私の分のコーヒー代も払ってくれた。「ごちそうさまでした」とお礼を言って、地下鉄の駅まで見送った。ミコさんとユカリさんは何度も私に手を振って、地下鉄への階段を降りて行った。
彼女たちの姿が見えなくなった後で、ツキヤがポツリと呟いた。
「『去りゆく恋』の結末、ようやく分かったよ」
「……うん」
彼の表情はもう頼りなげな子供みたいでは無くなっていた。最初にアオユリ書店に来た時のようなヤサグレた感じでも無かった。
それはそれで少し寂しいことなのかもしれない。物語が完成するということは尾崎ツキヤという幽霊の未練が晴れて、成仏するってことだ。
「私も……手伝うよ」
肌寒い秋の風が吹く。コンクリートの地面の落ち葉がヒラヒラと舞い上がる。寒々しい街角で幽霊作家は私とは違う場所を見ていた。帰る人たちで賑わう地下鉄の入り口を、彼女たちが去っていったその場所を、ツキヤはいつまでも見守っていた。
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