第7話 あなたが作家であるならば


 サダメさんに起こされて、顔を挙げたツキヤは眠そうに目をこすった。


「あれ、もう朝?」


「昼よ、ほら見なさい」


 ツキヤは横を向いて私たちの姿を見ると、あからさまに嫌そうな顔をして椅子から立ち上がった。


「……帰る」


 後ずさりをして逃げようとしたが、サダメさんが無言で取り押えた。甚平の首根っこの部分を掴んで、そのままバゴンとカウンターに叩きつけた。


「いてー! 離せぇー!」


「ダメダメ、そろそろ年貢の納めどきよ」


 ツキヤは必死に暴れていたが、立ち上がることすらできなかった。骨と皮しかないガリガリ作家の筋力では、抵抗することすら難しそうだ。


 私は捕まった子猫みたいなツキヤに、ミコさんからのラインのメッセージを見せた。


「ほら、行くよ。今日の朝、連絡が来たの。ミコさんとユカリさんが待ってる」


「やっぱいい。断ってくれ」


「どうして……もう少しじゃない」


「どうしてもだ」


 そう言うとツキヤはプイと私の顔から目を逸らした。完全に行く気を無くしている。


 なんと声をかけて良いのか分からずに頭を悩ませていると、突然ケイコさんが勢いよく立ち上がった。


「ちょっとよろしいですか?」


 ガタン!、と自分の椅子を蹴り飛ばしたケイコさんは、ゆったりとした足運びでツキヤの正面に立った。


「ケイコさん……?」


 あれ?

 ……なんだ、なんか嫌な予感がする。

 

 足運びが妙に静かだ。他の景色に目を向けることなく、ケイコさんは静かにツキヤの前に立った。


「なんだよ」


 嫌な予感は的中した。


 ケイコさんはスッと右手を挙げると、そのままツキヤの頬に向けて振り下ろした。風を切った平手が勢いよく頬に当たる。


 バッチーンと胸がすくような良い音を鳴らす、見事なビンタだった。たまらずツキヤはそのままカウンターの下に転げ落ちた。


「ぐわぁあああ!」


「しっかりしなさい! このボンクラ作家!」


 再び攻撃。

 さらに、まさかの口汚い罵倒。


「ど、どうしたのケイコさん!?」


 慌てて駆け寄ると、ケイコさんの顔は少し赤くなっていた。照明のせいじゃない。トロンと火照ったような眼差しをツキヤに向けている。


「全部、飲んでる……」


 霊心酒を入れたグラスが空っぽになっていた。私たちが会話に夢中になっている間に、ケイコさんはなみなみ注がれていた酒を飲んでしまっていた。


「あ、それ度数、結構高いの」


「なんと……」


「立ち上がりなさい、ボンクラ作家」


 だめだ、完全にイっちまってる。


 私の言葉を聞く様子もなく、ケイコさんはツキヤに詰め寄った。迫り来るケイコさんに対して、ツキヤは身体を起こしてフラフラと立ち上がった。


「な、何しやがるんだ……」


「あなたこそ何しやがるんだ、です。いつまでそこに、そうしているつもりですか」


「俺の勝手だろ」


「では、なぜ早く成仏しないのですか。未練がましい」


「何だと……!」


 ツキヤはケイコさんを鋭く睨みつけた。こんな顔が出来るのかと思うくらい、ツキヤは怖い表情をしていた。


 だが、対するケイコさんも一歩も引こうとしなかった。毅然きぜんとした表情で、ツキヤを睨み返した。


「早く成仏すれば良いじゃないですか。どうせ何もできないなら、綺麗さっぱり忘れなさい。今のあなたは作家ですらありません。ただの馬鹿たれです。三文作家以下のゴミ野郎です」


「ケイコさん、それはちょっと言い過ぎじゃ……」 


「大丈夫、ハルカちゃん。全くもってケイコちゃんの言う通りよ」


 間に入ろうとした私をサダメさんが止める。タバコをふかしながら涼しげな顔で、サダメさんはツキヤに語りかけた。


「幽霊として化けて出てくる人間はね。何か理由があるの。伝えきれなかった思いだとか、後悔だとか、悲しみだとか、そういうものを解決するまで成仏できない。だから、そのチャンスが目前に迫っているのに足を踏み出せないような幽霊は、幽霊である価値はないわ。ゴミよ」


「俺が……ゴミ」


「ゴミね」


「ゴミ野郎ですね」


 まるで心を突き刺すような言葉のナイフ。

 2人にボロクソに言われて、ツキヤは愕然がくぜんとしていた。相当傷ついているようだ。わなわなと口を震わせて、言い返すことも出来なかった。


 棒立ちになった彼の姿を見て、少し可哀想になったが、同情しても仕方がないことは分かった。


 ……傷つくとは、その言葉が的を得ているということだ。


 黙りこくってバーの床を見つめているツキヤに、ケイコさんが再び言葉をかけた。言い聞かせるように、ケイコさんは語りかけた。


「ツキヤさん」


「なんだよ、分かってるよ、俺はゴミだ。あんたの言う通りだ」


「……ここで立ち止まったら、本当にあなたは何者でもなくなってしまいますよ。ゴミではなく人間であり続けたいのなら、今は向き合う時です」


 さとすようにケイコさんは言葉を続けた。


「これは死んでから与えられた最後のチャンスです。不思議な巡り合わせで得た最後の最後のチャンスです。……私はそれをうらやましくすら思いますよ、ツキヤさん」


 ケイコさんの言葉にツキヤはピクリと肩を震わせた。


 何を考えているのか、ツキヤはしばらく死んだ魚のような目を床に向けたあとで、顔を伏せたままドカッと乱暴に席に座った。下を向いたまま、ポツリとこぼすように語り始めた。


「……あの『去りゆく恋』、本当はあんまり読んでもらいたくないんだ」


「どうしてですか……?」


「ユカリは……俺が作った物語の最初の読者だった。あいつが面白いって言ってくれたから、俺は書き続けることができたし、書こうと思えた。でも……この話だけはダメだった」


 ツキヤはゴクリとつばを飲み込んだ。


「『あなたの話を読むと夢を感じることができる』……それがあいつの口癖だった。俺が描いた話をユカリはいつも楽しそうに読んでくれた。けれど、これは違う。あまりに暗すぎるし生々しすぎる。そういう感想をあいつから聞くのが俺は今、一番怖い」


 ツキヤはそう言うと、近くのテーブルから霊心酒をかっぱらって、喉の奥に流し込んだ。


 何かに怯えるように、怖がるように。ツキヤは大きく息を吸って、そのまま黙り込んでしまった。


 ……怖い、か。


 昨日も聞いた言葉だった。


 一番近くにいた人の感想だから、怖い。一番大事に思っていた人の言葉だから、怖い。一番近くにいた人の気持ちを聞くのが、怖い。愛していたからこそ、それが否定された時が一番、怖い。


 臆病だと笑うのは容易いことだ。だが、一歩踏み出す時の怖さはその人にしか分からない。


「ツキヤ……」


 彼は言葉を重ねるごとにどんどんと縮こまってしまった。このままだと、本当に消えてしまいそうなほど彼の背中はどんどん小さくなっていた。


 そんなツキヤの姿に、ケイコさんは振り向いて私の方を見た。


「ハルカさん、言っておやりなさい」


「おやりなさいって……私が?」


「はい、あなたも『去りゆく恋』を読んだのでしょう。ならば言うべきことは分かるはずです」


 私を見るケイコさんの眼差しは真剣そのものだった。酔っていたはずなのに、その瞳は揺らぐことなく私の顔をまっすぐに見ていた。


 言いたいこと。


 『去りゆく恋』を読んで私が思ったこと。すっかり縮こまってしまった幽霊作家にどんな言葉をかけてあげれば良いだろう。


「思ったことを言ってください。それが今、一番必要なことです」


「思ったこと……」


「はい、素直に、率直に飾らない言葉で」


 ケイコさんが何を考えているかは、私には分からなかった。私は批評家ではない。月並みの平凡な読者だ。そんな私がかけられる言葉は、チープなものでしかなかった。


 それでも言えるべきことがあるとしたら……、


「面白かったよ、ツキヤの小説」


「……」


「えーと、そう、面白かった。だからもっと自信を持ってよ。あなたは間違いなく……小説家なんだと思う」


 昨日、『去りゆく恋』を読んで、思ったことはそんなことだ。


 面白かった。

 何を書きたいか、何を伝えたいかが、ひしひしと伝わってきた。確かに暗い話だったけれど、彼の書いたものは間違いなく『小説』だった。


 小説というのは、人の心を動かすものだ。時に乱暴に、時に慎重に、時に劇的に、時に静かに、時にポジティブに、時にどこかに放り込む力があるものが小説なんだと思う。


「ツキヤはもっと自信を持っても良いと思うよ」


 一言でも心を震わせるものがある限り、それは駄作なんかじゃないはずだ。


 そんな作品を作れる人は間違いなく小説家だ。たとえユカリさんに否定されても、世界の全部に見放されたわけではないはずだから。


「ほら、少なくとも私たちは、さ。そんなあなたに協力しようって思ったんだし……」


 そう言ってツキヤに……小さくなってしまった彼の背中に視線を落とす。


 テーブルに突っ伏したツキヤは、身じろぎせずに私の言葉を聞いていた。何も言わずに押し黙ったまま、顔を伏せていた。彫像のようにピクリとも動かなかった。


 身動きすらしていない。ひょっとして寝ているのだろうか。


「あのー、ツキヤ……?」


「大丈夫、狸寝入りよ」


 サダメさんがニヤニヤと笑ったまま、タバコをふかしていた。ツキヤの顔を覗き込むと少しだけ頬が涙に濡れているのが分かった。


 幽霊も涙を流すのだと、私はこの時初めて知った。


「もう十分そうですね。ハルカさん、あとは私が」


 ケイコさんは私に微笑みかけて、そっとツキヤの隣に座ると、さっきまでとは打って変わった優しい口調で語り始めた。静かなトーンだったが、店内に響き渡るようなんだ声だった。


「ツキヤさん、そのままで良いです。寝ているままで構いません」


「……」


 ツキヤは相変わらず、ピクリとも動かなかった。サダメさんはそんなツキヤにゆっくりと語り始めた。


「誰にでも怖いことはあります。私だって評価されるのは怖いですし、ましてや好きな人からならもっと怖いです。でも、私たちはそれを乗り越えなければ先に進めないのです」


 ケイコさんは一呼吸置いて、再び口を開いた。


「……人間なら、ましてや作家なら、更にましてや幽霊作家なら、一歩先に進まなければ、ペンを走らせなければ、私たちは永遠にどこにも行けないんですよ、ツキヤさん」


 ケイコさんは伏せたままのツキヤに対して、そんなことを口にした。

 一歩先に行かなければどこにも行けない。


 そして、その一歩が果てしなく険しいものに思えることもある。

 踏み出した先が火の海だってこともある。針のむしろになっているかもしれない。逃げ出した方がずっと楽だ。


 ツキヤが今いるのはそんな瀬戸際せとぎわなんだと、ケイコさんは優しく言い聞かせていた。


「一歩踏み出した先にはきっと何かが待っているはずなんです。そう信じる事でしか、私たちは進むことが出来ません。残酷ですが、そう信じ続けて進むしかないんです」


 ケイコさんはチラリと私の方を横目で見た。


「……でも、大丈夫です。あなたには少なくとも、頼もしい読者がいます。足を踏み出す理由はそれで十分なはずです」


 ケイコさんはにっこりと笑った、穏やかに、ホッとするような笑みで。彼女の言葉にツキヤは長い沈黙で返した。


 何も言わない時間がゆっくりと流れた後で、ようやくツキヤの口が開いた。


「……ったよ」


 突っ伏していた幽霊作家は狸寝入りをやめて、サッと顔を上げた。


 座っていた椅子を蹴飛ばして、勢い良く立ち上がると、半ばやけっぱちな口調で大きく叫んだ。


「分かったよ、行くよ! それで良いんだろう! 俺だって小説家だ、こうなったら、とことんやってやらぁ!」


 それだけ言うと、ツキヤは残りの霊心酒を飲み干した。甚平を肩までまくり上げて「おっしゃあ」と叫んで気合を入れた。


 パチパチパチ。

 威勢良く気炎を上げたツキヤに、バーの客から拍手喝采が飛んだ。


 さっきまで馬鹿騒ぎしていた客たちは、どうやら私たちのやりとりを聞いていたらしい。野次馬たちはことが上手く運んだのを見届けると、調子よく拍手をし始めた。


「良いぞ、良いぞぉ」


「あらぁ、お兄さん見違えたヨゥ」


「お嬢ちゃんたちも頑張ったぁ」


 呂律ろれつが回っていない完成が飛び交う。

 ケイコさんとサダメさんも、ドヤ顔で歓声に応えるツキヤを嬉しそうに見ていた。


「良かった、良かった」


 随分と骨の折れる一歩だったが、これで準備が整った。

 気がつくと、スマホの時計が3時を告げていた。ミコさんたちとの待ち合わせまで時間がない。


「あ、急がないと! ツキヤは電車に乗れないし……!」


「む、そうか。早く行くぞ」


「全く誰のせいだと……。サダメさんありがとうございました! バタバタしちゃってすいません」


 お礼を言って急いで出ようとすると、サダメさんから声をかけられた。


「ハルカちゃん、そのサングラスは回収ね」


「そうでした! 忘れてました」


 すっかり目に馴染んでいたサングラスを取り外す。


 すると、さっきまで拍手をしていた幽霊たちの姿が消えて、シンとした静寂があたりを包んだ。唐突に耳栓をかけられたみたいな、圧倒的な空虚感だった。


 目をキョロキョロさせる私からサングラスを受け取って、サダメさんは優しく微笑んだ。


「あまり幽霊に近づき過ぎるのも考えものよね。いなくなると何かが足りないように思える。でもきっと見えないの方が正しいのよ」


「そう……ですか?」


「えぇ、きっと分かる時が来るわ。また困ったことがあったら来てね」


 意味深な笑みを浮かべて、サダメさんは私たちを送り出した。そう言われて私は前方を浮かぶツキヤとケイコさんを見た。


「どうかしましたか?」


 ケイコさんが振り返って、私の顔を見た。本を持っている私には2人の顔も姿も見える。そこにいるというのは、確かに分かることだ。


「ううん、なんでもない」


 首を横に振って、神保町へと帰っていく。待ち合わせの時刻は迫っている。今はやるべきことだけを考えよう、そう思って私たちはたくさんの車が行き交う靖国通りを駆け抜けていった。


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