第2話

「……」

私は無言で彼の姿を見つめた。彼の姿はおよそ常人とは言えないような格好で、この暑い日に暑苦しい厚い薄汚れたジャンパーにこれまた茶色く汚れたジーパンを履き、靴は剥がれかけの茶色の革靴を履いていた。彼の衣装を簡単に表現するであれば“茶色”という表現に尽きるだろう。

 彼は非常に疲れている雰囲気だが、酔っ払って倒れている人間のようには思えない。もしかしたら、昨日の夜の酔っぱらいとは違う人間なのかもしれない。それはそれで変な人が集まってきていることは問題だが。


「はやく……水を」


私はこれほどまでに水を懇願する人間を見たことがない。それは私が温暖育ちだからという理由ではなく、ほとんどの人間はごく普通に水を飲むことができるのだから、そもそもそういう事を考える必要がないのだ。


「なぜそんなにも水がほしいのですか? 欲しければコンビニとか、なんだったら近くの公園の水でも飲めばいいじゃないですか」

「冷たいことを言うな。水をいっぱいくれという言葉に対してそんなに冷たい返答をしなくてもいいじゃないか?」

「別に渡しても良いのですが、あなたの素性やなぜこんなところにいるのかが分からない以上、何も与えたくないというのが正直なところです」


 私は本音をつらつらと述べた。こうすればきっと彼は「そうか……それなら結構だ、さようなら」と言って立ち去ってくれると思ったからだ。

しかし男は、

 「それなら俺の素性を話せば水をもらえると言うんだな?」

 「……まぁそういうことになりますね」


 まさかそこまで頭が回るとは思っていなかった。正直な話、彼の格好には良識がなく非常に貧相に見え、それがまるで能力値を表しているように思えた。しかし、彼は以外に頭が回るようで、会話の穴を突いてきたのだ。


 今の時刻は6時を少し回ったところ。今日は一限から哲学の講義が入っている。大学の出席は全てカードリーダを通して行われるので、遅れる訳にはいかない。私がチーターの様に早く動いても大学は30分はゆうに掛かるし、そもそも体力が持たないだろう。朝食やその他諸々の用事をしないとしても、後二時間でこの男を片付けなければならない……あれ、意外と余裕かも。


 「俺は旅人だ。それ以上でもそれ以下でもない」


 男はそう言って「さぁ、素性を明かしたんだ。早く水をいただこうか」と言った。


 「それは素性とは言いません」

 「じゃあなんと言うんだ?」

 「自称しているといいます」

 「じゃあ、何を言えば気が済むんんだ?」

 「せめて名前とか、もし言えるのであれば職業とかどこから来て、どういう理由でここにたどり着いたのか。それを教えてくれれ水とかなんだったら食料も提供しますよ」

 「じゃあ、お前さんは俺が一万渡すから初恋の女との夜の思い出を教えろと聞かれたら、答えることができるか?」

 「残念ながらまだそういう素敵なことはないんですよね」

 「……」


 なぜか男は無言になった。私がまだ初体験を終えていないことがそんなにも罪であろうか? 私ぐらいの年齢でまだ女性との遊戯に興じていない素晴らしき紳士は世にごまんといるはずだ。我々こそが女性のことをしっかりつ知り尽くしている真の紳士なのだ。

 

 「まぁ、お前の見てくれでやってたら驚きだから、相応ってことか……。やっぱり服装はその人間の内情を表してるんだな」

 「その理論で行くと、あなたは茶色が好きなんですか?」

 「? 俺が好きなのは紫だが?」


 悲しいことに会話が成立しない。もちろん、私が彼に合わせようという気持ちがないので、今後一切彼との会話はすれ違う一方であろう。

 それであればこの窮地を脱出する方法は唯一つである。これ以上渋っていても私が苦しむ一方である。


 「……もういいです。あなたの望む通り水を一杯差し上げましょう。それで満足ですか?」 

 「満足も何も、俺はそれ以上を望まない健全な人間だ。嘘なんて今まで生きてきた中でついたことがない」


 ニヒルな笑顔でそう言ってくる彼の姿はまさしくペテン師のようだった。本当にこれ以上彼に関わったら、悪趣味なツボを高値で購入させられるかもしれない。

 私は彼に「では水をとってまいりますので少々お待ちを」と断りを入れ、静かに扉を締めて、足音をバタバタと立てながら急いで、頼りない台所へと向かった。蛇口はいつもやかんに水を貯めるために利用しているが手入れはしていないので、水垢が現代アートのような様相を装っていた。

 私はいつも利用している中古の紙コップではなく、貴重で高級な新しい紙コップを台所の下から取り出した。

 あんな奴のために、なぜにこんなにも貴重な紙コップ(30個入り98円)を使わなければならないのだ。

 私にも怒りという感情はまだ存在した。ギリギリのところで私はまだ人間だったようだ。

 私は怒りに震える右手で蛇口の開口口を開き、左手で紙コップに蛇口から流れ出る水を収めた。アパートの水道水は地下水から組み上げたものを利用している方法なので、冷蔵庫で冷やしたような冷たさをいつも味わうことができる。私がこのアパートを選んだ決め手でもある。


 なみなみとは注がず、紙コップの中ぐらいの位置で止めた。これが私にできる唯一の抵抗である。もし何か言われたら「水道が壊れてこれぐらいしか出なかった」と、適当な言い訳を述べればいいだろう。

 私は、およそ喉を乾かす事を許さない水量の紙コップを持ちながら、不審者の待つ玄関先へとむかった。

 

 扉を開いて「おまたせしました」と言って下を見ると、そこにはさっきまで横たわっていた不審者の姿が無かった。


 「…………」 あまりに衝撃的な事象であったので、私hあ思わず絶句してしまった。絶句と言う言葉は様々な文献、小説、漫画、アニメで聞いたことがあるが、事実この感覚を味わったことのある人間は少ないはずだ。人間、衝撃の強いものに対してはそもそも耐性があるので耐えることができると、それがいきなり新たに衝撃を与えてくると黙り込んでしまうものだ。


 ただ、私は絶句した後にあることに気づいた。それは、これで晴れて私は無必要な意味のないしがらみから解かれたということだった。これで、ゆっくりと大学へ行く準備、朝食、なんだったら今日は気分がいいからラジオ体操でもしてから出かけようか! 

 嫌なことがあった後の開放感というのは、なんとも気持ちがいいものであった。

 一度扉を全開にして、目の前に広がる町を眺めた。そして上を見上げると神が私を祝福するがごとく、天まで見通せそうなほど透き通っている青空があった。

 始まりは悪くとも、今日は一日良い日になりそうだ。そう思いながら、右手に持っていた紙コップの水を飲み干した。思えば起きてから水を一口も口にしていなかったので、この量でも十二分に私の英気よみがえらせることが出来た。

 さぁ、今日も大学生生活をしっかりと果たそう! そう誓い、私は扉をゆっくりと締めて、ルンルンという擬音がみえそうなぐらいな陽気な歩みで居間へと向かった。

 

 今思い返せばこの行動すべてがなんとも味の薄い、お湯を入れすぎたホットココアのような伏線だった。つまり私の考えは浅はかだったのである。


 「どうした? なんで玄関まで行ったんだ?」

 「それは水を不審者にとどけるためですよ。でも、居なかったから飲み干しちゃいました」

 「いや、俺ならここにいるぞ?」

 「は?」


 思考停止……というよりかは目の前を疑ったという方が正しい表現だろう。たしかに私は玄関までいき、彼が存在しないのを確認した。だから良い気分でここまで戻ってきたのだ。

 それがどういうことだろうか。存在しないはずの彼がそこには居て、なんとも実家のような格好をしてくつろいでいるのである。


 「早く水をくれ、ほら」 図々しく指図するその姿は、まさしく茶色い不審者であった。

 

 「どうしてあなたがここにいるんですか?」

 「いや、水を飲むんだったらやっぱり部屋だろ」


 意味不明な理由を私の質問に返答をしてくる。


 「断りを入れてから部屋に入るのが筋では?」

 「じゃあ、今言う。すまん、部屋に入れてくれ。そして水をくれ」

 「……」

「まぁ、もう部屋に入ってるから部屋に入れてくれというのは少し変な感じだな」


 変な感じも何も、私がこの現状を正常と認識していると彼は思っているのだろうか?

 答えは否だ。

 もし、私がこの現状を理解で理解出来、了承できるほどの器を持っているのであれば、もう少し豪勢な人生を歩んでいるはずだ。つまりは、私の人生がこの自体を以上と捉えるだけの理由を示しているということである。


 「この部屋にはテレビも冷房もないのか。本当にここは平成時代の家なのか? 憲法ですら君を助けているのだから。憲法25条、すべての国民は、健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するとされている、いわゆる生存権の一節。君は国民が持つことを許されている権利までも捨てるきなのか?」

「権利を行使したくても金がなくて、健康的でもなく非文化的な底辺な生活しか私には送ることしか出来ないのです」

「全く嘆かわしいことだ。君だって税金は払っているだろう?」

 「消費税であれば」

 「消費税だって立派な税金だ。税金を払っているからには憲法に保証される権利を有している。それなのに、権利を履行できない状態というのはこれは違憲だ、今すぐに国を訴えよう」

 「あの、それよりも」

 「どうした? 国会でも燃やしたくなったか?」

 「そんな大昔の学生運動みたいなことはしないですよ」


 こいつはスイッチが入ると長々と演説を始めてしまうたちらしい。これは、いやな性格の持ち主を家に侵入させてしまったらしい。ゴキブリよりもタチが悪い。


 私はとりあえずこいつを追い出すために言葉を投げかけようと思ったが、この調子では彼が詭弁で私をまくしたてあげ、しまいには私の思考を全て書き換えてしまうに違いない。これはこれはいけないことだ。

 それであればどうすればいいか? 答えは簡単だ。


 「まぁ、部屋に入ったことは大目に見ましょう。どうやって私が気づかず内容に入ったのかを知りたい気もしますが、わたしも忙しいので水を飲んだら出て行って下さい」

 「なんだ、意外と淡白なやつだな。もう少し人間味があると思った」

 「不審者に優しくする人がどこにいますか?」

 「世界中探したら一人ぐらいはいるだろう」


 駄目だ。これ以上これと会話していたら、本当に頭がおかしくなってしまう。


 私は先程使用した紙コップに再度水道水を注いだ。紙コップ越しに水の冷たさが伝わってくる。


 「どうぞ」

 「茶菓子とかはないのか?」

 「ないです」

 「そうか……それは残念だ」


水を受け取り一気に飲み干す。


 「いやー、水道水というのはこんなに美味しいものだったか」

 「ここのはとびきり美味しいのです」

 「俺の家のはヘドロのような香りがするぞ?」

 「下水が流れてるんじゃないですか?」


 会話も早々に不審者は「それじゃあ、約束通りおいとまさせていただくとしよう」と行って立ち上がった。今更であるが、彼はかなり汚れた格好をしていたが、お下劣な香りなどはせず、どちらかと言えば今どきの香りがした。なんともミントのような素敵な匂いが。


 「青年よ」


 玄関につき、扉を開ける寸で不審者は私を呼びかける。青年と言われたのは初めてだ。


 「はい?」

 「哲学の授業に遅れないほうがいいぞ? あの講師は頭のおかしいやつだから、遅れてきたやつを黒板の前に立たせて、そいつの性格がひん曲がるまで愚弄し始める。精神科に行きたくなければ、遅刻せずに行くか、休むか。どちらか選びたまえ」

 「?」

 「ちなみに、青年の部屋においてある時計。今一度正しい時間を確認したほうが良いぞ?」


 そう行って不審者は扉を開け出ていってしまった。


 なぜ、私の授業が哲学であることを知っているのだろうか? それに、時計?


 「一度もいじったことがないのだから、確かめろと言われてもなぁ」


 ただ、言われる人間というのは確認していしまう。これは人間の性というものだろうか?

 スマートフォンを開き時間を確認する。

「――!」


 スマートフォンの時計は既に8時を超えており、部屋の時計は未だ過去の時間を刻んでいた。

 私は急いで大学へ行く準備を済ませ、息つく暇もなく駅へと走り列車に乗り込み、都会の荒波に飲まれながら横浜へと向かった。


 一体、やつは何者なのだろうか? それが分かるのはこれから大体5時間後のことだった。

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腐れ大学生浪漫追跡旅行記 はいむまいむ @haimumaimu-maniyon

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