第15話

 決斗開始のブザーが鳴り響く。

 バティストの言葉に心の中を読まれたように思ったか、ブノアは一瞬腕を閉じて防御の姿勢をとりつつ、相手の出方を伺った。

 用心がすぎるとも思ったが、臆病だとは思わなかった。

 第一に、自分は接近戦を得意とするが、ブノアの能力特性上、接近することは得策でないこと。第二に——こっちの方がブノアの心の中では大きいのだが、彼には勝負を急ぎすぎて相手の術中にはまってしまう癖があるということ。創世力を身体に蓄える絶対量、そしてその行使の技術と多様さにかんしてはトップクラスながら、よく見ても全体の上の下といった地位に甘んじているのは単なる実力の差ではない。手数によって相手を制し、序盤で決着をつけるという自分の戦闘スタイルを意識するあまり、特に格上に対しては先手をとらなければ勝てないというプレッシャーになるのだ。

 しかし創世力の絶対量に劣る格下に対しては出方を見つつきっかけさえ作れればこちらの一方的展開にもちこめるとの自信はある。実際、この三年間順位が一桁下の相手に負けたことのないという安定感はこの上位に対する劣等感の裏返しとも言うべき自信に裏打ちされたものだ。

 だから、この場面にも焦る必要はない。ブノアは自分を落ち着かせる。しかし、彼が一瞬でもそう意識してしまったということは、彼の本能が一瞬バティストを強者のように認識してしまったということでもあった。

(シルヴェットを目前にして気負いすぎたか・・・・・・?)

 バティストの方はというと、全く動かないまま。廃村に見捨てられたトーテムポールのように静か。まるで始まったことにすら気づいていないかのようだ。

 しかし、次の瞬間、ブノアは驚愕した。

「やぁ・・・・・・っ」

 バティストが喉から声を絞り出す。何の無駄な力もないリラックスした身体から繰り出された正拳突き。それがまっすぐ自分に向かってくるのを、ブノアはただ見ていることしかできない。

 ブノアは思った。これがあの噂に聞く走馬燈なのかと。知覚が混乱する。まるでスローモーションを見ているようだった。いったどれくらいの速さなのかもわからない。拳のちょうど前方に一匹の蚊が飛んでいるさままで克明に見えた。その小さな五分の魂は哀れバティストの拳を避けきれないように思えた。拳は無情にぐんぐん近づき、羽音を響かせながら彼はーー

 ぶぅんぶぅんと拳の周りを戸惑うかように2・3回旋回したあと、その先にぴとりと止まってちゅうちゅう血を吸い始めた。

「……」

 ブノアは憮然とした。憮然とした表情のままで顔にバティストの「殴打」を受けた。

 ふにゅり、と鼻に柔らかい感触があった。その前に蚊はとっくに危険に気づいて満腹の赤いお腹をぶらさげてどこかへ飛び立っていった。

「バティスト……君ってやつは……!」

 ブノアは重心を後ろに預けて、距離をとった。およそ5メートルは離れただろうか。ダン、と床が裂けそうなほど大きな靴音を響かせたあと、反動力をそっくり利用して前に踏み込む。そして。

 そのまま、消えた。

 バティストは反応できない。あんな遠くにあったはずのブノアの拳が、指一つ動かす間もなく自分の顔にめりこんでいたからだ。

 鼻骨がぎぃぎぃ軋む音を聞く。

 しかし、痛みを感じる間もなく、次の一撃は来た。

「爆ぜろ!」

 ムチのようなブノアの叫び。さっきとは比べものにならない、熱さ、衝撃。まるで自分の額にナパーム弾でも打ち込まれたようだった。

 閃光。火花。爆炎。バティストは中を高く舞い、頭からフィールドに叩きつけられる。

 焦点の壊れたカメラのようにぼやけた視界に、バティストはブノアの真っ赤な顔を見た。それはこれほど弱い相手に思わず警戒のそぶりを見せた恥ずかしさか。それとも己のなかで宿敵と設定した相手のふがいなさに対するやり場のない怒りか。

 そんな想像を巡らしているあいだに、バティストは目尻から大粒の涙がこぼれ落ちて鉄の匂いを残していくのを感じた。どうやら赤いのはブノアの顔だけではなく、血に染まった自分の視界そのもののようだ。

「メセンス!」

 客席から一矢、怒号混じりの声が飛ぶ。知らない声だったが、まるで空手の声のように芯のある声だったので、バティストの意識を引き戻すには十分だった。

 バティストは丸太のように転がってブノアの追撃をかわす。ブノアは強化樹脂製の地面に拳をめり込ませるが、そのままかまわず力を込めた。地が裂け、炎が逃げゆく彼の身体を追尾する。もう一度豪炎に巻かれ、バティストはまた全身ごと跳ね上げられる。

 壁まで吹き飛ばされ、なんとかもたれ掛かるようにして踏みとどまる。不幸中の幸いか、それとも一瞬の気休めか、あまりに遠くに飛ばされたので相手との距離は空いた。ブノアは冷めた表情でバティストが構えを取ろうとするのを眺めた。意識はしっかりしているようだが、顔面から大量に出血して、ダメージの大きさは明らかだ。

 バティストは自分で自分の顔を触ってかたちを確かめる。鼻っ柱を破壊されたかと思ったが、鼻血が滝のように出るだけで骨は無事だ。代わりに額がぱっくり割れている、というより肉が抉り取られている。

 これ以上決闘を続行しても意味がないだろうことは誰の目からも明らかだった。


「見事ね、ブノア君の立ち回り」

 ナナがオペラグラスを目から外した。もう見る必要もない、という風に。もっとも、穢萼の会の観察員は微動だにせずにフィルムをカラカラ巻き上げ続けている。

「泡沫世界と現実世界の出入りの自在さは学苑でも十指に迫るわね。なのにあんな順位に甘んじているなんて……もったいないわ」

 ナナには悪気はないのだろうが、それがよけい周囲の失笑を誘った。

(さぁて、この中で生徒会長を内心本気マジで嫌な女扱いしている奴らがどれほどいるかな……?)

 ルネは計算してみたい衝動に駆られた、ほんの少しだが。視線はバティストの足下に点々と広がる血しぶきに釘付けのまま。

 サクラは腕を組んだまま、うなるように言った。

「『断空術』……一瞬だけノアの周囲に生成される《異世界》を通過することで空間・距離を帳消しにする。有り体に言えば瞬間移動・ワープ……。ノアの中でもあそこまで特殊な創世力の使い方をしている奴も少ない」

 まるで独り言のようだが、それだけ彼女もブノアの能力に舌を巻いているのだ。

《創世力》はその名の通りこの世界とは異なる《異世界》を生成・召還する能力である。通常はアークの意志と霊感によって望む世界を一定時間存続させることができるのだが、創世力の特性上そのも絶えず別の世界を作り続けている。その世界が《泡沫世界》で、普通は感覚することも不可能なほどの刹那の間に生まれ消えていく世界で、長く持っても0.5秒弱が限界と言われている。

 ブノアはその一瞬の世界を此方と彼方の座標に連結することであたかもワームホールのように使い、自分の創世力が及ぶ範囲ならどこにでも一瞬で移動することができる。これは言い換えれば一番鋭く力強い初速の拳を至近距離で常に打ち込めると言うことである。

 もっともそれだけでは創世力で強化された相手にはダメージを与えられない。

 しかし彼のもうひとつの特技――『砕拳』は創世力で身体に薄い防御を施し反動に耐えながら、拳の先に絶えず爆発を起こしている異世界の一空間を召還する技術だ。並のノアなら一撃で勝負を決められる威力を持っている。

 バティストのようなが相手なら、防御することができないのはある意味当然だった。

 客席には白けた空気が広がっていた。ビッグマウスで話題には事欠かなかった新入生がその実あまりにふがいなかったことへの失望が半分。もう半分はそんな相手に大人げなく一瞬で勝負を決めに行こうとしたブノアへの失望だ。

 もっともこれはブノアが決闘や試合を行うときに常に聞かれる不満でもある。決闘は真剣勝負でもあると同時に興行でもあって、客は滅多にない機会を楽しみにしているのだから、それをあっさりと終わらせてしまうのはプロとしての意識が云々。

 けれど、そんなことブノアは知ったことではないだろう。特に今回ばかりは彼ももったいぶるつもりはさらさらないようだった。シルヴェットとフランス人としての誇り、ふたつのかけがえのないものを争って彼は戦っている。

「それに比べてバティスト・メセンスはなんだ!」

 サクラは憤った声を出す。

「あんなに遅い打撃……打撃といえるのか? 初めて見たぞ! ブノアの打撃に反応できないのは新入生としては仕方ないが、それにしても……だ! 奴はシルヴェットの従者の座を賭けている自覚があるのか!? 見ているこっちが気分が悪くなる!」

 サクラは本心から怒っていた。隣に座るナナも甘い微笑みにほんの少しのコーヒーじみた苦みを含んでいる。

「でもその割にさっきはバティストのこと応援していたけど?」

 ブノアがとどめの追撃を加えようとしたとき、バティストの名を叫んだのはサクラだった。彼女の言葉にバティストは意識を取り戻して、攻撃をすんでのところで避けたように見えた。

 ルネの指摘にサクラはぐっと感情を胸に押し込んだあと、噛みしめるように言った。

「私だって……シルヴェットのことが大事なんだ。同じ想いを持つ人間にはたとえ敵であっても生半可なことはしてほしくない。でないと、私の気持ちを汚されたような気になる」

 ルネは思わず「どういうこっちゃ」と漏らしそうになったが、苦笑いでこらえた。そもそもサクラの「大事」とバティストのそれを同じように考えていいものかはなはだ疑問だったが、なぜかサクラはバティストの方に感情移入しているようだった。

(どっちかっていうとサクラはブノアの坊ちゃん寄りだと思うんですけどねぇ……)

 そう言う代わりに、ルネは先ほどの戦闘の感想を素直に述べた。

「けれど、バティストの野郎も意外にやれると思ったぞ? 何せ、あの一撃を顔面にまともに食らったら、ふつうはペパロニ・ピッツァみたいにぐちゃぐちゃになりそうなものだけど、見ろよ、なんとか原型は保ってるじゃないか」

 サクラはしぶしぶ同意した。

「良くも悪くも力が抜けていて、そのくせ下半身はあれでしっかりしている。だから衝撃を吸収したんだ。タカスギの指導かもともとの癖かは知らないが……さらには反射で的を額にずらして受けるようなそぶりもあったな。よほど石頭に自身があるのか? 確かにあれだけの爆撃をうけても肉を取られるだけで頭はなんとか無事みたいだ」

「単なる石頭が創世力に勝てるかよ。一瞬のことで気づいていない奴らも多そうだが、殴られた瞬間に創世力を顔面に集めて防備を固めやがった。あれは反射じゃないと無理な芸当だな」

「確かに。タカスギの鍛錬云々に関わらず、基本的な防御の素養はあるようだが……」

 サクラは口ごもり「それがどうしたというんだ」と目で示して見せた。いくら防御を固めても、相手にダメージを与えられなければ袋小路に追い込まれるだけだ。

「何か、策があるんだろうな……そうでなければ、バティスト・メセンスは、おまえはただのクズだぞ」

 サクラは何か祈るような表情だ。それを眺めるルネにはあぁ乙女心は哲学なりといういくら年齢を重ねても消えない感慨が去来していたが、次の瞬間彼はその乙女心をさらにこじらせかねない事態を目にした。

「何だ、あいつ、両手を上げやがった。もしかして、もう降参か? それはないだろ。なぁ、バティストさんよ……」


 バティストは両手を上げたまま前におずおずと進み出る。客席は少し騒然としている。怒号を放つ者もいるがそれは一部の熱しやすい輩だけで、彼が勝ち目がないのは火を見るよりも明らかなので彼が負けを認めることに関しては何の意外性もない。

 しかし、規則ではもし決闘を中断する場合には創世力による武装を解除するか、それが不可能な場合床か壁を三回手でタップすることによってのみ敗北を宣言することができる。しかしバティストはそのどちらも行っていない。

 バティストはせっかく開けたブノアとの間をどんどん詰めていく。ブノアは困惑した。規定ではもちろん今現在も戦闘中のはずだが、明らかに丸腰で無抵抗の相手に拳をふるうのは自分の倫理に反した。しかしながら、何か自分を攪乱することをねらっているか、罠と言うこともあり得る。

「おい、それ以上近づいたら容赦なくぶちのめすぞ」

 ブノアは最後通牒のつもりで言った。しかしバティストはニヤリと笑ってもう5、6メートルの距離にまで近づいてくる。

 ブノアが決心を固め、力を溜めようとしたとき。

 バティストは万歳をしたままその場にどかりと座り込んだ。

 ざわめきが一層大きくなる。困惑。怒り。焦燥が雨のようにバティストの肩に降り注いだ。その砂嵐のような喧噪を打ち払うように、バティストは叫んだ。

「無理だ! 負けた!」

 さっきまであれほどか細かった喉と同じところから出てきたとは思えないほど大きく通る声。言葉ひとつで闘技場が一瞬静けさに包まれる。それは彼の声がひどくあっけらかんとして不気味だったから。そしてスクリーンに映った彼の表情が全く敗者のものには見えなかったからだ。

「全く、どこまで君は僕を怒らせれば気が済むんだ、バティスト・メセンス……」

 ブノアは顔をくしゃくしゃに歪めた。

「もう君と戦うのは気分が悪い! わかったらすぐにその武装を説くんだ!」

 しかし、座り込んだバティストの周囲は薄く光輝いたままで、創世力に満ち満ちたままだ。

「俺はいま、お前に勝つのは絶対に不可能だと確信した。だから、もう勝ち目のない戦いをするのはやめだ」

 そして上げた手をゆっくり下ろして膝の前で広げ、そのまま目を閉じる。まるで瞑想でもしているかのようだ。

「一〇分だ」

 何か確信を持ったように言う。

「今から一〇分間でお前が俺を倒せなかったら、俺は勝ったも同然。そういうことだな」

「な……」

 絶句したのはブノアだけはなかった。観客席も、司会も、スタッフも、いったいなにを言い出すんだという表情でバティストを眺めている。

 ブノアは相手のペースに乗せられてはいけないと、ことさらに蔑むような口振りで言った。

「はっ……いきなり何を言い出すんだ。君みたいな新入りは知らないかもしれないが、この神聖な誓いの場である闘技場において、ルールは絶対だ。君が今思いついたくだらないルールなんてここで何の意味があるものか」

「あるさ、俺の中ではね。こう見えて俺は負けず嫌いだから」

 バティストは言い切った。

「だいたいおかしいじゃないか。昨日入苑したての俺をとっ捕まえていきなり決闘だなんて……言いがかりもいいとこだ。一夜漬けなんかで勝てるはずがなかったんだ」

 沈黙が満ちる。バティストの言うことはもっともではあったが、決闘が始まった今にそのことを言うのは興ざめもいいところだ。

「そんな人から強制された勝ち負けなんかに俺は興味ないな。俺が勝ったか負けたかは、俺が決める。形だけの栄光なんざくれてやるさ」

 ブノアは口をあんぐりあけてがたがたと震えた。

「それで……僕がシルヴェットを君から取り上げるとしても、いいのか?」

「あぁ」

 バティストはこともなげに言った。

「俺の努力はほかの誰よりも、シルヴィがわかってくれている。俺の勝利を信じてくれたら俺はそれでこの上なく満足だ」

「そうか……」

 次の瞬間は、観客は別の意味で息を呑んだ。

 ブノアの周りに、創世力とともに深紅の色をした情念がフレアとなって燃え盛っているように、その場の全員に錯視された。

「失望したよ。そうか、君はそんな男、奴だったか」

 そうつぶやいて、豪炎をさらに強烈に猛らせる。

「そんな『勝利』など、何の意味もない! 僕にとって勝利の意味は一つだ! シルヴェット! 彼女の名前を耳にするたび僕の心に勝利の文字が乱舞する! あぁ、彼女の傍らで朝も昼も夜も、一緒に笑っていられたら、彼女の声を聞いてあの蜜のような髪を眺められたら! 僕はもうほかに何もいらないんだ! シルヴェットの気持ち? そんなもの、全部君の妄想だ。シルヴェットを失うことは、そばにいられないことは、僕にとって生きていないのと同じなんだ! 君は、は、敵ながらその気持ちを分かちあえると思ったのに!」

 ここでブノアはやっと息を切らした。そして息を整えるのもそこそこに

「がっかりだ……」

 そう喘いだ声を出して沈黙した。

 すべてが沈黙した。観客も、普段はくどいまでに美辞麗句を並べ立てる実況もあまりの状況の変化に戸惑っている。その中でバティストだけが何も言わず本当に無我の境地に入ってしまったかのように瞳を閉じて、微動だにしない。

 その様子を、ブノアは豹のように鋭い、警戒の色をした瞳で見続けていた。


(バティスト……君はこう言いたいんだろう。そう言えども、こんな初心者の自分を一瞬で倒せないようなら、この僕、ブノア・アンテノール自身、ちっとも勝った気がしないんじゃないか、と……)

 ブノアは意気で喉をかっと鳴らした。

(その通り、だ!)

 目がぐわりと見開かれ、突っ張った目尻の皮がびりびりと悲鳴を上げる。

(見くびってくれるなよ。君は君のやりかたで僕に勝つつもりでいるかもしれないが……僕はどちらも譲るつもりはないさ。シルヴェットという名の勝利も、そして僕の心の勝利も……)

 そう言ってブノアはすぅっと息を吸って構えを取る。何も手に持っていないのに、まるで今にも剣を抜こうとしているかのように。

(換言すれば奴はこう言いたいわけだ。今バティスト・メセンスはこの僕にダメージを与えるだけの攻撃スキルは全く持ち合わせていない。けれど、もし専守防衛に徹すれば10分は保たせる自信がある。そう、失格処分になるそのときまで……)

 多くの格闘技には選手が攻撃に関して消極的な姿勢を見せると何らかのペナルティーが課せられるルールが存在している。この決斗も例外ではないが、一般の格闘技と異なるのは指導・減点が存在せず、「一〇分以上相手に明白なダメージを与えられない場合はその時点で敗北」という明確なルールで運用されていることだ。一〇分というのは長いようにも思えるが、防御を固めて一発逆転をねらうというのは主たるアークを守護する上では取り得る選択肢であり、時間制限のある興行という枠の中でそのような自由度をできるだけ反映しようとした結果の規則である。

 すなわち、バティストは決して自分で負けを認めることはない。ただレフェリーが失格の裁定を下すだけだ、と言いたいのだろう。

(奴はまだ自分のノアとしての能力を見せていないようだ。フットワーク能力か? 自分の特定の部位に創世力を集中させ、異世界の高気圧のガスを噴出すれば高速の移動が可能になるだろう。それともシールド能力か? 異なる世界の大気や海から元素を化合して一瞬で超硬質のシールドを貼ることもできる)

 前者なら断空能力を持つブノアが負けるはずもない。しかし後者なら正直苦戦もありうる——ブノアはそう考えていた。自分の拳から繰り出されるのは生身の肉体なら用意に破壊できる、の能力だ。この学苑にはそんなものマッサージか整体ぐらいにしか思わないがごろごろいる。派手な技の見た目に反してブノア自身攻撃力自体は非常に弱いと言っていい。それを補うために断空術などのフットワーク強化など、「相手の隙を突く」「相手の武装を解く」技術を磨いてきた。

 生まれ持った高慢な性格のせいで人は皆彼をぼんぼんだとか才能頼みの戦闘スタイルだと揶揄するが、実は能力に関しては彼は雑草もいいいところで、本来なら下位に沈むところを人には見せない努力でここまで自分を引き上げてきたのだ。

 実力の割に成績が低迷しているという巷の誤解は、それ自体ブノアの誇りでもあった。泥臭い評判など御免、生まれ持った才能と称えられるほうがよほど気分がいい。

 けれど、ブノアの胸には少し異なった気持ちが去来していた。

(いいぞ……この感じ)

 ブノアは身震いした。

(昔の気持ちだ。自分がコケみたいに弱かったころ……けれど臆病ではなかったころの! けして自分が油断していないと、けして出し惜しみしていないと誓える!)

 ブノアは両手を丸め、掴んだ空気の真ん中に心気を握り込むように集中させる。すると、炎、というよりも火花のように創世力が煌めき、凝固し、みるみるうちに炉からそのまま取り出したような溶岩の色の刀身が現れる。

 観客席から驚きの声があがる。無理もない。

 ブノアはこの技の鍛錬は常に積んでいたが、実戦で使うのは時期尚早だと考えていた。もし使うとすれば大事な試合での逆転の秘策として取っておくべきだと思っていた。

 しかし、いまブノアにためらいなど全くなかった。自分は欠点を補う努力をしてきただけではない。その欠点自体、長所に変えることに心血を注いできたのだ。今日はその結実をこの満員の観衆に、憎っくきバティストに、そして何よりシルヴェットに見てほしい。

 刻にして一〇秒弱。灼熱の炎は彼の心を表すようにこうこうとブノアの瞳を燃やし、熱風で金色の髪はぶわりとあおられ創世力の鱗粉がきらきらと決死の表情を彩る。ブノアの手には光輝く剣――それは中性ヨーロッパで決闘に使用された由緒正しき姿を保っているが、炎のおかげで刃渡りはフランベルジュのように揺らめいて見える——がしかと握られていた。

 

「なんだありゃ、初めて見たぞ」

 ルネは舌を巻いた。

「一つの刀身に見えるが、創世力と奴の炎の能力がそれぞれ幾層にも重なっている。あれなら、創世力による身体強化を切り割きつつ、生身の体に炎の斬撃をたたき込むことができる。ブノアの坊ちゃん、あんな隠し玉を、いや秘剣を持ってやがったか」

「だが、まだ創世力の制御にむらが多い。あれじゃ10分どころかその半分も保つかどうか……」

 サクラの言葉にルネはわかってるさ、と心のなかで返した。大事なのはブノアがそれほどの決心を固めたということだろう。勝負に関して公明正大たるルネは自らも退路を絶ったブノアの勇気を称えるとともに、ひとつのダメージも与えずに彼を本気にさせたバティストにも等しい感嘆をおぼえていた。

(しかし、それもなにかあってのことだ、バティストさん。見たところまだ防御を展開がヤワだな。人並みに展開の範囲はあるが、強度が、創世力の濃度が圧倒的に足りていない。そんな焼く前のフレンチトーストみたいなふにゃふにゃな防御でいったいどうやって……)

 ルネの思考は、断空術で間合いに勢いよく踏み込むブノアの靴音で中断された。そのあとに響いたのは肉がたたれる不快な音でも、刃が弾かれる鈍い音でもなく……

「これは……」

 次の刹那瞳に移った光景に、ルネは数瞬、理性が追いついてくるのを唖然と待つしかなかった。


 数刻前。

 ブノアは逡巡していた。

(これだけ近づいて威嚇しても、まったく防御を強めるそぶりもない……僕の出方をここまできても伺っている? 後の先でも狙っているのか? もしそうなら、こう言わせてもらおう。そんな玄人じみた考えはそれ相応のを身につけてから起こせ! そう、このブノア・アンテノールのように……)

 ブノアは決意を固め、大きく吸った息をくっと丹田に押し込んだ。

(奴が反応すら、いや、できない速さで飛び込んでやる!)

 ブノアは断空の構えを取った。

 基本的に断空術を使用すればどこにいても、どの地点へでも姿を消して一瞬で移動できるが、どこにでもいけるというわけではない。常に大きな二つの制約に縛られている。

 まず、移動の対象は自分が現在場所に限られている。これは厄介な制約だ。この弱点が悟られると相手が自分の視覚を真っ先に奪いに来ることは目に見えている。それを隠すために、もし偶然自分の視界が奪われる可能性が高いと判断した場合、わざと負傷を装って棄権したことは一度や二度ではない。救いは自分の移動先を視認する「今」が過去3秒間を限度に遡れること。この範囲までは自分の脳が「現在」として処理できるらしい。なので普段はその3秒を常に計算しながらの戦いになる。見た目と違い、それほど使い勝手のいい能力ではないのだ。もっとも、この制約はずっとバティストを眺め続けている今の状態ではないも同然だ。

 問題は二つ目の制約だ。この断空術は、「自分の扱う創世力の及ぶ範囲でしか効果がない」。こう書くとかなり移動範囲が狭められるように思えるが、実はそうでもない。ブノアは昔実験をしたが、コンディション如何では見えている範囲なら直線3キロメートル以上離れている山の頂上へ移動することもできた。つまり、その距離ならブノアは意識的に創世力を行使できるということだ。しかし、いくらやっても不可能だったのは「対象地点に生物が存在する場合」の断空術の使用だ。たとえば、数メートル先にぶら下がった屠られた直後のマトンの体内から出現することは可能だったが、同じ距離にある生きた羊の体内から出現することは不可能だった。そして相手がノアの場合はおしなべて2メートル強の距離をとらなければ移動はできなかった(ただしノアは平時でも周囲に5メートル弱の創世力を展開していると言われるので、完全に相手の創世力の外というわけでもない)。ここからブノアは推測した。断空術は、「自分以外の創世力がある程度優勢な場所」には作用しないのではないかの? だから強いノアに対してはより遠くにしか移動できなかったのでは?

 しかしそう考えると創世力を行使できない動物の場所にも移動できないことは不可解だ。ここからはブノア自身もほとんど自信のないにすぎないのだが、もしかすると多かれ少なかれ生きている存在は創世力を薄く身にまとっているのではないか? ブラックボックスとなっている学苑指定のデバイスは、人が本来保つわずかな創世力を増幅する仕組みで動いているのではないか?

 つまり、ブノアは3つの仮説を立てたわけだ。

①創世力は生きとし生けるすべてのものが纏ういわばのようなものだが、アークとノアは常人とは比べものにならないほど広範囲にそれを行使することができ——

②特にノアから半径2メートルの範囲は創世力の濃度が高く、彼のの法則が絶対的に支配し、彼が衰弱していない限り敵がそのから直接創世力を行使することはできない、しかし——

③同等の創世力を持っているものが、展開された創世力のから攻撃を仕掛ければ、相手の創世力の防御を無効化して攻撃を当てることができる。ノア同士の徒手格闘が成立するのはこのためである。

 すべてに証拠はない。けれどブノアはその仮説に従って、自分の弱点を克服する新しい技術の会得に身を削ってきた。

 その結実が、この創世力と炎との併せ技によるフランベルジュだ。

 ブノアは自分の体重を利用し、反動も力みほとんどなく一瞬で地を蹴った。

(集中しろ)

 視界がホワイトアウトするほんの一瞬、泡沫世界を通り抜けるとき瞬間にもブノアはずっと念じていた。

(剣の柄から一番鋭い切っ先まで、鍛え上げられたくがねの層のひとつひとつに自分の神経がくまなく通っているんだ。いつも通りだ。イメージさえ上手にできたら必ず成功する)

 ブノアは考える。彼がもしルネと同じ立場だったら、どう防御するか。

 バティストの創世力は強度に欠ける分ある程度の厚みがある。防備のすぐ外に断空術で移動し攻撃を仕掛けても、鋭敏な感覚を持つものならかろうじて反応することができるかもしれない。

 もっとも、創世力がもう少し弱ければ防備の内部でも断空術で至近に移動し、文字通り一瞬で串刺しにできるかもしれない。創世力の防御は強固だが、いったん内部から打ち崩せばドミノのように全体が瓦解して無防備な状態になってしまう。そうなれば勝負は決したも同然。

 しかし、それは賭けでもある。そしてバティストの防御はその賭けを相手に躊躇させるくらいには強い、絶妙な塩梅を保っていた。

 創世力はいわば城壁だ。もし断空術でまともにぶつかれば、身体ごと跳ね返されて大きなスキができてしまうだろう。防備を薄くしているのは、それを誘っているのか……

 いずれにしろ、バティストはブノアが断空術で現れたあとのスキを狙っている。そのスキを利用してちょこまか動き回るか、それともなにか術をかけるのか……それともこのスキで防御を固めるか――不意打ちに防御を固めることに大した意味があるとは思えないが、もしかするとその防御自体になにかがある可能性も?

 それなら……

(自分自身が相手に達する前に、自分の剣で相手の防御を無効化する!)

 元来フランベルジュはその炎のように蛇行した刃で相手を肉を絶つものであるが、比喩ではなく文字通り燃えてフランベいるブノアの剣の用途はそれに限られない。

 彼はそれをレイピアのように前に突き出し、次の瞬間訪れるだろう衝撃に備えた。

 彼のフランベルジュの刃渡りは120cmほど。バティストの有効防御の限界である3.2mと併せ4.4メートルのギリギリ外側に移動するように断空術を使用し、相手の防御の至近距離から強烈な突きともに燃え盛る切っ先から大量の創世力を送り込む。そうすることで明らかに強固ではない相手の防御はまるで風船のように弾けて霧散してしまうだろう。

 自らの武器に、あたかも自分の身体と同じように創世力を纏わせる——これこそ、ほかの誰も成し得ていないブノアの発明であり、だからこそ完成するまではできるだけ不世出にしようとした秘技だった。いままではどれだけリーチの長い武器を使おうが、飛び道具を使おうが、相手が創世力で武装している限りそれ単体では効果がなく、自分の創世力で相手の創世力に干渉しつつ戦うしかなかった。結局、どんな武器でも接近戦が主になる。しかし、自分の身体と同じように武器に創世力の干渉能力を持たせることで、リーチは飛躍的に延びることになる。これはノアの戦いの革命だ。そうブノアは考えている。

 このフランベルジュの切っ先で相手の防御を無効化したあとに、すかさずもう一度断空術を使用する。次の瞬間、バティストは串刺しになっているだろう。これがブノアの作戦だ。

 これを端から見れば一瞬でバティストの防御が破壊され彼が貫かれるのを観客は見ることになるだろう。自分の反応速度の限界もあり厳密にはほんの少しのタイムラグが生じるが問題ではない。というよりも、問題とならないレベルまで高めてきた。創世力の消費も激しいのも欠点だが、だからこそブノアはこれを一撃必殺の技と定め、そう呼ぶにふさわしいクオリティに引き上げたつもりだ。

(信じろ……)

 泡沫世界を通り抜けるほんの一瞬の暗闇、それがひどく長く感じた。

(自分の愛……いや、僕の存在すべてが形をなしたこの剣を……!)

 視界が開ける。ほんの少し冷めた空気の感触が、自分が一瞬にして10メートル以上の距離を移動したことを告げる。

 元の世界に戻ってきたとき、ブノアは少なからず驚いた。さっきまで丸腰で座ったままだったはずのバティストが立ち上がり、こちらにむけて武術風のポーズまで取っていたからだ。(あくまで「風」としか呼べないぎこちない構えだが)

 それでもブノアは平常心を崩さなかった。というよりも、自分の平常心を崩すほどの間を断空術は残さない。

 同じ瞬間にはもう切っ先が創世力のバリアに触れる。さらに同じ瞬間、それはまるでシャボン玉のように、あたかもさっきそこあったことが幻だと思えてしまうくらいに破裂した。

(狙い通り……)

 即座に、完全に反射的に、ブノアはまた泡沫世界の小舟に飛び移った。そこでブノアは次の瞬間に目の前で繰り広げられる光景を想像し、思わず目を閉じたくなった。けれど、ただその瞬間と瞬間の流れのなかに身を任せ、憎っくき敵の最期の表情を脳裏に焼き付けようとする。

 そして、そのときはついに訪れた。

 視野より、触覚が先に来た。身体の一部と化したフランベルジュの、研ぎすまされた指先の感覚ならぬ切っ先の感覚。しかしその鋭敏さをもってしてもやんわりとしか触れないほどに、フランベルジュの堂々とした体躯は、

 軽々とバティストの身体を貫いていた。

 ブノアは怖気を感じた。決斗で犠牲者がでたことは今まで一度や二度ではないが、まさか自分がその当事者になるとは。しかし、不思議と良心の呵責は感じなかった。いや、心の奥底ではあったのかもしれない。しかし、それをほとんど無感覚にするほどに、自分は自分の正義を心から信じていることを知って、一刻後にブノアの胸に沸き上がったのは、純粋な誇り――陶酔、まるで自分が完全無欠な神聖なる存在となったかのような高揚だった。

 ブノアが剣を振り払うと、その軽い感触に反比例するようにバティスト・メセンスだったものはどちゃりと重々しい音を立てて転がった。

 どこかで悲鳴が上がったかもしれない。もしかしたら、ほんの軽い気持ちで見に来た淑女にトラウマを植え付けてしまったかもしれない。ブノアはここでようやく少しの罪悪感というものを堪能していたが、それは脳味噌のなかでぐつぐつと煮えたぎる全能感とくらべればひとさじのスパイスくらいにしかならなかった。


 しかし、その感動は。


「おい」


 少しため息混じりの呼びかけによって、


「いったいどこ向いてやがる」


 まるでタンポポの綿毛のように吹き飛ばされた。


 ブノアは振り返る。そこに映ったのは黒い影。漆黒の肌に漆黒の身なり。背筋を丸め、この血なまぐさい場所にいたって不似合いな、飄とした雰囲気。

「誰だ、おまえは……」

「誰って……ついさっき殺したやつの顔くらい覚えてろよ」


 それに続けて、彼は「でなきゃいつか祟られるぞ」とか言ったようだったが、ブノアにはほとんど聞こえなかった。

 バティスト・メセンスがそこにいる。

(どうして)

 ブノアは心臓をぎゅぅと悪魔に握られた気がした。

(感触は、確かだった。幻覚なんて、あるはずが……)

 しかし実際に、ブノアはそこに座っている。攻撃を受ける前とまったく同じ構え。あぐらをかいて、両手を横に広げている。

(幻術か? いやまさか)

 創世力を使用した、他人に幻覚を見せる術……もしそんなものが仮に存在したとしても、きっちり自分の創世力で干渉を避けていたブノアに効果があるはずも……

 剣の血痕を確かめようと目をやるが、そもそもこのフランベルジュでは付いた血肉がすべて瞬時に蒸発してしまうので何も見えない。返り血もないが、そもそも創世力の防備はどんな物理的な干渉も跳ね返すので残っているはずもない。

 ただ明らかなのは、バティスト・メセンスに傷一つ負わせることができていないというこの現実。倒したはずの彼が、何食わぬ顔で軽口を叩いているというこの事実……

「おまえって優しいからさ……どれだけ長いこと生きてもたぶんで殺せるやつなんて俺しかいないと思うから……だからなんだ、せめて名前くらい……」

「――!」

 ブノアは相手が言い終わる前にまた泡沫世界に消えた。

 それは半分怒り任せで、半分とっさの判断だった。ブノアは「怒り」や「羞恥」といった感情がいとも簡単に「反射」「肉体反応」といったものに結びつくことを初めて知った。感情は迅速な行動にとってむしろじゃまなものだと思っていたが……

 だから結局、その後の反応は最初よりも迅速だった。ブノアはいままで洗練に洗練を重ねてきた動き……二段断空による瞬殺術を立て続けにブノアに繰り返した。視覚の情報は最小限に。そうでないと心が乱れ、技と技の間に隙間ができる。ブノアは息が切れるのにもかまわず、ただひたすら目の前にあるバティストという的に向かって、四方八方から刺突を繰り返し、何度も何度も、目の前にバティストの屍を積み重ねていった。

 しかし——

「もうそろそろいいんじゃないか? それだけ倒せば、俺のこともさすがに覚えたろ」

 バティストはそこにいた。結局は、どれだけ腕で肉を絶つ感触を味わっても、それがぜんぶ幻であったかのように、目の前には同じバティスト・メセンスが同じポーズを取って座っているのだった。

「きっ、貴様……」

 ブノアは焦っていた。自分の精神の中で混乱がいくつも芽吹いているのに気づく。これが育っていけば、いずれブノアのジャガイモ頭を真っ青にして、養分を吸い取り、思考に毒を回していくだろう。

 ついで、体力も確実に削られていた。それに、時間も。視野の角に時計のデジタル表示をとらえる。最初の小競り合いを除けば、だいたい7分……

(7分? もうそんなに……)

 ブノアの胸の中に、暗い風景が一気に広がろうとする。その苦い汁をぐっとのどの奥で押し込めながら、ブノアは少ない時間を惜しまずに思考した。

(信じられないが信じるしかない・・・・・・奴のかけたはおそらく、僕にを見せる技だ。あんな精巧でグロテスクなものがハリボテだなんて信じたくはないが……見かけによらずとんだ芸術家アルティザンだよ、バティスト・メセンス……)

 どうやって自分の防備をかいくぐったかは不明だが、とにかく、今すべきなのはどうにかして本物の奴を捉えるということ。

(奴は僕が泡沫世界から脱出したときにはすでに姿を変えていた。なぜだ?)

 それだけではない。もしあの幻覚が創世力を利用した変化だとしたら、バティストの防御が破られた時点でそれは崩壊するはず……というよりも、自身が視覚で捉える前にすでに剣先は泡沫世界を抜け防御に達しているはずなので、そんなもの見えないはずでは……

……?)

 ブノアはじっとりとした違和感を覚えた。

(思えば、奴の防御の張り方は妙だった。あんなに薄くしか防御を張れないのは奴の創世力を扱える絶対量が少ないからだと思いこんでいたが、それならそもそもこれほど精巧な偽装を施すことなどできまい。幻影に創世力を割きすぎているからと考えればそれまでかもしれないが、何か奴の防御、まるで僕に破られることをむしろ前提にしているような巧妙さを感じる……防御の目的以外で、意味のある創世力のバリアの使い方……・そうか!)

 ブノアは数秒でこの結論に至った自分の脳細胞に快哉の声を上げた。

(偽装工作……!)

 バティストは一瞬のうちに変身をしたわけでもなく、また一瞬のうちに幻影を作りだしたわけでもない。すべてはあのとき、彼がゆっくりと地に腰をおろしてあのポーズを取ったときに仕込まれていたのだ。創世力が及ぶ範囲は他の人間が干渉を許されない絶対的な私的領域。それなら、見えないものを見えなくすることも容易い。すなわち、あの幻影はバティストが創世力を展開したときにあらかじめ中に何十体、何百体と仕込まれ、カモフラージュされたものだったのだ。おそらく、バティストが展開した防御は一枚や二枚ではない。その防御と防御の間にそれぞれ異なった幻影を設置する。防御が破壊されると、幻影のカモフラージュを行っている創世力そのものが消え去るので、必然的にそれは丸見えになる。ブノアがそれに躍起になっている途中にバティストは身を翻して移動し、再び創世力を展開する。こうすることでブノアには自分がバティストを倒したとおもったらまた別のところから元通りバティストが出現した、という感覚になる。おそらく幻影は異世界に住まう獣を使い魔のようにして、それを自分と同じ形に変化させたのだろう。そうでなければあの相手の生気――すなわち、最後の創世力を破って血肉に切っ先を突き刺すあの感覚が説明できない。というより……どんなに自分が幻に惑わされたとしても、あの感覚だけは……怖気、罪悪感、高揚は、嘘だったとは信じたくはなかった。

 この推測が果たして正しいのか。ブノアにそれほど自信はなかった。けれども、もうこれ以上考えている時間もない。ブノアは判断の時間を最小限にとどめ、まるで何もなかったかのようにもう一度フランベルジュを構えた……ふりをした。

 即座、ブノアはひざまづき、剣を右手に持ったまま左手を地にやった。

「駆れ、我が創世力!」

 ブノアは手をかざした場所からまるで地を這うように、いやほとんど潜るようにして創世力を放った。それはまるで炎をまとうモグラのように火花を撒き散らしながらバティストへと突進し、その座る周囲でぱっと燃え盛ったか思えば、次の瞬間……

 バティストの足下はネズミ色のタールのような物質で固められていた。

「むっ……」

 バティストが不快そうに声をあげる。ブノアはしめた、と思った。

 ブノアお得意の創世力によって作り出される高火力で地面ごと融かし、掘り進む。そして足下から敵の創世力ごと突き破り、別の異世界から熱によって一瞬で焼き固まってしまう物質を送り込んで足を止める。ブノアの急ごしらえの作戦だったが、うまくいったようだ。

 ブノアはバティストが動けないのを見て、即座に構えを作りなおした。

 足下が弱点だと閃いたのが当たった。本来なら、創世力はあらゆる物質を透過するので、それは足下はおろか、地下にまで達しているはずだ。けれども、ブノアの予測が正しければ、バティストはあの十分広い範囲に幾重にも防御を積み重ねていることになる。あれだけの量の創世力をまかなうには、可能な限り創世力の消耗は避けたいと思うはずだ。となると、攻撃が来るはずもない地面との間に分厚い防備を残しておく理由はない。つまり、今のバティストは四方八方に幾重にも、そしてある程度重厚に防備を重ねてはいるが、足下はデニッシュ生地のように幾層もの創世力の層を踏み固めている状態になる。

 その防備を一気に突き通すことができる力があれば、足下はバティストの唯一の弱点となるのだ。

 ブノアの特殊技、「溶岩竜」は派手な見た目に反してそれの炎自体は創世力の防備に効果はない。しかし、それ自体創世力を帯びた粘性の生成物を噴出させ、動きを止めることができる。

(これで、例え何を見せられても、どんな幻影が僕を惑わせようと、この身が今記憶した距離・空間に従えば、確実に奴をしとめられる……!)

 ブノアはもう一度構えを取った。その所作はずいぶんと重くなったが、表情は水を得たように活き活きとしている。

(今度こそおまえの苦悶の表情を……いや、そんなカオさえさせないほど、刹那でねじふせてやる……)

 ブノアは、今まででひときわ大きな踏み切りでブノアへと突進した。泡沫世界に入るのは少し遅れた。枷にとらわれたブノアの姿をほんの少し、じっと見ていた。確実に、獲物を決して取り逃すことがないように。これから屠る好敵手の最後の姿を焼き付けるために。


 ――思えば、いやな予感がしていたのかもしれない。自分勝利を信じるというのは人間を鼓舞するための理性の合理的ば機能ではあるが、そんなときにこそ直感というのはうるさいくらいにアラームを鳴らしてくるものなのだ。

 ――思えば、慎重になりすぎていた。けれども、自分の歩みを止めることなど、いまさらできなかった。


「……は?」

 ブノアがそんな間抜けな声を出したとき、彼の身体は空中にあった。

 目の前に何があっても動じないと決めていた。例え視界にどんな異物が介入しようが、自分の決めた座標にたどり着くまでは一瞥もくれてやるかと思っていた。

 しかし、実際はたどり着く前にその身ごと弾きとばされた。それだけではない、自分が目にしたものは……

 ブノアは危機的状況にありながら、それでもなお、受け身を取る前に自分の目をこすらずにはいられなかった。方から床にたたきつけられ、フランベルジュは手から離れ霧散する。

 彼を見下ろしていたのは、巨大な壁だった。その壁にはまるでインカ帝国の遺跡のように様々な形のピースが隙間なく埋められている。そう、まるでジグソーパズルのピースのように……そしてそのの表面には、

 壁一面に、全裸の女性の姿が描かれていた。

「んなっ……」

 ブノアは赤面した。当然だった。シルヴェットと出会ってからと言うもの、ブノアは他の女性など断じて知るものかと決意を固めてきた。女性との交際はおろか、扇情的な書籍雑誌映画のたぐいはいっさい絶った。そのことで肉体と精神を清めに浄めてきたのだ。

 そんな彼にいきなり女性の、それも豊満な肢体が露わになった姿を見せるなど劇薬に等しい。ブノアは顔が血の蒸気でも上がりそうなほど熱を帯びているのを感じた。とくに鼻のあたりに血が集結し、痛みを響かせたが、ブノアはそれをたよりになんとか理性をたたき起こし、もう一度フランベルジュをその手に取り戻そうとする。

(不覚……真にシルヴェットを愛しているなら、どんな誘惑を他の女性から受けようがそれは蛍の光、孔雀の羽の煌めきと変わらない! そう心に決めたはずなのに……というか、いったい何だあれは! いや、心を乱されてはいけない。奴のいる場所はわかってるんだ。壁があるなら、壊せばいいだけだ!)

 ブノアは勇んで立ち上がったつもりだったが、不意に足が震えて少しよろめいた。それでもめいっぱい腕を伸ばして壁に突き立てようとする。

 びぃぃんと鈍い音を立てて剣は弾きとばされた。

(きっ、効かない……? この壁も創世力の産物なのか? いや、それにしては……)

 感じられない。強大な創世力のきらめきも、力をまとった存在特有のぼやけた輪郭も見えない。ブノアからしたら、目の前にあるものはだ。ただのモノである以上、創世力の前では障子も同然なはずなのに……何度腕を振るっても傷一つできる気配がない。

 焦りは次第に不気味に変わり、とうとう恐怖の姿を撮ろうとしていた。ブノアは首を激しく横に振る。

(落ち着け、どこかに脆弱な部分があるかもしれない。まずは相手をよく見るんだ。よく、凝視して……)

 しかし……

 小麦色の柔肌。胸元の黒子。健康的な張りを見せるへそ周り……見れば見るほど、ブノアは体力が吸い取られていくような気持ちになった。しっかり見ようと思っているのに、目は一秒ももたずにあらぬ方向へそれたり、ピントが狂ったり。それでも意を決して自分を縛り付けて数刻、ブノアはやっと気づいた。

(胸元に、穴が……!)

 気づかなかったのが不思議なくらいだった。ジグソーパズルのちょうど乳首の部分だけピースがはずれて、真っ暗な穴ぼこになっている。胸を見るのが恥ずかしくて無意識のうちに目をそらしつづけていたのか。

 ブノアの感覚では、期限の10分までもう1分もないだろう。あの一点に賭けるしかない。

「で、でぇやぁあーっ!」

 ほとんど自棄なかけ声でブノアは高く飛び上がり、乳首のあたりへと突進した。近づいて気づいたが、陥没は意外に大きく、ひと一人通れそうなくらいの大きさがある。そこに身体ごとダイブしようとしたとき……

「ぐふっ」

 ブノアは間抜けな声を上げた。

 乳首の穴から、にゅっという擬態が聞こえてきそうなくらいスムーズに、大砲のような筒が現れてきた。砲口で下腹部を強打。それと同時に、逞しい砲身が火を噴いた。

「かはっ・・・・・・」

 ブノアは卒倒しそうになった。背中を闘技場の壁で強打するが、反動を利用して最後の力で立ち上がる。

「まっ負けてたまるか! この僕が、乳首なんかにぃいいっ!」

 フランベルジュを構える。しかしその眼前に二発目の放談が迫っていた。

「うわぁあっ!」

 まともに直撃し、フランベルジュは原型を残さずバラバラになった。ブノアは急いで再構成しようとするも、次々と砲撃を受けて、回避するので精一杯。息をつかせる暇も与えられない。

(そんな……この僕が、こんな惨めな……世界一シルヴェットを愛しているはずの僕なら、なんでもできるはずなのに……)

 そんな考えがよぎった瞬間、ブノアは自分で自分の足をひっかけて転倒した。いそいで立ち上がろうとするが、断空術を繰り返した衝撃で疲労が蓄積した足が言うことを聞かない。後ろを振り向くことしかできず、しかしその目の前には禍々しい色をした砲弾が迫り――

「う、うわぁあああーっ……」

 ブノアはやせ犬のような力ない悲鳴を上げて気絶した。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

The Song of the Ark ~ハコブネノウタ~ 山田劉生 @nankoubai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ