1-3 開幕を待つ舞台
皿を食器が撫ぜる音。折り重なるそれらに匂いが混じり、眠気の抜けていない鼻を刺激する。
常より少しばかり大人しい食堂、その端でオレは食事を摂っていた。
匙で野菜の煮汁を掬い、口に含む。
少しばかり強い塩気を飲み下し、沈む蒸かし芋を突く。
柔らかいそれを崩せば、割れ目から白い湯気が顔を出した。
片割れを乗せた小匙が唇を通過し、舌へと至る。
優しい温かさに、ほ、と吐息が漏れた。
不味い…………。
そう思うのが早いか、空いていた左手は既に額へとのびていた。
料理は悪くないのだ。そう、彼らに非はない。
形の不揃いな根菜も、仄かな酸味を持った葉野菜も、それ自体が塩で出来ているのではないかと疑いたくなる加工肉も、すべて、すべていつも通りなのだから。
だというのに、今朝の食事は、こんなにも味気ない。
理由は周囲に蔓延る空気。
オレは食卓から目線を上げ、前方の背中を見る。
頑なにこちらを見ようとしないカナタ。彼は早朝からずっとこの調子だ。
「ぽー、元気ない?」
隣の席に座るメロディが、心配そうにオレの顔を覗き込んでいた。
元気がない――今のオレは、そう見えているのだろうか。だとすれば、なぜ……?
視界の隅で背中が強張る。
オレはそれを勤めて考えないように、喉を震わせた。
「そんなことは、ない……はず。ありがとう、心配してくれたんだな」
「んー?」
そう言って寝癖の目立つ髪を梳く。
メロディは肩口に切り揃えられたそれを揺らして目を細めた。
上流を目指してゆらゆらと、思考の船が記憶の川を辿り始める。
どうしてこうなっているのか、自分でも分からない。こんなことは、今までなかった。
それを解く鍵は、きっと過去にあるはずなのだ。だから、思い出さねば。
なぜ、なぜ? なぜこんなにも、オレは、揺れているのか…………――
「――あ、おいポプ…………って、これはまた」
天幕の入り口から、オレを呼ぶ声が聞えた気がする。
そちらを見れば、スイートがこちらに歩いてきているところだった。眉を顰めながら。
一目で見破るその観察眼に脱帽する。彼は、こういうことにだけ察しが良い。
「なにかあったか?」
「いや、なにかって……それはこっちの台詞だぞ」
カナタの背中を遮って座ったスイートが、机にもたれる。
その動作ひとつで、花畑の只中に立っている錯覚に陥りそうになった。
喉元まで来ていた言葉を呑み込む。喧嘩か……珍しいな、とのスイートの言葉で。
オレは両手を挙げて答えの代わりにした。
仲間外れにされたと思ったのか、メロディが脹れる。
「むーっ、ごはんの時はしゃべっちゃだめって言ったのは、すーなのに……」
「や、俺はまだ食べてないだろ? な、メロディ?」
慌てたように言い繕うスイート。
しかし、オレに張り付いたメロディは、まったく聞く素振りを見せない。
二人のやり取りは、まさに親子のそれ。彼らの間には、見ているこちらが和むような不思議な空気が流れていた。
緩みかけていた頬に引っかかりを感じる。
なぜか無性に、彼の言葉が気になった。
オレは見るからに弱っていたスイートへ声をかける。
「食事はどうした? 防衛は常備の仕事だ。いくら小隊長だからといっても、食事が出来ないほど忙しくはないはず」
オレの言葉でスイートが動きを止める。忘れていたものを思い出したかのように。
「いや、な。シェフを捜しているんだが……見てないか――」
取り落とした小匙が器を鳴らす。
彼が語った内容は、オレの脚を駆り立てるのには十分すぎるもの。
オレは居ても立っても居られず、天幕を飛び出した。
オレの後を追う、複数の足音。
「――待てって、ポプリ! 何度も言っているだろうッ奴らもシェフを捜しているんだ!」
「おいかけっこー!?」
「ならなぜそいつらはウチの隊舎に来ないんだ? 第一に疑いがかかるところだろう。なのに誰も、少なくともオレはその姿を見てはいない」
「…………」
昨日の夜から、オレも彼女のことを見ていない。
あの時彼女は聴取を抜け出してきていた。しかし、別れた後に戻ったはずだ。だというのに……。
周囲の音が常よりも大きく、そして鮮明に聞こえた。
基地内はあまり変わり映えしない。
違いがあるとすれば、兵士の間に緊張の糸が張っていることだろうか。
前線基地であれば、どこにでもある風景。
それが更に、オレの鼓動を煽った。
逃亡者が出たにしては、あまりにも静かすぎる。まるで――
「何も起きてないみたいだ……」
「!?」
いつの間にか並走しているカナタが言ったその言葉。
それに答えるべきか迷っていると、進む先に目的の建物が見えた。
「おいおいおいッ冗談だろ!?」
後方から聞えるスイートの裏返った声。
西部方面軍作戦司令本部。
なんの飾り気もない混凝土造りのそれが、今では怪物の住処にすら思えた。
ああ、やはり…………。
見えてきた景色に吐息が漏れる。対話の可能性など、粒ほども見いだせないその情景。
吸気と共に、魔力を奥底から呼び起こす。
入口に立っていた二人の衛兵。彼らが向けてくる眼差しは、味方に対するものではない。
装填音が空気を叩き、ここにまで届いた。
魔力の虚に右手を突き込み、選んだ魔剣を握る。
万難を排すため、その身を砕いた一振りの両手剣。手段を選ばぬ守護者の剣。
「【狂い咲け、イリス】」
引き抜いた魔剣には鍔から先がない。
千々となった剣身は、既に、指し示されたへ向けて散っている。
聴く者を酷く不快にさせる金切り声。
オレに狙いを付けていた衛兵の手から、突撃銃が跳ね跳んだ。
背後から聞こえる制止の声、目前だから見えた彼らの動揺。
その場に氾濫する情報を振り切り、オレは拳を振るった。
「――どうするんだ? 規律違反どころの騒ぎじゃないぞ、これ」
俄かに騒がしくなり始めた屋内と、地面でのびている兵士を交互に見ながら、スイートがそう零す。
「武器を向けてきたのなら、それは敵だ。あのヒトなら、そう言う」
「そうは言ってもな…………」
渋るスイートを無視し、薄暗い廊下を奥へと進む。
何事か、とオレ達を訝しむその他大勢の視線。
それに紛れていた一部の軍人が銃をもって、何度も行く手に立ち塞がった。
オレは切り伏せて進んだ。他の士官すらも驚いた、その凶行を。
階が上がるにつれて、推測はオレの中で確固たるものへと変わっていく。
ここに至ってやっと理解が進んだのか、スイートは沈黙を纏った。
この階段を上れば、司令官の居る――
三階と二階の狭間。その踊り場にオレが足を踏み入れようとした、その時。
銃声が鼓膜を襲い、床板が爆ぜた。
「ッ!?」
壁を背に息を呑む音。
やはりそこに居たか…………。
「隠れてないで出てこいッナーメン・ローゼ! そこに居るのは分かっているぞッ!」
「中尉」
スイートの眼差しに視線で応え、オレは敵の前へ姿を晒す。
既に魔剣は戻していた。何も持っていないオレの両手を、彼は照門から満足そうに見ている。
ただ殺すだけでは意味がない。こいつらからは彼女の居場所を聞き出さねば。
「私に反抗の意思はありません。ここを通してはいただけませんか? 司令官に用があるのです」
「フョードルのことか? 残念だがそれは無理だ。お前は少しばかり、来るのが遅かった」
「……何を」
空気を求めた鼻が、硝煙の中から血の匂いを嗅ぎつけた。
敵が段上で笑みを深める。男の服は、返り血で点々と汚れていた。
「奴は戦場で凶弾に倒れ、俺は戦火に巻かれて生死不明となる――」
「…………」
「――手土産が必要なんだよ。魔女と上層部の首に、この基地。だが、まだ足りない。俺がのし上がるには……まだ」
「彼女は今、どこに居る……」
魔力を迸らせる。時間はあまり残されていない。
オレの様子を見て男は高笑いをあげた。
「どこ? どこにだって? 分かり切っていることを訊くなよ、ナーメン・ローゼ……」
勿体点ける言い方に、苛立つ。奥歯が砕けそうなほど軋み、音をたてた。
早く、早く動き出すべきだ。イザベラが帝国の手に渡る前に……。
魔力を制御下に置き、指先に魔力の虚を形成させる。
ここでの最適解はどれだ……速度か、防御か、それとも――
研ぎ澄ましていた思考が、途切れる。微かにだが、空気を切り裂く音が聞こえた。
聞こえるはずのない音。常ならばこれの前には砲声が響き渡る。それにこいつが、まだここにいた。
男の唇が大きく裂ける。喉が震え、今まさに声が言葉へとなろうとしているのだ。
それより先に、音が炸裂し足元が大きく揺れ、る。
「――なにっ!?」
狼狽えたような声が、階段を転がり落ちてくる。
「ぽー!」
「ポプリ! 出るぞッ屋内に居るのは危険だ!」
手を引かれて体勢が崩れる。驚いて見れば、先を急ぐスイートとカナタの背中があった。
避難するべきなのだろう。ここは今、敵から攻撃を受けている。しかし、まだ――
「何故だ!? 話が違うぞッ俺が合流してから始めるのではなかったのか! これでは、これではぁぁぁぁ!!!」
メロディの手を握り返し、左胸の刻印に魔力を流す。
オレが使うことを許されたたった一つの魔術。
イザベラから預かったつながりを辿り、迎えに行こう。
鼓動が熱く、その間隔を狭める。
大丈夫、大丈夫だ。オレはここに居る。だから、彼女が死ぬことはない。絶対に。
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