1-2-10
身を切るような夜風の中に身を置いても、頭の中の靄は晴れてくれそうにない。
懐の温もりを撫でながら、オレは基地の明かりを眺める。
煌々と照らされた黒い人影が、蟻のように見えた。彼らは国を守る兵隊蟻だ。
オレの元に届く、冷えた空気に乗せられて仄かな香りと、微かな息遣い。
メロディを起こさないように振り返る。身体の節々が悲鳴をあげていた。
「キミってヒトは……ここは気付かない振りをするのが甲斐性ってものじゃないか」
「イザベラ。キミがそう願うなら、オレは最大限努力しよう」
「よしてよ――」
彼女の深い吐息が、音を成し意味を伴って、言葉に変わる。
「私達は対等でしょ?」
善処しよう、と喉元まで出かけた言葉が、役目を果たせずに吐息へとその姿を変じた。
唐突に訪れた沈黙。木々の騒めきが、やけに大きく聞こえる。
もたれ掛かってきた体温は、震えていた。
「……スイートがメロディを捜してたわ。あなたもそろそろ戻ったら?」
「考えたいことがある……この子は、キミが連れて行ってくれないか」
「ダメ、私はまた戻らないといけないの。きっとあのヒト達、血眼になって私を捜しているわ」
「それは、だいじょ――」
「ねぇポプリ……」
唇に触れた冷たく、細い指を、端から漏れた呼気が撫ぜる。
会話の主導権は彼女が握っていた。それが酷く、心地よい。
イザベラの瞳は星だ。それが弱々しく瞬いている。
オレは今にも消えてしまいそうな光を、一心に見つめ、次の言葉を待った。
彼女が意を決したように、震えを抑え込んでいたから。
「――私を、王にしてくれる?」
そう言って唇から離れていく鋼の人差し指。
オレはその手を取り、熱を捧げるように両手で包んだ。
イザベラの力になるためなら、どんなことだってしよう。
左胸が熱い。それがどんどん強くなっていく。
「契約の上に、重ねて誓おう。イザベラ、オレはキミの剣だ。如何に困難な道のりでも、必ず切り開いてみせよう……必ず、だ」
噛み締めるように聴いていたイザベラが、不意に立ち上がる。
吹き抜ける夜風が、左腕の温もりを奪い去っていった。
オレは黙ってその背中を見つめる。
振り返った白金は、先程とは打って変わって、強い光で煌いていた。
「さて私は仕事に戻るとするよ! なに、心配はいらないとも。演目の成否、その責任を負うのが指揮者の務め、だからね! クハ、ハハハッアーッハッハッハ!」
そう言って彼女は走り去っていった。
徐々に見えなくなっていくシェフの背中。
冷めることのない熱を左胸に感じながら、オレは腰の魔剣を掲げた。
夜空よりもなお暗く、僅かな月明りすらも吸い込むような黒い鞘。
こいつを抜いたのは随分と前だ。それでも、オレは思い出すことが出来る。満たされることのない漆黒の剣身。これはオレの罪だ。
温もりを求めた右手が、止まる。後方の気配。それはオレが予想していた人物ではなかった。
「やっと見つけたぞ……こんなところに居やがって、風邪でも引いたらどうするんだ?」
「気にするな。オレもお前も、そんなやわには出来ていない」
そうは言うけどな、とカナタがオレの隣に腰を下ろした。
二、三意味のない言葉を零すと、傍らの熱は黙り込む。
居心地の悪さは伝染する。
オレを捜してここまで来たようだが、いったい何の用があってのことだろう。
言葉を舌の上で転がしていると、カナタが深く息を吸いこんだ。
これは都合がいい。オレは与えられる情報を待って、思考を取りやめた。
「俺は、さ……逃げたんだ。どうすることも出来ない現実から、一度だけじゃなく……二度も」
訥々と語られる音が、静まり返った空気を震わせる。
カナタはオレを見ていなかった。膝を抱えた彼の視線は、遠く、地平の彼方へと向けられている。
期待していたものとは違うが、まぁいい。
オレは確認のために、魔剣を呼び出した。
以前と比べて異変がないか調べる意識に、彼の声が滑り込む。
「――精一杯努力した。それでも越えられない壁――あの人達の期待から、俺は目を背けたんだ。だから今度こそ……」
カナタが提示した情報は、彼が召喚されてからここに至るまでの経緯。それも、オレが聞いていた話とはまるっきり違う内容の。
勇者は呟く、応えられなかった、と。それが見当違いにもかかわらずに。
身震いするメロディに、傍らの外套を被せる。
この話は長くなりそうだ。
何かを望んでいる瞳。
つい先ほどまで闇に注がれていた視線は、魔剣が出し入れされる様を見つめている。
「傲慢だな。それも酷く、独り善がりだ」
「――ッ……」
カナタは期待などされていなかった。もう一人が神剣に選ばれた、その瞬間から。
薄々、自分でも分かっていたのだろう。その証拠に、カナタは二の句を継げないでいる。
人並外れた魔力量がなんだ。気高い精神がどうしたというのだ。
ただ主張したところで、それに価値などありはしない。
他者ありきの願望など、オレは認めない。
「……お前は、どうなんだよ。お前はなんのために――」
「力だ」
「――は?」
粘り気のある感情が喉奥から這い上がってくる。
他者からの評価――オレがそんな陳腐なもののために闘っていたとでも、こいつは思っていたのか?
オレは立ち上がったカナタを睨みつける。言葉の粘度が増していく。
「足りないんだよ。無力なままでは、奴等の首に手が届かない」
「お前、まさか…………」
カナタが酷く狼狽えたように後退った。彼の瞳は魔剣に刻まれた銘に釘付けとなっている。
「前々から、おかしいと思ってたんだ! イリス、アレク、ソニン。全部……全部、人の名前だろ!? お前は、今まで……そうやって――」
「だからどうした」
「――ッ罪の意識はないのか!? 復讐のためだからって、なんの関係もない人を殺しやがって!」
その一言が火元となった。
オレの中で淀み、溜まっていたものが、その火花を契機に急激な反応を示す。
義憤に燃えるカナタの表情。彼の上辺だけの言葉が、オレの炎を更に煽った。
「お前に何が分かるッ!?」
「ッ!?」
オレの怒声に、カナタがたじろぐ。
罪? 罪の意識だと? そんな当たり前のことが、いったい何だっていうんだ!?
それらを背負ってでも、辿り着かなければならない場所があるということを、なぜ理解出来ない!
「オレは――オレにはもう、これしか残っていないんだッ!」
殺すためだけに生きている。
口にはしなかったその言葉で、内側が急速に冷めていく。だから、気付くことが出来た。
未だに眠気が抜けきっていない瞳。オレをまっすぐに見つめるその視線。
言葉を失うオレに代わって、メロディの喉が震える。
「……ぽぉ?」
「すまない。少し……熱くなり過ぎた――寒くないか?」
「ん……」
メロディが外套に首を埋める。
話は終わりだと、視線だけでカナタに伝えて、オレは彼女を抱き上げた。
「おい――」
立ち去るオレの背中に、カナタの声があたる。
それは、熱を孕んでいた。彼の顔を見なくとも、表情が分かってしまうほどに。
「――俺は認めないぞ……お前のことを…………それは、正義じゃない」
耳元を通り過ぎていく風に、足を止める。その言葉には聞き覚えがあった。
だから、ふと思ってしまったのだ。まるで昔の自分を見ているようだ、と。
五年以上の歳月を越えて、その時の言葉が蘇ってくる。
不思議そうに見てくるメロディへ、大事ない、と視線をおくる。
あのヒトは、あの時、こう返したのだ。
「『それは違うな。この世には最初から、正義なんざ存在しちゃあいない。あるのはただ一つ、強者が謳う寓話だけ』」
カナタに届いたかは分からない。しかし、これ以上言葉を重ねるつもりはもう、オレにはなかった
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