1-2-9
遠くの空が白み始めたその時、彼の静かな動揺が、辺りの空気を揺らす。
「――悪魔…………」
つい、と動いたイザベルの瞳に、瞠目する奏汰の顔が映りこんだ。
彼女の頬がつり上がる。
「おや、その呼び方はどこで知ったのかな?」
奏汰は答えない。血赤の髪を追いかける彼の視線からは、思考の余裕すらないことが窺えた。
まあいいさ、とイザベルはその先を見る。
「答えは自ずと向こうからやってくる」
彼女の吐く息は白く、熱気を多く孕んでいた。
血塗れの魔剣が吼える。敵手を斬獲せん、と。
対する聖剣は、仕手の力不足を嘆き、弾けた。
その事象から、二振りの間には絶対的な重量の差があると知れる。
「ク、ソッオォォォおおお!」
苦悶の声が身を捩り、魔剣の顎から逃れる。
男の身体に傷のない部位などなく、纏う衣は血で斑に染まっていた。
「――シッ――」
黒く乾いた唇から漏れる短い、呼気。
昏く濡れた血赤の隙間から、ポプリの瞳が覗いた。
昂り、夕日のように光る、それ。
踏み出した足を軸に、もう片方の魔剣が唸る。
闇夜に尾を引く黄昏色。
それには最早、勝利へ続く道しか映っていない。
敵を追ひ撃つ剣。
濁り、捩れた音。
悲――
「ッぐ、ガァア!? ああぁぁぁあぁぁぁあああ!!!」
――鳴。
魔を迎える剣。
衝突、鉄の残響。
ポプリは左腕の魔剣で聖剣を縫い留めると、男の懐に潜り込んだ。
装飾のない魔剣が跳ね上がる。
主が望むのであれば――
敵の体側を這う装飾のない魔剣。それが真っ直ぐ男の脇へと向かった。
――それを成すのが騎士の務め。
ズッ、と短い音が夜の帳を揺らす。
その後に聖剣は、男の腕もろとも宙を舞った。
「ッ――――――――!!!」
欠落したものを手探る男の手。しかし、彼が求める物は最早、そこにはない。
赤い噴流に抗えず、彼の手は押し戻される。
血煙のただ中で、ポプリは全ての魔剣を送り還した。
彼の視線は最早男に向いておらず、地面に横たわる聖剣にのみ、注がれている。
泥濘の音を重ねるほどに、それは火勢と鮮やかさを増していく。
切り落とされた腕が、聖剣を握っていた。
すでに意思など、かよっていないというのにだ。
醜く歪んだ腕は、男の強い執着心を物語っているようにただ、そこに在った。
一切の容赦もなく、ポプリの足が振るわれる。踏みつけ、踏みにじり、蹴り飛ばした。
邪魔な物を剥いだポプリは、聖剣を手に男のもとへと歩き出す。
剣身のみならず、鍔、握り、柄頭にいたるまで、聖剣には魔力が流れていた。
まるで、魔力で織られたかのような在り様に、ポプリは喉を震わせる。
「答えろ聖騎士、七年前のことだ。なぜお前等は、あの村を襲った?」
「うッつぁ、ァ――ァァァ、――」
白く剥き出しとなった瞳に、突きつけられる聖剣は映っていなかった。
男の声に気を悪くしたポプリが、切っ先で彼の体表をなぞる。
一呼吸も経たないうちに、男は鋼で地面に縫い付けられた。
「オレの言葉が分からないのか!? オレは言ったぞッ答えろと! 言えッなぜだ、なぜ!?」
「――ア゛ア゛ア゛ッァァァ!? ――――じら゛な゛い゛! じら゛な゛い゛ん゛だ! な゛ん゛の゛ごどだが、お゛れ゛に゛わあ゛ア゛ア゛ァァァ!?」
傷口を広げられ、男の声から意味が消失した。
聖剣を捻じったポプリは埒が明かないとばかりに瞑目する。
その時、夜が、明けた。
遠く、地平の彼方から差し込む光を背に受けて、ポプリの瞳が外気に触れる。
彼の輪郭が、黒く、淀みのような魔力で滲む。
影によって塗り潰された中、赫奕たる一対の意思はなにを思うか。
ポプリの魔力は、今この時をもって最高潮に達する。
「今一度、名乗れ。お前の名を、今、ここで」
潮が引くように、男の叫びが小さくなっていく。
一度合わさったが最後、彼はポプリの瞳から目を離せなくなっていた。
水気を帯びた瞳が、一度大きく揺れる。
「あ、ぅぁあ――」
「疾く」
「――ッ!? ぁ゛、カイエ゛……っ……セント――ブルク…………」
「【業を背負いし、この身は咎人――」
ポプリの言葉を契機に、黒が聖剣を侵し始める。
瞬く間に剣を塗り潰した魔力は、その食指を喘ぐ男にまで伸ばし始めた。
行く末を見守っていた奏汰の声が震える。
「あいつ――ポプリは、なにをして……?」
「何って、魔術だよ。あれもね」
「魔術…………」
彼のうわ言に、意味は籠っていなかった。食い入るような視線は、僅かたりとも男達から離れない。
聴いちゃいないか、そう零したイザベルの眉が跳ね上がる。
空間を劈(つんざ)く剣の絶叫。
ポプリの眉間に深い皺が入る。それでも、彼は魔術を断行した。
膝をついた奏汰の隣で、イザベルが身を掻き抱く。
「こんな……こんなことは初めてさ。いったい、何が起こるっていうんだろうね……」
全てを呑み込んだ黒が、剣を締め上げる。その姿かたちすら支配せんとするように。
絶叫が臨界に達しようとしていた。
「【――その罪、魂をもって贖え。権能発――ッ!?」
一陣の風が、駆け抜けていく。世界は、糸が切れたかのように静かになった。
耳から手を恐々と離す奏汰。呆然と見開かれた瞳は、イザベルの背中を追う。
悠々とした靴音が、戦場に響き渡る。
それに気が付いたポプリ。空間を染める魔力も、炯々と燃える瞳も、今の彼は持ち得ていない。
遺体を跨いだイザベルが、血の滴る彼の手を取った。
「砕け散ったように見えたよ。いったい何がどうなって――」
「贋作だった」
「――ん?」
ズタズタになった掌から、破片を取り除いていたイザベルは見ていない。
押し込められた彼の表情も。
衝撃に揺れていた瞳も。
血糊を濡らした一条の感情も。
それらを見ていたのはただ一人。離れて見ていた奏汰、ただ一人だけだった。
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