1-2-7
「――開演予定は今から半刻後。開幕の合図はマーチが行う。第二小隊はそれにあわるように」
月明りに照らされる場に、血の通っていないポプリの声が流れる。
平野にある帝国軍の施設を見下ろすように、彼らは崖上に陣取っていた。
周囲に音は少ない。
無数の呼吸と同数と思われる金属音。
ポプリを初めとする隊長格の話し声。
女性のくぐもった呻き。
奏汰が頻りにたてる衣擦れ。
「な、なぁ……」
「作戦はソナタ……攻勢嬰ハ短調でいいだろう。いつも通りだ」
「むーっまあいあ、いううあー」
忌々しげなポプリの言葉が、奏汰の戸惑いを切り捨てる。
奏汰は眉尻を下げて、イザベルへ視線を向けた。
「ううあ、ああく、こえおおくんだ!」
「えぇ……」
複数のベルトで拘束されたイザベルが、地面で身を悶えさせながら何かを奏汰に訴える。
崖下から這い上がる夜風。強い困惑の念が、雫となって奏汰の頬を滴った。
「――各自、装備の点検を怠らないでくれ……」
ポプリが仕事は終えたとばかりに溜め息をつく。
振り向いた彼の視線が、横たわるイザベルへと向けられた。
彼女の瞳が輝く。呻き声に勢いがついた。
二人の間から音が退いていく。ポプリの足音がやけに大きく響いた。
彼の両手が革帯に触れる。そっと、優しく、慈しむかのように。
「シェフ……」
「ほふい、たのうおっこえあなあおおいあ!」
イザベルの後頭部で金具がカチャリと音をたてる。
彼女を抱き込むようにしていたポプリは、一息に、弛んでいた拘束を締め上げた。
「駄目だと言ってるのが分からないのか――」
「んーッ!?」
「ちょっ!」
ポプリは二人の反応を無視し、他のベルトに緩みがないか確認を始める。
彼の視線が揺るぐことはなく、点検を行う金具に固定されていた。
「――戦場を歩き回る指揮官がどこにいる? いくら不死身と言われてようが、オレ達は気が気じゃないんだ。いい加減に諦めてくれ」
確認を終えた手が、自らの外套へと伸びる。
ポプリはそれをイザベルへと被せた。まるで彼女の視線から逃げるかのように。
「カナタ」
奏汰のもとに声が届く。
彼は大人しくなったイザベルとポプリを交互に見ている最中だった。
「は、はいっ――ッ!」
ポプリの身振りを見て、奏汰は口を押える。言外に声量を落とせと言われていた。
乾いた風がポプリの赤髪を乱す。
奏汰はそれに背中を押されるように、一歩、また一歩と足を進める。
乱れる髪もそのままに、ポプリは剣帯の確認に集中していた。
呼び出しておいて一向に口を開かない彼。
奏汰はそれに業を煮やしたのか、唇をきつく噛んだ。
「……なんだよ。言っとくけどな、俺は魔――」
「おまえにはシェフの見張りを任せる」
「…………は?」
少年の反応に、ポプリは装備から目線を上げる。
奏汰は彼の視線に後退った。
血赤の瞳はいつもより、いや、それ以上に昏く、乾いていたからだ。
「こ、ここまで連れてきて、俺は居残りなのか?」
奏汰が負けじと言葉を発する。しかし最初の一音は絞り出したかのように擦れていた。
あぁ、と奏汰から興味が失ったようにポプリは点検に戻る。
「シェフを一人にして行くのは気がかりだ。何をするか予想がつかない。あのヒトは過去に自走車で戦場に突入してきたことがある」
「だから、態々ああして連れてきたのかよ……」
奏汰のぼやきはポプリに届いていない。
彼は身体に仄暗い魔力を纏わせて、一つ、息を吸った。
小隊ごとにまとまっていた視線がポプリに集まる。
「オレは北西から攻める、以上だ」
先に行く、とポプリはそう残し、一人で木立の闇に姿を消した。
「なら俺達も行くとするか、なぁメロディ?」
「ん、ぽーのためにいっぱい闘う!」
第二小隊がぞろぞろと森の中に入っていく。
これから戦場に向かうというのに、彼等からは緊張感が感じられない。
散歩にでも行ってくる、そう言わんばかりの態度を、咎める者はここに居なかった。
最後に残るのは第一小隊。彼女達は微動だにせずに小隊長の言葉を待っている。
マーチが、呆然と立ち尽くす奏汰へ一歩近づいた。
奏汰の顔に影が差す。彼は二重の意味で驚いた。
眼前へと迫る大きな手。
しかし、咄嗟に構えた奏汰に訪れたのは、温かく、優しい感触だった。
「焦るな……まずは知ることだ。力を示すのは、その後でいい」
「…………」
そう言ってマーチが部下達に向き直る。
多分に熱の籠った視線をその身で受け止め、大男は言う。
「肩の力を抜け。平常心を心掛けろ。戦場は、乱れた者から命を落とす場所と知れ」
行くぞ、と歩き出した背中を一糸乱れぬ行進が追う。
奏汰の前髪を夜風が弄り回す。未だに風は強く吹いていた。
「んッむーっ!」
「はぁ……いい加減諦めたらどうですか? ポプリも――ああ言ってましたし」
奏汰は言葉の途中で苦虫を噛み潰したような表情をした後に、遅れて気が付く。
イザベルの様子がおかしい。
「いやいやいや、ダメですよ。そんな顔したってダメなものは……」
首を横に振り、自らの意思は固いと奏汰は示す。
しかし彼の視線は、イザベルの瞳に釘付けとなっていた。
何かを懇願するようなその瞳。潤み、月明りの中で瀟洒に輝く白金のそれ。
「――ふむっん、うぅー!」
「……イザベル、さん?」
上気した頬、苦しそうな彼女の吐息に、奏汰の手が吸い寄せられていく。
数度、金具の擦れる音が闇の中で生まれる。
自由となった口から、湿った息が吐きだされ、小さな声がそこから漏れ出た。
「……後生だ、勇者君。お花を、摘みに行かせてくれないか…………」
「――は? 突然なに、を…………」
一瞬、理解出来ないといったものになった奏汰の顔が、瞬きの間に赤く染まる。
イザベルの瞳は、狼狽える奏汰を離さなかった。照準器を覗き込む射手のように。
限界まで溜めこまれた涙が溢れそうになっている。
「まずい。まずいぞ……このままでは、このままじゃ……もし、そうなったら――崖から飛び降りた方がましだ…………」
「わーっ! 分かりました、分かりましたからッだからもう少し我慢してください!」
奏汰の頬で汗の雫が光る。
俄かに騒がしくなった薄闇の中で、細枝の折れる乾いた音がした。
「もうちょっと……もうちょっとですよー! あと少しですからねッ!」
もたつきながらも、奏汰の手がイザベルの拘束を外していく。
はやく、はやく、と彼女に急かされ、その手が一際大きく震えた。
革帯が完全に外れるよりも早く、奏汰はその場から飛びずさる。
固く閉ざされた両目。強く耳に押し当てられた両手。屈む姿は路傍の石のよう。
だから、すぐに気が付くことが出来なかった。
発条のように跳び上がる肢体や、地面が力強く蹴られる音に。
彼が気付いた時には、もう遅い。
「――え?」
辺りに轟いたのは、奏汰が想像していた水音ではなく、重量物が高所から低所へと打ち付けられるもの。
振動を不審に思った彼が周囲を窺うも、付近にイザベラの姿はない。
「しまっ――」
その時、不思議な現象が起こった。崖下で強い光が発生したのだ。
切り落とされた地面の際まで、恐る恐る近づく奏汰。
彼が見たものは、闇の中で乱暴に塗りたくられた黒。
その中で蠢くナニか…………。
「ひッ――!?」
「――甘い、君は考えが甘いよポプリ! いつも同じじゃ退屈していしまうじゃないか!? 強く! さらに強く! とても強く! 好き勝手にやらせてたら良い
悲鳴を喰いちぎった奇声が、藪を鳴らしながら遠のいていく。
彼の思考が現実に追いついた時には、イザベラの姿はもう見えなくなっていた。
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