16.サラ ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 オースヒルの町は昨晩から光のドラゴンの話題で持ちきりだった。昨日の午後、町の上空を光のドラゴンが横切って南に向かったというのだ。


 その時サラは身を寄せている親戚が営む宿屋の仕事をしていて、室内にいたので見ていない。皆が見たと言うのを疑ってはいないが、自分の目で見たわけではないから実感がなかった。


 〈盟約の丘〉があるオースヒルの町が観光客目当ての商売で成り立っていたのはずいぶんと昔の話だ。今では観光客などほとんど来ないし、人口も減り、町は衰退している。ほとんどの店は廃業して、残っているのはサラの親戚が営む宿屋〈ブーツを履いた馬〉と、居酒屋に土産物屋が数軒だけである。


 しかしサラがオースヒルに到着した時には、町はたくさんの人で溢れていた。オースヒルは王都から北西に三日の距離にあるので、王都周辺に住む人々が一時的に避難するにしても、様子を見るにしても、ちょうど良い位置だったのである。


 町の人々は空き家を避難民たちに解放した。空き家は建っている土地も含めて町の共有地なので、住民会議で扱いを決められる。


 サラが宿屋〈ブーツを履いた馬〉に到着した時には、宿も満室になっていて、客は全員が避難民であった。


 オースヒルに来るのは初めてだったし、突然手紙を出しただけで親戚夫婦とも初対面であったが、二人はサラと娘を快く受け入れてくれた。そこには宿の仕事に手が必要だったという打算もあったかもしれない。


 ――夕食のためにカブ、リーキ、キャベツを洗って泥を落とし、生け簀いけすに水を足し、厩に飼葉を入れ終えて、サラは夕食時までの空き時間を得た。


 二人のために荷物を除けてくれた物置部屋に戻ると、幼い娘のララが木炭で何かを描いている。ララは絵が好きで、ハイハイするよりも早く絵を描くようになったほどだ。その頃はまだサウスキープにいて――と、そこでサラは考えるのを止めた。


「なにを描いてるの?」


 ララに問いかけると、幼子は顔を上げて木炭に汚れた小さな手を突き出し「えーぃ!」と笑顔で声を上げた。サラは躊躇わず、汚れた手を取ってララを太ももの上に乗せる。


 絵を見ると、ぐるぐる線で塗りつぶされた丸が二つ縦に並んでいて、より大きな下の丸からぐにゃりと曲がった線が四本出ている。絵から読み取れる情報はそれだけだったのに、何故かサラはそこに描かれているものが分かった。


「これ……お父さん?」


 思わず問いかけると、ララはきょとんとした顔を向ける。


 ――ロクスとの結婚を決めた時、同世代の女友達からは〝なんであんな爺さんと〟と言われたものだ。確かにロクスは四〇歳で、見目も良いとは言えなかった。髪は薄かったし、ただでさえずんぐりした体型なのに腹も弛んでいた。


 サラは以前からそういう人が好みだったわけではない。なぜ結婚を承諾してしまったのか、実のところ彼女自身悩んだ時期もある。


 結婚を申し込みに来たロクスは、「ちょっと落ち着いてください」とサラのほうが心配してしまうほどガチガチに緊張していた。顔を赤らめていたのは、サラが好みだったせいか、自分の年齢に見合わぬ若い娘に結婚を申し込もうとしている事を恥じているせいか、分からなかった。


 ともかく、ロクスはたどたどしく想いを伝えてきた。最初は何かの冗談かと思っていたサラも、つられて真剣になってしまうほどの真摯な目をしていた。


 その時ふと、サラの脳裏に〝もしも承諾したら、どうなるのかしら〟という、からかいにも似た思いつきが生じる。それで、サラは紛らわしい言い方をした。最後には断るつもりで。


「はい……ただ……」


 その瞬間のロクスの笑顔をサラは今でもはっきりと覚えている。


 〝ぱっと太陽のように輝く〟とはまさにああいう笑顔を言うのだろう。


 とても純真な、素直な喜びに満ちた笑顔は、サラの心までほんのりと温めた。


(こんな笑顔をする人となら、きっと幸せになれる)


 サラはそう思った――。


(そう思ったのに……)


 複雑な怒りと悲しみの感情がサラを苦しめる。


 ロクスを奪った帝国軍と戦争は許せないが、サラを残して逝ってしまったロクスにも怒りはあった。ロクスを失った悲しみは、一人残された自分自身への憐れみかもしれなかったし、父親を知らずに育つララを不憫に思ったからかもしれない。向ける先の分からぬ怒りと悲しみが胸の中で混沌としている。


 しかし、膨れ上がる感情を止められなくとも、泣き崩れてしまう事はない。もうそういう時期は過ぎてしまったのか、あるいはまだそういう時期でないのかは分からない。


 瞳を潤ませた涙を拭うと、ララはいつの間にか扉の所にいた。外に行きたいらしい。まだ時間はあるので、サラは娘を抱えて外に連れ出した。


 昨晩に降った雪が屋根にうっすらと積もっているが、宿の裏庭は踏み荒らされ、白い雪は残らず泥になってしまった。まだ歩くのが上手くないララに泥の上を歩かせるわけにはいかないので、娘を抱えたまま裏庭から宿の正面に出て、厩の前を通り過ぎ、オースヒルの目抜き通りに出た。


「うーっ」とか「うぇーぃ」とか言いながら、ララは手を伸ばしてどこかに行きたがっている。


 ララの行きたがる方向に目抜き通りを歩き出すと、開放された空き家の前にいるエッドと出会った。彼はブラックウォール城からオースヒルまでの道中を助けてくれた恩人である。本人曰く、〝別に行くあてもないから〟という事らしいが。


 サラが軽く会釈すると、エッドは近寄ってきた。

「サラさん、聞きました?」と、声をかけてくる。


「ドラゴンの話です?」


 サラが聞き返すと、エッドは「いや」と首を振る。

「戦争の話です。ついに王都で戦いが始まったと……」


 正直なところ戦争の話など聞きたくなかったが、エッドが善意で教えてくれているのは分かる。


「そうですか……エッドさんの言うとおり、王都を避けて正解でしたね。もし立ち寄っていたら巻き込まれていたかも……助かりました」


 普段から陽気なエッドだが、少し照れたような、困ったような顔をした。その反応は、ギャレットに礼を言った時の彼に似ている。


「いや、ま、それはそれとして……もし帝国軍が勝利して北に進軍してくる気配があるなら、もっと北か西に逃げなきゃならないかもしれません。準備と心構えはしておいたほうがいいかと思って」


 これ以上、まだ逃げなければならないの――長旅のせいでまだ痛む足を意識しながら、サラはうんざりした。もし自分一人ならもう諦めてしまっていただろう。だが、腕の中で身動ぎするララがそうさせてはくれない。


「わかりました。まだ荷解きもしていませんし、そのままにしておきます」


「そのほうがいいですね――ところで、どこか行くんですか?」


 ずり落ち始めたララを抱えなおして、サラは答える。

「この子が外に出たがったので、ちょっと散歩に」


「俺も一緒に行っていいですか?」


「ええ、まあ……ほんとにただの散歩ですけど」


 サラの言葉に、エッドは苦笑いして「いやぁ、もう暇で暇で仕方ないんですよね」と言った。


 ララの行きたがる方向に三人は歩いた。エッドは光のドラゴンを見たらしく、その話をしてくる。サラは相槌を打ちながらエッドの話に付き合った。本心ではあまり人と話す気分ではなかったのだが、オースヒルまでの旅路でエッドには相当世話になっている。恩人を無下にはできない。


 目抜き通りを外れて人気のない坂道を上り始めると、エッドが言う。


「あの丘、〈盟約の丘〉とかいう名前でしたっけ。そこかな?」


 確かに、ララの示す方向には〈盟約の丘〉がある。痛む足で丘を登りたくはなかったのでサラは引き返そうかと考えた。しかし、ここまで来たなら最後まで、という意地もある。


 結局、三人はララに従って〈盟約の丘〉の上までやって来てしまった。途中からエッドにララを預けたにも関わらず、息を切らしてやっと登りきったという感じである。


 話半分で聞いていたエッドの話によれば、光のドラゴンを見た人たちが〈盟約の丘〉に集まったらしいが、この時は三人の他に誰もいなかった。地面を見ると薄く積もった雪の上に足跡が残っている。


 丘というには大げさな〈盟約の丘〉は、それでも頂上まで来ればオースヒルにあるどの建物より高い。雪化粧の斜面にはまっすぐに滑り降りた跡が残っている。誰かが落ちたのではなく、子供がで滑って遊んだのだろう。戦場に遭遇していない子供にとって戦争はまだ物語の中のものだ。


 灰色の雲の隙間に見える太陽は朱に染まり、日没までそれほど時間がない事を知らせている。遅くとも日没時には戻らなければいけないが、一息つく程度の時間はある。


 戦争の暗い影はオースヒルにも見られたが、サラの経験してきた悲惨さはまだ無い。町にいるほとんどの人たちにとって戦争は、サラにとっての光のドラゴンと同じようなものだ。実在を疑ってはいないが、実際に目で見るまで、実際に体験するまで、どこか本当ではないようにしか感じられないのだ。


 丘の上に吹く冷たい北風が火照った顔に気持ちよく感じられたのは最初だけで、すぐに寒くなってくる。


 そろそろ帰ります――そう言うつもりで振り返ったサラは、奇妙なものを見つけて目を丸くした。ララを抱いて後ろに立っていたエッドはサラの表情に気付いたのか、怪訝な顔をする。


 低い縄で囲まれた内側、〈盟約の石碑〉のすぐ裏から二本の素足が地面の上に横たわっているのが見えていたのだ。


 すらりとした、女性のものと思しき足は素足であるにも関わらず、まったく土に汚れていない。ずっとそこにあったのなら登ってきた時に気付きそうなものだが、サラには自信が無かった。登るのに必死だったからだ。


 サラが固まっているので、エッドも振り返って、「えっ!?」と驚きの声をあげる。


 自分だけならまだしも、エッドが気付かないなんてあるのだろうか――サラには訳が分からなかった。登ってきた時には無かったのだとすれば、この短い時間の間に、そこに出現した事になってしまう。まるで魔法のように。


 エッドはサラにララを返し、〝動かないで〟と手で指示しながらナイフを抜いて石碑の裏へ忍び足で回り込んだ。そのまましばし、そこにあるものを目にして動きを止める。


 サラは待ちきれずに問いかけた。

「な、なんです?」


 エッドは奇妙なものを見たという顔のまま答える。


「全裸の……女が一人、男が二人……ですね。気絶しているのか、眠っているのか……生きているのは間違いないです」


 サラも石碑の裏を見ると、そこにはエッドの言うとおり、全裸の人間が三人並んで倒れていた。サラより年上に見える赤毛の女が中央で、その左右にサラより若い男が二人、女を挟んで寝ている。三人とも肌の色からファランティア人ではない。血色は良く、この寒空の下で放置されていたようには見えない。


 まるでこの場に今、生まれ出たみたい――何故かそんなふうに思ったが、そんな事があるはずもない。


 とりあえず、サラは石碑の下部、台座のようになっている部分にララを座らせてから、首元の結び目を解いてマントを外した。


「どうするつもりです?」


 エッドに問われ、サラは答える。


「えっ、だって……こんな格好で寝ていたら病気になってしまいます」


「いや……でも、こんなの普通じゃないですよ」


 そう言いつつも、エッドはサラの行動を止めはしなかった。外したマントを裸の三人にかけると、エッドも自分のマントを外してサラに渡しながら言う。


「とにかく、誰か呼んできます」


 サラにナイフを持たせ、エッドは全速力で丘を駆け下りて行った。


「あぃー」


 ララの声がして振り向くと、赤毛の女が目を覚ましていた。サラはナイフを地面に置き、恐る恐るエッドのマントをかけてやりながら話しかける。


「あの、あなた……大丈夫?」


 しかし、赤毛の女はサラの言葉に反応しなかった。見るからに外国人なので言葉が通じないのかと思ったが、それよりはむしろ言葉を聞いた事がない赤子のような反応だ。


 赤毛の女は手を伸ばし、左右の男を抱き寄せた。顔を並べて見ると、右側の若者は赤毛の女に似た顔立ちをしている。しかし左側の太った少年は肌の色からして違っていた。


(でも、親子なんだ)


 サラははっきりとそう確信した。


 赤毛の女が見せた表情は、母親が子供に向けるものだ。赤毛の女は二人の子供を撫でて、頬を寄せる。子供たちは母親にしがみ付き、安心しきって眠り続けている。


 赤毛の女はまるで、母親としての愛情以外全てを失ってしまったようで、それゆえに完全なる母親の姿であった。子供たちは生まれたての赤子のように一切の躊躇もなくその愛情に浸っている。


 純粋なる母と子の姿に、その愛情に、サラは胸がいっぱいになった。そして、ふいに心の底から悲しみが溢れ出す。


 それは、もうロクスの愛情に応えられない悲しみであり、ロクスに愛情を与えられない悲しみであり、愛情の行き先を失った孤独の悲しみであった。


 唯一残された愛すべきもの――ララを抱き上げて、サラは溢れ出る涙を堪えようともせずに泣き崩れた。ロクスの死を知ってから、それは初めての事だった。


 ララは不思議そうに、母の目から溢れる涙に触れてから、「あーぃっ!」と元気な声を上げて、南の空に現れた一番星に手を伸ばした。




〈エピローグにつづく〉

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