15.エリオ ―盟約暦1006年、冬、第11週―

 ファランティア東部にある海沿いの町クリールは、狭い入り江に面した小さな漁港のある町だ。入り江は大型船が入れるほどの広さも深さもなく、港も地元の漁師が使うだけの小さなものである。


 東部で最も南に位置しており、辺鄙な場所にあるので、普段は訪れる者も少ない。入り江の入口には四角い石造りの灯台が立っていて、町を見下ろす丘の上には領主やその家臣が滞在するための館がある。


 貿易海から町に吹き込む風は磯臭いが暖かく、王都に比べて温暖である。真冬の頃には雪も降るが、長く残る事はない。しかし町中は舗装されていないので、冷たい泥濘が所々に出来てしまう。


 全てタニアから聞いたとおりだ――と、エリオは街を見て歩きながら思った。


 クリールは彼女の偽りの経歴で出身地となっていた町である。仮に話が詳細に及んでも対応できるように覚え込んだのだろう。広場の隅に枯れ井戸があって蓋をしてあるが、その蓋は脆くなっているので乗ると危ない――という話まで本当だった。


 この町の名を聞いたのは彼女の口からだけではない。王都ドラゴンストーンに潜伏している間にも、他の外国人から聞き及んでいた。


 ホワイトハーバーが帝国軍によって封鎖されてしまい、ファランティアから出られなくなった彼らが見つけ出した脱出路がまさにこの町だったのだ。貿易海に面していて、かつホワイトハーバーの帝国軍から離れており、港がある。大型船は入って来られないが、入り江の外に待たせておいて小船から乗り移ればいい。


 とはいえ、エリオがこの町にやって来たのは運任せの賭けであった。

 自分らしくもない、と彼自身思っている。

 特に、町の様子を目にしてからは。


 ――帝国軍の野営地を抜け出してテッサを目指すエリオには、大きく分けて二つの選択肢があった。


 一つは南に向かい、陸路でテッサに戻るという選択肢である。道中はテッサニア軍が押さえているので、〝ロランド閣下の特命である〟と言えば協力も得られよう。


 もう一つの選択肢である東のホワイトハーバーに向かう道中でも同じ理由は使えるだろうが、テッサニア軍ほどには便宜を図ってもらえないだろうし、注意も引いてしまうだろう。


 しかし、うまくテッサに向かう船があれば最短で戻れるという利点がある。アレックスはもういないだろうから、〈みなし子〉の協力は得られないと考えておいたほうがいい。


 どちらにしても、エリオが移動した痕跡を残してしまうというのが問題であった。どんな理由であれ誰かがエリオを追跡しようと思ったら、テッサに向かったと簡単に知られてしまう。


 その事が引っかかったまま、エリオは陸路で南に向かう道を選んだ。なるべく人目を避けて進み、もうそろそろ街道封鎖している帝国軍と遭遇するという所まで来て、エリオはふと馬を止め、背後を振り返った。まだ迷いが残っていたためかもしれない。


 もう王都ドラゴンストーンは影も形も見えない距離であったが、王都のある方角から東に向かって飛ぶ光が見えた。まるで流星のように尾を引きながら飛んで行き、やがて見えなくなった。


 それが何であるか、エリオには想像もつかなかったが珍しいものを見たのは間違いない。そして唐突に、クリールという町の事を思い出したのだった。


 エリオは何故かその思いつきに賭けてみる気になり、南へ向かう道から外れて東へと馬を走らせてきた――。


 クリールの町はタニアから聞いていたとおり閑散としていたが、一時期は出国する外国人に溢れていたようで、その名残が見て取れる。


 例えば、テン・アイランズで使われる貿易語で〝ベッドあります。一晩銀貨三枚より〟と書かれた板を扉に吊り下げた民家とか、手書きで船のマークが描かれた看板を下げた家――おそらく、地元の漁師で船を出してもらえるのだろう――などである。


 町の中心地と思しき広場へやって来たエリオは、情報を仕入れるため船の看板を下げた店に入ろうとした。しかし扉には鍵が掛かっている。


「失礼。誰かいないか」

 扉を叩いて呼びかけても反応がない。


 振り返って広場を見回しても、エリオの他には旅人も外国人もいない。町はかつての日常に戻ってしまったのだろう。


 そこへ、一人の外国人が広場に面した店の一つから出てきた。しかも見覚えのある顔と服装だ。確か、マイセンだかメルセンだか、そういうような名で――とにかく〈白鯨号〉の乗組員なのは間違いない。


(あの光が俺を導いたのかもしれないな!)


 エリオは本気でそう思いながら〈白鯨号〉の乗組員に駆け寄って声をかける。


「おっ、エリオさんじゃねぇですか」


 その乗組員は驚いた様子でそう言った。

 エリオは演技ではなく笑顔で答える。


「こんな偶然があるものなんですね! まさか〈白鯨号〉が来ているとは。実はとても困っていて、グイド船長に会わせてもらえませんか?」


「えっ、はぁ、あんたならいきなり連れてっても問題ねぇでしょうけど、他の連中が用事済ませるまで待ってくだせぇ。俺は用事済んだんで、一緒に上陸船まで行きやすか?」


「ええ、お願いします」とエリオは頷いて、二人は連れ立って小さな港まで歩いた。適当に雑談しながら時間を潰して、他の乗組員が戻ってくるのを待ち、上陸船は入り江の外に停泊している〈白鯨号〉に向かった。


 〈白鯨号〉は入り江の岬に隠れるようにして停泊していた。

 エリオは船長の許可が出るまで上陸船で待たされたが、すぐに乗船を許される。


 甲板に上がったエリオをグイド自ら出迎えた。相変わらずの巨体で、全身の脂肪を揺らしながらひょこひょこと、足首から先が木の棒で出来た足を突いて歩いてくる。最後に会った時との違いは上着を着ている事くらいだが、それも袖なしの上着を一枚羽織っているだけだ。人一倍、白い息を吐きながらグイドは両手を広げて歓迎の意を示す。


「いよぉ、エリオ。やっぱりお前さんは〈白鯨号〉に乗る運命なんだなあ。死んだはずのお前さんから手紙をもらった時は肝を冷やしたぜ。で、またロランドに厄介事でも押し付けられたのかよ?」


 グイドは太った瞼に埋もれた目で不器用にウインクした。タニアに持たせた手紙の件を言っているのだろう。エリオは苦笑いしつつ答える。


「あの時の借りはいつかお返しします……と言っておきながら、また借りを作る事になってしまいそうです。ですが、これが最後の〝厄介事〟です」


「そっか」とグイドは軽い返事をして、よたよたと方向転換し、エリオを手招きした。肩越しにちらりと見せた目は、これまでになく真剣だ。


「来いよ、船長室で話そうぜ。ここは寒いしよ」


 ほとんど裸同然の格好をしているのに、と乗組員の誰かが冗談めかして指摘するかと思ったが、誰も軽口は叩かなかった。その雰囲気を察しつつ、エリオはグイドについて行く。


 船長室に招かれるのはエリオでも初めてだった。室内を飾る様々な品物は、海賊を気取る収集家の部屋を思わせる。しかし、一つ一つの品をよく見れば単なる収集品ではないと分かった。ここにある品は全て本物で、グイドの過去そのものなのだ。


 グイドは自分用の大きな綿入れクッションの山に、どすんと巨体を投げ出した。部屋全体がガタガタと揺れる。


「この部屋に入れるのは初めてだったな。まあ、適当に座ってくんな」


 部屋を見回していたエリオは、腰掛けを見つけて言われたとおりに座った。


「さて、腹を割って話そうぜ。ここでは隠し事は無しだ。本当に腹を割っちまうかもしれねぇからな」


 そう言って、元海賊の船長は丸くて巨大な腹に親指を走らせ、続けて問う。


「んで、どういう訳だい?」


「私を、テッサ経由でパリンシャットまで乗せてください。運賃については、正直に言うと確約できません。テッサ城から持ち出せた金品からお支払いする……という事でどうでしょうか」


 エリオの答えに、グイドは手を払う。

「いや、そこじゃねえ。〝これが最後の〟ってとこだ」


 グイドの興味を引くために付け加えた一言だったが、エリオはロランドの死を話すつもりは無かった。死期が間近なのは確かだが、まだ生きているかもしれないし、いつどのような形で公表されるのかも分からない。今ここで話してしまったら良くない結果を招くかもしれない。


 そして何より、最後の命令を達成するまで、エリオがロランドの所有物であることに変わりはないのだ。


「今は、まだ話せません」


 エリオは真剣な眼差しで答えた。グイドはその視線を受け止めて聞き返す。


「〝今〟じゃなきゃ、いいのか?」


 どう答えるべきか、エリオは悩んだ。嘘をつくのも、誤魔化すのも駄目だ。


「全てが済んだら、〝最後〟の意味も、私に関する事なら何でもお話しします。ただ、この仕事が終わるまで待っていただけませんか」


 誠意は見せたつもりだった。後はグイドがそれをどう受け取るか。エリオは待った。


「……仕方ねぇ、お前さんのそういう所が気に入ったんだもんな。いいぜ、引き受けてやらぁ」


 エリオは思わず、安堵のため息をつきそうになった。


「ありがとうございます」


 グイドも緊張を解いたように表情を緩める。


「うんにゃ。それはそれとして、貸しはきちんと返してもらうぜ。最後の仕事とやらが終わったら〈白鯨号〉で働いてもらう」


 グイドは最初からそのつもりだったのだとエリオは気付いた。最後の任務が終わったらどうすべきか、何をすべきなのか――そんな悩みもあっさりと解決してしまった。


「ありがとうございます」

 エリオは心から感謝した。


「おいおい、これは取引なんだぜ。それに、船の仕事はそんな楽じゃねぇぞ。今まではお客さんだったがよ、一番下っ端から始めるんだ。後から文句なんて言わせねぇ。ま、期間はそん時の仕事次第だが、一年から二年ってとこか。その後はお前さんの好きにすればいい。この船に残ってもいいし……ま、無理強いはしねぇよ。この船を気に入ってくれたら、わしとしちゃ嬉しいがね」


 ますます綿入れクッションに身を沈めて、天井を仰ぎ見ながらグイドは言った。エリオは以前にも聞いた質問をもう一度聞く機会だと思って尋ねる。


「私のどこを、そんなに気に入ってくれているのですか?」


「お前さんは、わしの若けぇ頃に似てんのよ。若けぇ頃は女に不自由した事がなくてなあ、誰か一人なんて決められなかったし、決めなきゃいけねぇとも思ってなかった。だけど、そんなわしにも特別な女がいた……」


 グイドが語り始め、エリオは黙って聞く。


「海賊は続けられねぇ世の中になって、わしも海賊から足を洗った……まあ、この左足と右手は失くしちまったが、堅気に戻ったわけよ。ちょうどその頃、あいつにガキが出来てな。新しい生活の始まりってやつだ。まさか、そのガキがあんな怪物だとは思わなかった。さすがのわしも神罰が下ったと思ったもんよ。〝おぎゃあ〟と泣いた瞬間に、てめぇの母親を……わしの大事なエレノアを、跡形もなく消しちまった。その後も、ガキの近くにあるものは目を離すと消えちまう。船室に閉じ込めて、それっきりわしは会いに行かなかった。料理人のゼットじいさんや、他の乗組員が面倒を見ていたようだがな。そんである時、仕事で知り合った女魔術師のアリッサに相談したんだ」


 アリッサの名を聞くと、夜会の時、テラスで話した赤毛の美女を思い出す。


「アリッサはあのガキを〝特別な子〟だと言って、引き取ろうと申し出てくれた。わしはもちろん即、承諾したわけだが――なぁ、エリオ、知っている事があったら教えてくれ。ファランティアにいた魔術師は全員死んだってのは確かか?」


 エリオはグイドが何故こんな話をしたのかやっと理解した。それで、〈白鯨号〉が何故こんな辺鄙な場所にいるのかも分かった。


「年齢は十三か四くらいだ。黒髪で。わしは名付けてねぇが、乗組員たちはドンドンって呼んでた。いつも壁や扉を〝ドンドン〟叩くからだとよ」


 エリオは初めてレッドドラゴン城に登城した日を思い出す。大広間でアリッサの隣にいた太った少年が、きっとそうだ。どこかで見覚えがあると思ったのだが、グイドに似ていたのだ。


「私の知る限りでは、魔術師が全滅したのは本当だと思います。でなければ、王都にまで戦火が及んでいるのに一人も魔術師が戦場に出てこないのは不自然です。生き残りがいるという話も聞いていません。ファランティアには帝国の魔術師団の密偵も入り込んでいましたから、おそらく何か手を打ったのでしょう。この仕事が終わったら調べてみましょうか。葬られている場所か、最後を迎えた場所を探して、グイド船長の代わりに何か手向けを――」


「いいや」と、グイドは首を左右に振った。


「勘違いしねぇでくれ。わしはあのガキを許しちゃいねぇし、許すつもりもねぇ。ただよ、それでもわしのガキだからよ、知っておかなきゃいけねぇって思ったんだ。確かめておかなきゃいけねぇってな。そんだけだ。ありがとよ」


 ふいっ、とグイドは右を向いた。照れ隠しのためではない。向いているのは王都ドラゴンストーンの方角で、その目は遠くを見ていたから。


 もし自分の本当の親がどこかで生きていたとして、やはりこのように、時々はエリオの行く末を気にする事もあるのだろうか――エリオは黙って待つ間、ふと、そんな事を思った。


 しばしの黙祷の後、グイドはエリオに向き直る。


「さてと……準備に一日もらって、出航は明後日だ。ただし、お前さんを客としては乗せられねぇ。この船にいる間は乗組員として働いてもらう」


 足取りを隠すという意味で、そのほうがエリオにとっても好都合だ。


「はい、それで構いません」


 グイドはいつもの陽気な様子に戻ってにんまりと笑うと、両手を広げた。


「〈白鯨号〉にようこそ、エリオ。歓迎するぜ」


 それから二人は握手を交わし、グイドは不器用にウインクして見せた。

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