14.タニア ―盟約暦1006年、冬、第10週―
その日は天気が良かったものの、風向きが悪く、酷い臭いがした。以前は鼻と口を布で覆わなければ耐えられなかったタニアも、さすがに慣れて、布無しでも我慢できるようになっている。
小さなあばら家と、背が低く枝分かれした木の間に渡した縄へ洗濯物を干しているのだが、この臭いは確実に付いてしまうだろう。もっとも、自分では分からなくなっているだけで、風向きに関係なくタニアは魚臭いはずだ。
タニアの住むあばら家はテン・アイランズで唯一、銀行も貿易所もないピレスという小さな島にある。漁師たちの仕事場がある入り江を見下ろす高い位置にあるが、普段から魚の臭いはきついし、風向きによっては漁師小屋で樽詰めになっている魚の酷い臭いがした。
それは確実に腐っている臭いなのだが、島の人はこれを食べるし、珍品として取引もされる。
この島の暮らしはテン・アイランズが経済の中心地になる前からずっと変わっていない。近海の魚を獲り、必要なものと交換するだけの素朴な暮らしだ。
〈白鯨号〉のグイド船長の手引きでパリンシャットの酒場に預けられたタニアは、五日前後で仕事と名前を次々に変える生活が続いた。それはタニアに根気が無かったからではなく、そうするようにとグイドが手を回していたからだ。
酒場から船宿へ、船宿から魚屋へ、魚屋から肉屋へ、肉屋から貝売りへ――それぞれの店主は前の店主と繋がりの無い店にタニアを紹介していくので、彼ら自身、もうタニアがどこで何と言う名前で働いているのか知らないという具合である。
グイド船長が何者で、どれだけこういう事をしているのか、タニアは疑問に思いこそすれ確かめようとは思わない。自ら危険に首を突っ込むような愚行を冒すつもりはなかった。
そうして行き着いたピレス島で、タニアはこのあばら家の持ち主と出会い、今は一緒に暮らしている。
洗濯物を干し終えたタニアは桶を持って家の中に入った。隙間風の通る――良く言えば風通しのいい――家の中に彼の姿はない。おかしいなと思いつつタニアは家の周囲を探して歩き、家の裏手にある海に面した崖の上で彼を見つける。
「トーニオ」
タニアが呼びかけるとトーニオは振り向き、真っ青な空と海を背負って微笑んだ。その笑みは、ほんの少しだけエリオに似ていなくもない。
幼い頃はエリオと瓜二つだったというトーニオは、実際のところ全く似ていなかった。潮風と太陽に晒され続けた皮膚は燻されたように色濃く、荒れてざらざらしている。身長はエリオより高く、痩せていて、骨に筋張った筋肉が絡み付いている感じだ。手足が長くてひょろりとした印象である。
顔は長く、頬はこけ、目は細い。頭は剃り上げているので目立たないが、頭頂部は薄くなっている。エリオのような美形ではないが不細工というほどでもない。
出会った時は、たまたま同じ名前なだけかと思っていた彼こそ、エリオが探していた本物のトーニオなのだった。二人の出会いは本当に偶然で、腐った魚の樽に新しい魚を捌いて入れる仕事を教えてくれたのが彼だった、というだけだ。
年頃の二人は仕事を通じて親しくなった。トーニオの素朴な性格に、タニアが安心感を得たというのもある。やがて彼の家に招かれ、二人で酒を飲み交わしていると、酔った彼が突然エリオの話を始めたのでタニアは心底驚いた。
それで、トーニオとエリオが双子では無かったことも知った。早くからネーロに気に入られていたエリオを利用するため、双子だと嘘をついたらしい。当時は確かに似た顔をしていたが、瓜二つというほどでも無かったという。だが、エリオは何故かそれを信じた。
「エリオには悪い事をした。きっと彼は今も、僕のせいで苦しんでいる」
トーニオはくしゃっと顔を歪めて、涙を流した。
タニアには彼を責める権利も許す権利もないと分かっていた。彼女にできるのはただ、自らの弱さを晒す事だけだ。その晩、タニアは自分の素性を全て話した。そして二人はお互いの弱さを抱きしめて、一つになった――。
「何してるの?」
タニアが問うと、トーニオは積み上げた石を見て答える。
「今日はネーロの命日なんだ」
その積み上げられた石こそ、ネーロという人物の墓標であった。わずかに湿っているのはトーニオが酒をかけたからだろう。
タニアはネーロについても聞いていたので、弔う彼に疑問を抱く。
「悪い奴だったんでしょ?」
トーニオは少し寂しげな目をして頷いた。
「うん……そうだね。最後は病気になって何年もベッドで過ごしたけど、いつもわめいて怒鳴って文句ばかりだった。それ以前も……まあ、いわゆる悪党だったのは間違いないね。でも、最後の時にさ、びっくりするくらい優しい顔で僕に手を差し伸べて〝トーニオ〟って呼んでくれたんだ。まるで初めて名前を呼ばれたような気分だった。思い返しても、お前とかクソガキとか、出来損ないのエリオとか、そういう呼ばれ方しか思い出せないほどだったからね……驚いた。僕がその手を取ったら、〝ありがとうな〟って。それが最後の言葉だった。それで僕は思うんだよ。最初から最後まで全部悪いだけの人間はいないってね」
「……そっか」
タニアは納得した。とても彼らしい答えだ。本物のトーニオは穏やかで善い人だった。
タニアはトーニオの隣に立つと、両手を胸の前で組み合わせて頭を垂れ、ネーロのために祈った。考えてみれば、タニアがここにこうしていられるのはネーロのおかげだとも言える。
ネーロがエリオを生かしたから、タニアはここまで生き延びることができた。
ネーロがトーニオを生かしたから、新しい命を授かることができた。
トーニオの細く長い腕がタニアの肩に回って彼女を抱き寄せ、タニアは彼の痩せた胸に頭を預ける。
「その話、いつかエリオにも教えてあげなきゃね」
トーニオは微笑み、「ああ、その時は三人で」とタニアの下腹部に優しく触れた。そこに宿った新しい命を包み込むように。
そしてタニアも夫の手に自らの手を重ねて、「うん」と頷いた。
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