13.ブラン ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 〈王都の戦い〉が停戦に至っても、ブランには一息つく暇さえなかった。白竜門から見れば裏門にあたる金竜門を確保して脱出したブランは、まずそこで野営地の設営を指示し、自身は応急処置しかしていない顔の傷の治療を受けた。


 仮設した天幕テントの中で簡易ベッドに寝かされ、傷を消毒して縫う間も痛み止めは使わなかった。使えば意識が朦朧としてしまう。レスターとの会談までぼんやりして待つわけにはいかない。


 そうしている間にも、ブランの天幕テントには北方人が引っ切り無しに出入りして、各方面に散って行った。


 この野営地の防衛についての指示、伏せていたアルダー勢への指示、王都内外に残っている味方への指示、そして密約を結んでいるファランティア北部総督バルトルトと彼の軍への連絡など、やるべき事はたくさんある。


 ブランとて痛みを感じないわけではないので、全身から脂汗を出し、発熱もしていた。首から上は燃えるように熱く、延々と殴りつけられているように脈動しているのに首から下は冷気が骨にまで食い込んでいるように寒い。血を失い過ぎたのかもしれない。


 北方連合王国の上位王という立場と人の目が無ければ、ここまで毅然と振舞えはしなかっただろう。


 今後の事について考えていても熱に浮かされて、もっと単純で感情的な思考に流れそうになる。ギャレットとの一騎打ちに破れ、レスターとの戦も分の悪い引き分けに終わった。心身とも苦痛に苛まれ、ふつふつと煮えたぎる怒りが湧き上がってくる。


 だが、怒りで思考を塗りつぶすわけにはいかない。冷静になれ――そう自分に言い聞かせて、集中するよう努力しなければならなかった。


「終わりました、ブラン上位王」


 酷い臭いのする湿布を貼り付け、包帯を巻き終えて治療師のルーヌは言った。さっそくブランが身を起こそうとすると、ルーヌは手をかざして止めようとする。


「いけません、上位王。安静にしていれば、視力が戻る可能性はあります。動いてはいけません……」


 ブランは思わずルーヌを突き飛ばしたくなったが、自制して、軽く押し除けるに留めた。


「そういうわけにもいかん」


 新しい剣を杖のようにして立ち上がると、激しい眩暈に襲われる。ルーヌが慌てて支え、少し待つと眩暈は治まった。身体を支えているルーヌを再度押し除けて、ブランは天幕テントから出た。誰かに支えられなければ立っていられない状態だと思われたくない。


 外は野営地の設営に、ブランの指示を実行するためにと、皆忙しく動き回っている。ブランを見て立ち止まり、頭を下げて行く者はいても話しかけてくる者はいない。今は口を動かしている時ではないと分かっているのだ。その働きにブランは多少の安心感を得た。


 眼前にそびえる王都ドラゴンストーンと、レッドドラゴン城を見上げる。どのような交渉になるとしても、そこはレスターのものになるだろう。悔しさに奥歯を噛み締めると、顔の傷がズキンと痛む。


 ブランは野営地の中を歩き出した。


 荷物を解いて矢を取り出し、矢筒に入れる者。その矢筒を配るために抱えて走る者。馬を使って物資を運ぶ者。テントを一つ設置し終えて次の場所に向かう者たち。火を起こして食事の用意をする料理人――。


 そうした人々の中を通り抜けて、ブランは野営地の外れにある天幕テントまでやってきた。入口の垂れ幕を持ち上げて素早く中に入る。そこには、二人の人間がいた。


 一人は齢八〇を迎えた老戦士で、治療師でもあるスーリだ。ブランの配下では最高齢の人物で祖父の代から仕えているが、正確に言えば、今も祖父に仕えている。ブランに従っているのは、それが祖父から与えられた最後の命令だからだ。今はテントの端で、剣を抱えて座り込んでいる。


 もう一人は枯れ枝のようなスーリとは対照的にでっぷりした女、アデリンである。簡易ベッドに寝かされていて意識はないが、豊満な胸は規則正しく上下している。


「どうだ?」


 アデリンを見下ろしながらブランが問うと、スーリはぶつぶつと答えた。


「毒はほとんど飲み込まなかったようだ。命に別状はない。それと、子は無かった」


「やはり虚言だったか」


 しぶとい女だ――と、ブランは思った。もし子があったなら、その子供ともども始末するつもりでいたのだ。


 その子がフィナン、つまり先代のテイアラン四九世の子であったら、ファランティア王家を継ぐ者になってしまう。ファランティア王国が消滅したとしても、将来どんな厄介事の種になるか分からない。


 もしブランの子であったとしても、やはり殺していた。その子がブランのように成長したら、玉座を狙ってくるかもしれないからだ。


 かつて、ブランがそうしたように――。


 ブランが王位を継いだのは二〇歳の時で、父のオリクはまだ四〇前半の男盛りだった。健康だけが取り得のような人物だったから、何事もなければブランの兄弟を量産し、八〇か九〇まで在位したかもしれない。


 だから、事故死してもらわなければならなかった。


 王子が挑戦権を行使して父王から王位を簒奪した例は、北方では少なくない。だがいかに北方といえども、そのような事が何の禍根も残さず認められる時代では無くなっていた。それに、簒奪が原因で一つの地方が分裂して内紛に至った事例もある。


 オリクの事故死はブランが一人で画策したものではない。むしろ、それを勧めたのは祖父であった。スーリはその件に関わって今でも生きている唯一の人物である。


 ――横たわるアデリンを見ていると、父オリクの最後を思い出す。体型以外に似ているところはまるでないが、事故死させた父の遺体を見下ろしていた時にも隣にスーリがいたからかもしれない。


「ううっ……」


 アデリンが呻き声を上げて身悶えし、瞼をぴくぴくと痙攣させる。それから、ゆっくりと目を開いた。


 最初は眩しそうに目を細めて、何が起こったのか分からないという様子であったが、目の前にいるのがブランだと認識した途端に口を大きく開ける。そこから悲鳴が上がる前に、ブランは素早く動いてアデリンの口を塞いだ。


「声を出すな。殺す気ならもうやっている」


 アデリンは状況を把握しようとするように、見開いた目を激しく動かしていたが、やがて理解したのか首を縦に振る。それで、ブランはゆっくりと手を離した。


「死にそびれたか?」


 アデリンは思い出すように答えた。


「……飲もうとして、口に含んだところで、突き飛ばされて……それで吐いてしまったのかも……」


 恐怖に満ちた目でブランを見上げるアデリン。ブランは努めて冷静に状況を説明する。


「戦いは終わった。ハイマンとモーリッツはお前に背いて降伏し、俺も停戦の申し入れをして、レスターは承諾した。まだ息のあったお前を城から連れ出したのは俺だ。城に残せば、ハイマンたちがお前の首をレスターに差し出したかもしれんし、レスターがそれを要求したかもしれん。分かるな?」


 ブランは誇張して話したが、アデリンは疑う様子もなく頷いた。


「どうして、私を助けてくださったのですか……?」


 正直に答えるなら、腹の中の子ともども殺すためだ。しかし嘘だと分かった今、その必要は無くなった。ブランとて意味なく殺しを楽しんだりはしない。


 アデリンの問いには答えず、ブランはテントの隅に用意した台を指差した。台の上には羊皮紙とペンなどの筆記具が用意してある。


「書面は用意してある。あそこの羊皮紙に自分の手で書き写せ」


「なにを……?」


「内容は、ファランティア王国の北方連合王国加入を承認し、上位王に従うと宣誓するものだ。連合の法では王が不在になった場合、王権は上位王が預かることになっている」


 ブランは辛抱強く説明した。


 ほとんど負け戦と言っていいこの戦いで、今後の交渉を少しでも有利にするためには必要なものだった。だが、アデリンはそうした駆け引きにまで理解が及ばなかったようで、再び恐怖に青ざめる。遺言状を書かせた上で殺すつもりだ、とでも思ったのだろう。ブランは小さくため息をついた。


「お前の命の有無は大した問題ではない。重要なのは〝王権が移動した〟という事実を納得させる事だ。いいか、よく聞いて理解しろ。アルダー地方にリアという古い小さな村がある。母の出身地で、辺鄙な所だが森の中の静かな村だ。今は隠居した母が住んでいる。そこに家を用意してやるから、名を変えてそこで暮らせ。幸いにも北方ではお前の顔はほとんど知られておらん」


 アデリンは目を泳がせてから、小さな声で問う。

「あの……私があなたに王位を譲ると宣言するのでは、いけませんか?」


 ファランティアに残りたいのだろうが、それでは駄目だ――と、その理由を説明しようとしてブランは止めた。アデリンに理解できるとは思えなかったからだ。


 王同士だからといって、王権というものはそんなに軽々しく扱っていいものではない。もしそうしてしまえば、権威は地に落ちる。それに、ブランがアデリンを脅迫してそう言わせたという噂も立つだろう。


 ファランティア王国には王の死以外に王位を移譲する慣習はないし、明文化もされていない。他に方法があるならブランはとうにそれを利用している。アデリンよりもブランのほうがファランティアの法には詳しいのだ。


「アデリン、さっきも言ったがファランティアに残るのは無理だ。レスターがお前の首を必要とすれば持っていかれる。そうならなかったとしても、民はお前を売国奴、裏切り者と罵り私刑にするだろう。生き残る道は一つだ。俺の言うとおりにしろ」


 この脅しは効果的で、アデリンはこくこくと頷くと這うようにして台に向かった。ブランは立ち上がって、スーリに〝目を離すな〟と指で合図する。


「ここからは出るなよ、アデリン。書状は急げ」


 そう言い残してブランは天幕テントから外に出た。


 冷たい北風が吹き寄せる。遠く北方から来る風だ。空を見上げると、北方人には見慣れた灰色の雲が広がってきていた。今夜あたり雪が降るかもしれない。


 雪と寒さが帝国軍を撤退させるという楽観的な予測もブランにはあったが、今年は暖冬で雪の降り出しも遅かった。天空の神ゼフィスもレスターに味方したということだろう。


 ドラゴンが守護していた土地を侵略する軍に、ドラゴンの姿をした神が味方するというのも皮肉な話だとブランは思った。


 見渡せば野営地は着々と組み上がり、篝火が北風に揺れている。戦士たちは声を掛け合い、斥候と伝令が行き来し、まるでこれから戦が始まるかのようであった。


 ブランはそこに何ら違和感などない。

 事実、次の戦いはもう始まっているのだから。

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