11.レスター ―盟約暦1006年、冬、第10週―
「ドラゴンだ……」
空を見上げて、ダンカンがぽつりと呟く。
光のドラゴンはレッドドラゴン城の上を旋回していた。周囲からは怯えるような声が聞こえ、腰を抜かしてへたり込む者までいる。この戦いに決着をつけるべくレッドドラゴン城の正門へ向かっていたレスターの部隊は、その途中で完全に止まってしまった。
逃げ出しそうな気配さえ見せる味方に向けて、レスターは声を張る。
「うろたえるな! 心配はいらぬ!」
兵たちが、すがるようにレスターを見た。
もしドラゴンが話のとおりに全知全能で、ファランティア王国を守るために来たのなら、帝国軍のみならずブランと北方連合王国軍も排除するはずだ――理屈で説明するならそうなるが、レスターはもっと直感的に〝あのドラゴンに敵意はない〟と感じていた。
レスターは味方の前に一人出て、まるで盾になろうとするように両手を広げてドラゴンにその身を曝す。それは、こう言っているように見えたかもしれない。
〝皇帝はここにいるぞ〟
〝皇帝はドラゴンを恐れていないぞ〟
しかしレスターにそのような意図はなかった。
ドラゴンの放つ輝きが、真実を照らし出してくれる――そんな予感がしたのだ。
(私は知りたい……知らねばならぬ。自分が何者なのかを)
そして、レスターは目を閉じた――。
〝ファランティアを守護するドラゴンのように、俺も守護者にならねば〟
レスターの脳裏にサイラスの声が蘇る。まるで目の前にいるかのように。
その言葉どおり、サイラスは常に先頭に立って人々の生活を脅かす魔獣と戦い、最後はレスターの目の前で魔獣の角に貫かれて倒れた。血溜まりに横たわり、死を間近にしてさえ、サイラスは笑みを浮かべ、瞳は希望に輝いていた。
〝レスター、俺は――〟
いつもなら記憶は、そこで靄がかったようになって途切れる。しかし今、ドラゴンの光はレスターの心の奥底まで届き、霞を払って記憶を明らかにする。
〝レスター、俺は――やっと解放される。怖いこと全部から〟
その時レスターは、サイラスの笑顔の意味も、言葉の意味も、全て理解したのだった。常に人々に希望を与え、光り輝いていたサイラスはすべて虚像だったのだと。
ファランティア王国を理想とし、それを守護するドラゴンを理想としたサイラスは自らもそうあろうとした。それが王としての重責をより重いものに変え、自分では理想を体現できないかもしれないという恐怖を生んだ。それらは日々大きくなっていったに違いない。
戦いの前に濃いコーヒーを飲んだのは、恐怖を和らげるためだ。
常に戦いの先頭に立ったのは、死によって恐怖から逃れるためだ。
レスターはサイラスを真の王、真の英雄と信じていた。彼はいつも光り輝く、完璧な存在であるはずだった。
しかし今、目の前で死にゆく彼は苦しみから逃れられると喜んでいる。
魔獣に怯える民を残していく事にも、王という重責をこれから一人で担うレスターを残していく事にも、なんの未練もないという顔をして、自分一人だけが楽になれると喜んでいる。
レスターのサイラスは、最後の瞬間まで完璧でなければならなかったのに。
「ああーッ!」
レスターは絶叫した。
生まれて初めての激高。裏切られた、裏切られた、裏切り者め――声にならない叫びを上げて、レスターはサイラスの顔面に何度も蹴りを入れた。すっと通った鼻筋がぐしゃりと砕けて折れ曲がり、端正な顔が血にまみれて歪んでいく。
それでもサイラスは笑っているようだった。
嬉しい、ぐしゃり、嬉しい、ぐしゃり、もっと早く、ぐしゃり、少しでも早く、ぐしゃり、死にたいんだ、ぐしゃり――。
我に返った時、レスターは足元で死んでいるサイラスを見下ろしていた。いつの間にか周囲には味方の騎士や兵士がいて、王の死を悼んでいる。サイラスにとどめを刺したのがレスターだと気付いている者は一人もいない。
「整った顔立ちをしていらしたのに……」
そう言って、騎士の一人がマントを外し、顔が潰れたサイラスの亡骸を覆った。
――ドラゴンの放つ光が照らすのは記憶だけではない。レスターの影をも、くっきりと描き出す。
レスターはあの時、不思議な胸の高鳴りを感じていた。
下腹部が熱を帯び、頭の芯が痺れるような――悦び。
この世界には真に美しいもの、完璧なものなど存在しない。どんなに美しく崇高なものも、その内に醜く低俗なものを秘めている。美しい虚像を引き裂き、踏みにじり、奪い去って、醜さを暴き出し、白日の下に晒す。それこそが、最高の愉悦をレスターに感じさせてくれる。
彼は今、それが自分という人間なのだと、はっきり自覚した。
ファランティア併合を考えたのはサイラスだ。ドラゴンの守護を失ったファランティア王国を守る事ができれば、それは自身が理想とした守護者になった証になる。
だからレスターは、彼の愛したファランティア王国を引き裂いて踏みにじってやったのだ。
サイラスはファランティアを傷つけるつもりなどなかった。
だからレスターは、戦いを長引かせて傷つけてやった。死と恐怖、荒廃によって穏やかな文化人を気取るファランティア人の仮面を剥ぎ取ってやるのだ。サイラスが理想とした民の本性を暴き、白日の下に晒すのだ。
サイラスという虚像を引き継ぎ、それを完璧なものにしようとするあまり、レスターはそんな自らの闇を隠そうとしてきた。自分自身からも。
それを今、彼は取り戻して、歓喜のあまり打ち震えた。
今やサイラスよりもずっと美しく、強く、光り輝く存在となった自分の中にこれほど醜く暗い本性が潜んでいたとは。
レスターへの信頼と依存、尊敬と崇拝が最高潮に達した瞬間に、人々の前でこの光の仮面を剥ぎ取り、その下に隠された暗い情欲と醜い自分を見せてやりたい。裏切られた思いに、狂わんばかりの怒りと悲しみに、激情に歪む人々の顔を見てやりたい。
かつて兄サイラスが、自分にそうしたように。
それはこの上なく甘美な瞬間となるだろう。
だが、今ではない。今はまだ早い。アルガン帝国が大きくなればなるほど、レスターを崇拝する人間が増えれば増えるほど、その味わいは格別なものとなろう。
それまでは、光の仮面をより美しく磨き上げねばならない。一時の情欲を満たすために曇らせてはならない。より理想的な皇帝として光り輝くのだ。
やがて来る、最高の瞬間のために――。
ドラゴンの咆哮が響き、レスターは生まれ変わったような気分でゆっくりと目を開いた。飛び去って行くドラゴンが見える。やがて夜空に瞬く星のように遠く彼方の輝きとなって、ようやくドラゴンが戻って来ないと確信できたのか、兵士たちは皇帝を守るように集まってきた。
ここぞとばかり、レスターは穏やかに微笑む。
「心配いらぬ、と言っただろう?」
兵士たちの目に次々とレスターへの尊敬の念が表れていくのを見て、彼は僅かに口元を歪ませた。その暗い笑みに気付いた者はいるだろうか。
そこへ兵士の集団を割って、両側から騎士に挟まれた若い北方人が姿を現した。武具は身に着けておらず、テストリア大陸で使者を表す黄十字の旗を持っている。騎士はダンカンに事情を話し、ダンカンはレスターに報告した。
「皇帝陛下、この北方人はブランよりの使者だと申しております」
「北方連合王国の上位王であらせられるブラン――っ!」
そう言いながら前に出ようとした北方人の膝を、騎士が後ろから剣の鞘で叩いた。
「跪け、野蛮人! 皇帝陛下の御前であるぞ!」
北方人はつんのめって地面に膝を付き、振り向いて騎士に歯を剥く。
その時、周囲の人々が、あっ、と息を呑んだ。
レスターが自ら前に進み出て、その北方人に手を差し伸べたからだ。
「ブラン王からの親書であろう?」
護衛の騎士たちは慌てて動こうとしたが、レスターは彼らを手の一振りで制する。それでも、騎士たちの役目を考えれば無理やり割って入るべきところだ。しかし彼らはレスターが向けた微笑みで、呆けたように動きを止めてしまった。
若い北方人は膝を付いたまま、毒気を抜かれたような顔でレスターを見上げていたが、我に返って静かに巻物を差し出す。レスターはそれを受け取り、金属の輪を外して巻物を開いた。それは停戦の申し入れであった。
ブランのほうから停戦を申し入れてくるとは予想しておらず、レスターは穏やかな顔を維持したまま密かに葛藤した。ブランはレスターを悦ばせる良い獲物になる。しかし、第二、第三の〈
それに、ここで使者を殺して停戦の申し入れを無かった事にし、戦闘を継続するのも難しい状況になっている。先ほどまで騒乱の最中にあった王都は、今やすっかり静まり返っていた。光のドラゴンの出現に、誰もが目を奪われて戦うのを止めてしまったのだ。気を殺がれる、とはこういう事を言うのだろう。
(ここまで、か)
レスターは停戦を受け入れると決めた。
こうして〈王都の戦い〉は終結し、ファランティア王国は滅亡した。
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