10.ロランド ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 王都ドラゴンストーンの壁の外、白竜門と黄竜門の中間あたりに設置された小さな天幕テントの中で、ロランドは一人横たわっていた。後方にいることもできたのだが、最後まで指揮を執ると宣言した以上、そうするわけにはいかなかったのだ。


 しかし結局、その宣言は嘘になってしまった。


 ロランドにできたのは、「出陣せよ」と枕元に控えたベルナルドに囁く事だけだった。彼には昨晩の内に可能な限りの指示を与えたが、それで指揮しているとは言えない。


 戦いが始まった頃は近くに聞こえた戦争の騒々しさは、時と共に離れて行った。今では指揮所も白竜門に移動してしまったので、ロランドの寝ている天幕テントとそれを守る少数の兵だけが取り残されている。


 しかし、天幕テントの外にいる兵たちに緊張した様子はない。洩れ聞こえる会話の内容からも、帝国軍の勝利は確実な状況だと分かる。


 ロランドが唯一心配していたのはレッドドラゴン城からの見晴らしの良さだった。帝国軍の配置が全て、本陣から後方部隊まで見渡せてしまう。その利点を利用できる人物がファランティア側にいるなら、本陣にいるレスターを強襲する、あるいは暗殺を狙う事も考えられた。


 しかし、そんな心配をしていられたのも戦いが始まった頃までで、今のロランドにそんな余裕はない。


 天幕テントを見上げる目は何も見ておらず、ひゅうひゅうと擦れた呼吸音を漏らすだけだ。彼の内部では、焼けた石が詰め込まれたような激しい苦痛による〝痛い、苦しい〟と、それでもなお威厳を保とうとする〝耐えろ〟の二つの思考だけが渦巻いている。


 先祖代々受け継がれてきた悲願――再びテッサニアを統一し、王位を回復する――も、そのためにしてきた全ての事も、希望も、失われてしまった。


 昨晩、エリオに託したものが希望ではある。エリオならロランドの命令を果たしてくれる可能性は高い。だが、テッサニア王の証である指輪を、何も知らない娘が受け継いだとしてどうなるというのか。


 ロランドは妻と娘にさえ、自分がテッサニアのロランドである事を秘密にしてきた。娘を産んだ女は、ロランドがテッサの豪商で、自分は愛人に過ぎないと思っている。二人の存在が本国の妻に知られると困るので、口止め料のつもりで養育費を払っている、と思っているはずだ。


 エリオに命じたのは〝指輪を渡す事〟だから、無理やり娘の手に指輪を握らせて立ち去ってしまうかもしれない。もし時間をかけて事情を話し、納得させた上で指輪を渡したとしても、テン・アイランズで生まれ育った名も無い娘に何ができるだろう。


 全ては無駄に終わった――。


 〝痛い、苦しい〟と〝耐えろ〟の狭間にある、その喪失感がロランドを最も苦しめていた。


 ――ふと気づくと、周囲が静まり返っている。戦いが終わったにしても、おかしな静けさだ。〝痛い、苦しい〟と〝耐えろ〟に支配されていた思考も自由になっている。生きながらに内臓を焼かれるような激痛も感じない。


 ほとんど動かなくなっていた四肢を恐る恐る動かし、ロランドはゆっくりとベッドから起き上がった。


 死の直前に、人を全ての苦痛から解き放つため客人まれびとの神がその御手で触れる――七大神の司祭はそう言うが、ロランドは信じていなかった。


(もしや、これがそうなのか?)


 毛布を身体に巻きつけて、天幕テントから外に出る。


 外は確かに静まり返っていた。天幕テントから出てきたロランドを見る者さえ一人もいない。全員が空を見上げて、ぽかんと口を開けている。


 彼らの視線の先、王都の上空に光があった。それは翼をはばたかせ、光の軌跡を描きながら、レッドドラゴン城の上を旋回している。


 それは光のドラゴンだ。周囲の兵たち同様に、ロランドもそれに目を奪われた――。


 旋回する光の軌跡が円となり、光の輪になり、王冠になった。


 まだ若い誰かの指が王冠を左右から支える。


 その指にはエリオに託した指輪が鈍く輝いている。


 視界は徐々に広がって、精悍な顔立ちの、どことなくロランドに似た若者が見えてきた。鎖帷子チェインメイルの上から軍衣サーコートを着て、マントを羽織り、王冠を自らの頭上に掲げている。衣装に描かれた紋章は古のテッサニア王国のものだ。


 若者の立っている場所が、テッサ城にある大広間の玉座だと分かった途端に、彼を讃える声が聞こえ始める。


 大広間はテッサニア王国の紋章が描かれた旗で飾られ、たくさんの人々に埋め尽くされていた。そのほとんどは鎧を身に付けた騎士のようである。ただ、ロランドの常識から言えば彼らはみな軽装で、甲冑を身に付けている者は一人もいない。鎖帷子チェインメイルや、部分的に板金で補強された革鎧レザーアーマーばかりだ。腰に剣はあるものの、手には槍ではなく四フィートほどの細長い鉄の筒を持っている。


 若者が王冠を頭に乗せた瞬間に、歓声は最高潮に達した。


 彼は人々が歓声をあげるに任せていたが、しばらくして手を挙げて静める。


 若者の勇ましく瑞々しい声が大広間に響く。


「我が一族の正当な権利は、今ここに回復された。それはひとえに我が父、祖父、曽祖父、連綿と続いてきた当主たちの命を賭した努力、そして何より、この場にいる皆の忠誠心と働きによってである。これよりは、今まで以上に困難な道のりとなるであろう。だが、この瞬間だけは、ただ喜びに浸ることを許して欲しい」


「テッサニア王万歳、テッサニア王国万歳――」


 人々は連呼し、若者は笑顔でそれに応えて――。



 ロランドが倒れたことに、周囲の誰も、彼自身すらも、気付かなかった。生前には決して見せることのなかった穏やかな笑みを浮かべ、夢を見ながらロランドは静かに逝った。


 そして、彼は〈王都の戦い〉における最後の死亡者となった。

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