7.ハイマン ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 レッドドラゴン城正門の上に出るため、ハイマンは門塔の中の細い階段を上っていた。階段に窓はなく、一番上にある扉からもれる僅かな光と、蝋燭の火だけが頼りだ。


 これで良いのか。本当にやるのか。主君を裏切るのか――もはや決心した事であったにも関わらず、ハイマンは何度も自問を繰り返した。


 思えばずっと、暗闇の中を歩いてきたような気さえする。勝てる見込みのない戦いを強いられ、無駄に兵を犠牲にした。それが愚かな事だと分かっていながら、目を瞑ってきた。


 正門の向こうからは帝国語の号令が漏れ聞こえてくる。


 ハイマンはそれなりに帝国語が理解できるので、その意味が分かった。これから始める攻撃を前に整列を促しているのだ。


 対して正門のこちら側、すなわち城内は戦々恐々として静まり返っている。


 扉を開けて正門上に出ると、その状況はよりはっきりした。胸壁の狭間から覗けば、眼下には帝国軍がほぼ整列を終えて何かを待っている。


 ハイマンは大きく息を吸い込み、敵軍へと届くよう大声を上げようとして、躊躇った。


(これは主君に対する裏切り行為だ。私は国を滅ぼそうとしているのだ――)


 しかし、それも一瞬の事だ。


(――いや、この国はもう滅んでいるのだったな)


 ハイマンは帝国語で敵軍に向けて呼びかける。


「アルガン帝国軍の指揮官に告げる。私はファランティア王国軍の全指揮権を預かるハイマン・ストラディス将軍である。我が方には降伏の意思がある!」


 ざわめきはアルガン帝国軍ではなく、ファランティア王国軍から起こった。帝国語を理解するファランティア人は少なくないが、寝耳に水という感じなのだろう。ハイマンは気にせず続ける。


「降伏した後、戦闘員、非戦闘員を問わずファランティア人を害することがないように求める!」


 ファランティア軍のざわめきがますます大きくなった。怒りの声は少なく、安堵の声もあるが、多数はまだ混乱しているという雰囲気だ。


 しばらく待っていると、静まり返った帝国軍から一人の騎士らしき人物が歩み出てきて大声で答える。


「ハイマン将軍、私はこの第一陣を指揮するダグラスという者だ。降伏するというのなら、その証として開門し、武器を放棄せよ!」


「ファランティア人を傷つけない、という保証が先だ!」


「降伏の申し入れをしているのはそちらではないか。開門して武器を放棄せぬ限り、こちらとしても信用できない!」


 ダグラスは、まるでハイマンがそう答えると分かっていたかのように即答する。


 戦ったところで負けは見えているのだから、開門するしかない――そうハイマンが決心しかけた時、モーリッツの声がした。


「開門してはいけませんよ」


 ハイマンが驚きに目を丸くして声のしたほうを見ると、胸壁の影にモーリッツが立っている。


「モーリッツ……いつからそこに……いや、なぜ、何をしている?」


 困惑するハイマンに向かって、モーリッツはいつものようにゆっくりと禿頭を下げた。


「交渉事ならば、私の出番かと思いまして」


 ハイマンはまるで奇妙なもののようにモーリッツを見ていた。その視線を意に介さず、やはりいつもどおりのふてぶてしさでモーリッツが進言する。


「開門は早すぎます。そもそも、最前線の指揮官に降伏を受け入れるか否かという選択権など、あろうはずがございません。まずは使者を送り、それが受け入れられるか見るべきでしょう。使者が斬られるならそれまで。受け入れられるなら、返答あるまで時間が稼げましょう。今なら、裏の金竜門はブラン上位王陛下の北方兵が維持してくださっているはずです。女性や非戦闘員を逃がすくらいはできるでしょう。もっとも、城から逃げおおせたところでその先どうなるかは私にも分かりませんけれども」


 いつもよりは早口に、しかし、この状況下としてはのんびりした口調でモーリッツは話した。その間にハイマンも少しずつ平静を取り戻す。


「使者か……」


「はい。もちろん、私が参りましょう」


 モーリッツは最初からそのつもりでここにいたのだ――と、ようやくハイマンは理解した。


「まず間違いなく斬られると思うが」


 モーリッツは微笑んで答える。


「この戦い、ハイマン将軍はよくおやりになりました。確かに、帝国軍の勝利は間違いありませんけれども、まったく被害がないというわけでもありません。その上で、なお戦闘を継続して被害を出す必要性を、私なら感じません。今なら交渉できる可能性は五分五分、というのは楽観的過ぎるとしても、三割くらいはあるでしょう。このままここにいれば確実に死にますから、三割の可能性で生き残るほうを選ぶのは、全く理に適った選択ではありませんか?」


(弁では勝てぬか。忌々しい奴め)


 ハイマンは顔をしかめた。


 周囲にいる兵たちもこの会話を聞いている。モーリッツ以外に適任者はいないと誰もが感じてしまったに違いない。ここでハイマン自身が使者になるという選択肢は無くなってしまった。


「わかった……」


 ハイマンは悔しさを隠せずに言った。モーリッツが満足げな笑みを浮かべて、「では、使者の役目はお任せください」と頭を下げる。


 最後にそのふてぶてしい顔を見てやる――そういうつもりで、ハイマンはモーリッツの頭を睨みつけて待った。顔を上げたモーリッツは、ハイマンが予想していたとおりの顔をしていたが、何かに気付いたように視線を上げ、そして目を丸くしてあんぐりと口を開く。


 モーリッツが驚く顔を見るのはハイマンの密かな願いであったが、このような場面でそれが叶うとは思ってもみなかった。そして何事かと振り返り、ハイマンも同じように驚愕の表情になった。


 光のドラゴンが飛来したのだ。

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